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石原吉郎コミュの今日読みました

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今日読んだ石原吉郎の詩について、語りましょう(^-^)

コメント(34)

おはようございます(^-^)/

★位置

一言、凛々しさを感じます。

同時並行で進みますね。
広がりますね。いい紹介ができるといいですが。
>孤穴の孤児さん

はい。日記、楽しみにしています(^-^)

孤穴の孤児さんのおかげで出会えた詩人ですし、これから大事に味わっていきたいと思います。

おはようございます(^-^)/

★事実

うーん。ちょっと難しい。。(笑)

<そこにそうしてある>ものとは、読者ひとりひとりのことなのかなぁ。自分の存在を凝視せよ、ということなのかなぁ。

<コップを踏みつぶし>から<厚い手のひら>までのところが、難解に感じました。

この表現の意味するところや、意図が、うまく汲み取れないというか。。

繰り返される<見ろ>に、何か「決然と生きろ」みたいな力強いメッセージを感じました。
[酒が飲みたい夜]
『 石原吉郎』
酒が飲みたい夜は 酒だけではない
未来へも口をつけたいのだ
日の明け暮れ うずくまる腰や
夕暮れとともに沈む肩
血の出るほど 打たれた頬が
そこでもここでも まだ火照っているのに
うなじばかりが 真っ青な夜明けを
真っ青な夜明けを待ち望んでいる
酒が飲みたい夜は ささくれ立った指が着物のように着た夜を剥ぐ
真夜中の大地を 掘り返す
夜明けは誰の 葡萄の一房だ
酒が飲みたい夜は 酒だけではない
未来へも口をつけたいのだ
日の明け暮れ うずくまる腰や
夕暮れとともに沈む肩……………………以下著作権の関係で略

こんな凄い詩は唯一石原吉郎しか書けない!
田村隆一のウイスキーでは、上記の詩は書けないでしょうね、☆ヘッポコ☆さん。
おはようございます(^-^)/

★棒をのんだ話

かっこいいなぁ。

何かあまりいろいろ言うより、男らしくてかっこいい、その一言で十分だというような、そんな気持ちになりました。

散文では表現しえないかっこよさだと思いました。
石原吉郎さんの「告発」の断念によって書かれた詩について日記に書きました。よろしければどうぞ。
★食事

これはどうしてもひっかかる作品。

・契約

・陰惨な継承

・くらい根拠

・哀切をきわめた
 儀式

という言葉たちによって、

食事というものと生命というものの間に横たわる何物かを、見せてくれているような気がしてなりません。

いつも目に留まる作品です。
1959年から1961年までのノート。

おもしろい、という言いかたじゃ、いまいちしっくり来ないんですが。。

魂がからだから引っ張り出されたような気分になりました。

すごくいい。

こんな文章に出合いたかったんだ。

★決着

***

決着のむこうの

まっさおなやすらかさ

いっぽんの指の影も

そこをよぎってはならぬ

***

張り詰めた静謐を感じる。やすらかなんだけど、ギリギリなんだ。

精神が、なにかのおわりと、おわったあととの結び目のところで、力強く、でも力ずくでなんとか(足はガタガタと震えているかもしれない)立ちおおせている、という感じだ。

何かを断念しているからこそ、断言できることがあるのだと石原さんの詩は言っている気がしています。再読が詩の醍醐味ですね。
ちょっと趣きが違うかもしれないが、石原吉郎の別の面がみえる、俳句を一句。

チェロの腰しまりて秋の情事かな

>Little Seoulさん

また趣が違って・・・いい句ですね。

石原さんの句集などが出版されているのでしょうか?

恥ずかしながら、現代詩文庫しか持っていないので。。しかも、「続」も買っていない(>_<)
★白夜

他の作品、キリキリとした生命の苦闘のようなものとは違って、キリスト教的な安らぎの世界を感じました。

時間などに囚われず、神の御胸に抱かれて、季節の移ろいに身を任せる・・・夜に抱かれて眠りたいです。安らかに。

★岬と木がらし

黙読して、それから朗読してみました。

木がらしが吹き抜け、気まぐれに行き先を変える。おれは(やつも)それを聞いている・・・

荒涼としたものの中に意志が立っている、という感じ。

しかしどこか肩透かしを食っている気にもなる。わかるようでわからない、でも人間が内面に秘める激しさのようなものは伝わってくる。。

★慟哭と芋の葉

これはすごい詩。何度も何度も「引返してくる」んだけど、ああ、引き返してくるのはぼくだなぁ、ぼくは前に進めてなんかいやしない、ああでもないこうでもない、苦悶とも言えないような鈍い苦悶を抱えて右往左往するばかりだ・・・でも、そこに、苦悶とも呼べないような薄い苦悶に、悲しみ、苦しみが確かにあって、それがこの詩には表現されているんだなぁ、と思った。

目が離せずに、一気に何度も読んでしまいました。

どんどん書かれますね。解説集ができます。
>孤穴の孤児さん

青二才の素人読みで恥ずかしいのですが(>_<)・・・自分なりに、石原さんの詩と真剣に向き合っているつもりですので、ご勘弁ください。

***

★さびしいと いま

さびしいと言ったのは、この詩における主体なのではないか、と思った。

表面上、主体以外の他者に向けて放ったことばであるかのように書かれているが、つまるところ(そういう手法が採用されていることも含めて)それは主体が持つさびしさゆえなのではないだろうか。

おまえはさびしいんだろう、と言ってみせることで、主体自身のさびしさがより強調されているように感じた。深い孤独を感じた。
いや、どんどんやってください。私もときどきは参戦できるようにしたいです。
>孤穴の孤児さん

あたたかいおことば、ありがとうございますm(__)m

これからも、自分なりに読んでいきたいです。
★狙撃者

最後まで読み通して、最後の最後、

***

銃口は

永遠にめざめている

そして引き金はもう

どこをさがしても

みあたらない

***

というところ、特に最後の3行に、「詩」を感じた。

狙撃される緊迫感・・・しかし引き金はないのだ。あるいは、引き金はもう引かれてしまったのか?書き手は死んだのか?

違う。そして、もはや引かれることのない引き金によってもたらされるのは、「もう狙撃されることはない」という安堵感ではない。書き手の生命そのものに向けられた銃口・・・それは、永遠に向けられている。それは書き手の生命を凝視し、時に金縛りに遭わせ、戦争体験という解かれることのない呪縛を、象徴しているのではないだろうか。
★酒がのみたい夜

不可解なダンディズム。セックス・アピールにはいつだって少なからず解明できない<不可解さ>が含まれている。この詩には純度の高い<不可解さ>が含まれている。言葉に酔ってしまいそうだ。酔いたい夜に読みたい詩。
★いちまいの上衣のうた

まっすぐであったかくてつつみこむようででもひとりで、歩いてゆくのですね。孤独は時に清々しい。夕暮れの向こうに、あなたは何を見るのですか。ぼくもいちまいの町を歩いていきます。瞳をカッと開いて。
★病気の女に

読んでいて、ちょっと根本的に読めていないかもしれない、という疑惑を抱きました、自分に対して。

病気の女を硬派な男がぶっきらぼうに励ましている。愛しているんだけど、「愛しているよ」とは言えない、そんな男の愛の歌。硬質な感じだけど、それは本当に元気になって欲しいんだという寡黙な男の(女や神に対する)哀願であるように思えた。
★河

海へと流れる悠々とした河の流れ。でも河は海とは一体にならない。それは社会に飲み込まれてしまわないぞ、社会と一体にはならないぞ、社会とは隔絶されたところに自分はいるんだ、という「個」の表明であるようにも思える。

そして、河(「個」)は「ふたすじの意志」で、海よりも雄大に、海を流れる(あるいは時々流される危機に直面することもあるかもしれない)。

「河」(「個」)が「ふたすじの意志」に分裂してしまう・・・というところが、この詩で一番気になったところ。個人が、内面において2人に引き裂かれていく・・・この詩に何を託したのだろうと思った。
★夜盗

この疾走感がたまらない。夜盗は白昼まで駆け抜ける、「ときに条理にささえられて」。

夜盗にも<条理>がある。ぼくたちに<条理>があるように。ぼくも夜盗かもしれない。前途は見えず、歩みは遅々としているが、ぼくも駆け抜けたい。夜盗でありたい。
★木のあいさつ

すっとして、いいですね。

朝、清々しい空気を肺いっぱいに吸い込んだ後、読みたい詩です。

緑豊かな温泉街の宿で、二階の部屋の窓を開けて(笑)、深呼吸をしてから読みたい詩です。

小川のせせらぎ、鳥のさえずりも聴こえるといいなぁ。
★橋をわたるフランソワ

何回か声に出してみた。不思議な響きが残る。フランソワがなにもので、どこに行ってしまうのか、気になる。気持ちがざわつく。声に出す。響く。その繰り返し。。

橋は身じろぎしない鉄橋か。何回も読むにつれて揺れているように思える。でも確かではない。橋が揺れているのではなく、読んだ後の余韻・・・残響が、画面を揺らしているのかもしれない。

フランソワは何か確固たるものであるように思えた。確固たる意志、か何か。読むぼくは不安定な土台に立たされてしまったかのような気分になった。ぐらぐらしている。どうしてなのか、わからないけれども。
今日は詩ではないのですが。。

『対談集 海への思想』(花神社・1977)より、鮎川信夫さんとの対談「生の体験と詩の体験と」

この対談を読んで、ぼくは、

1.戦争について、犯罪者と自分を明確に区切って告発してしまうのは嘘だと思う、告発するのなら自分自身についても告発しなければならないはずだ、

2.戦争には、絶対にどうしようもない部分とは別に、最終的に自分で決断して積極的に行動した瞬間があるはずで、その部分については自分が責任を負わなきゃいけない、

3.戦前と戦後は個人の体験としては繋がっているので、この国が、何か戦前から切り離されたものとして戦後ポカンと始まったというのは絶対に嫌だ

という3点が印象に残りました。3点目は鮎川さんのコメントですが。

ようするに、ぼくらの世代というのは実体験としての戦争というものとは切り離されたところで生まれたわけなんだけど、何も戦争に限らない話であって、今日で言えば例えば政治について、ぼくらの世代に限らずいまの一般国民がどこまで「自らの政治責任」について自問しているのか、といったことを考えました。

「告発」ということで言えば、ぼくらは絶えず権力者を告発(とも言えない、嘲笑とか倦怠がないまぜになったようなもの)の眼差しで見咎めて、現在の社会状況がこういう荒んだものになっていることの責任は権力者たちにあるんだ、という安置な結論を出してしまいがちなんじゃないかと思うんですけど、それでいいのかということですね、そういうことを思いました。

あとは、日常性ということ。戦争で死ぬだろうということになっても、日々の暮らしはなんてことない日常そのものだ、という。これも印象的でしたね。戦争に生きる人々の心境というのは何か狂乱状態というかそういうものではなくて、極めて冷静なというか、のっぺらとした日常でしかない、というような。今日、政治がおかしな方向に転がって、仮に戦争のような事態に立ち至ったとしても、国民は「ああそう」という感じで日常を生きていくのかな、と、そういうふうに思いました。
今日も詩ではなく。『断念の海から』の「私の詩歴」、「「ロシナンテ」のこと」を読みました。

ひとりの詩人の出発がどのようなものであったかを本人自らが記したものによってたどることは、少なからず気持ちの高ぶりを覚える体験なのだと知りました。

読んだ直後で色々書けませんが、ぼくも出発しよう、と思わせてくれました。
『断念の海から』に収録されている鮎川信夫さんとの対談『断念の思想と往還の思想』。

鮎川さんが、「私流の石原さんの告発せずという思想の受け取り方というのは、それも一つの告発だと受け取るんですよ。「告発せず」という形をとった告発だというふうに、受け取ることがあるわけです。」とおっしゃっていて、そうだよね、と思いました。

断念、というのが石原さんのキーワードだけど、やっぱり、「断念していると表明する」という行為には、完全には断念していないんだ、という気持ちが込められているんじゃないかと思いました。本当に、完全に断念しきっているということであれば、詩を書くことさえしないのではないか、と。

『断念の海から』では、『詩と信仰と断念と』が特に興味深かったです。どうして詩を書き始めたのか。「ただ呼吸困難な状態を辛うじて救うための最小限の表現手段として」詩を選んだ、と。

その前段として、「伝達というものをほとんどあきらめているようなところがあって、」とあって、やはりそこには、「完全な」断念ではなく「ほとんど」あきらめている、という、そういう、かすか希望のようなものが余白として存在していて、それで詩を書き始め、また書き続けたのだろうと、そう思いました。

はじめまして。
今日だけでなく、常に耳について離れぬ石原吉郎さんの詩は
伝説、

きみは花のような霧が
容赦なくかさなりおちて
ついに一枚の重量となるところから
あるき出すことができる
きみは数しれぬ麦が いっせいにしごかれ
やがてひとすじの声となるところから
あるき出すことができる
きみの右側を出て
ひだりへ移るしずかな影よ
生き死にに似た食卓をまえに
日をめぐり 愛称をつたえ
すこやかな諧謔を
銀のようにうちならすとき
あるきつつとおく
きみは伝説である

特に最後の6行は、なんともいえません。

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