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YKC(横須賀国語サークル)コミュの波郷の俳句について/前回の教材から。(追加)

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指でOK前回の教材で、石田波郷の俳句の解釈について意見です。
文章論的には話者は「大人」と解釈しても良いとは思います。
ただ今の中学生あいてに、大人と言ってもピンとこないのでは。
子どもを持つ親たちの愛情と教えた方が良いと思います。
その証明として作品論です。→作品論的にも石田破郷は「人間派探究」派です。彼の人生を調べました(資料2・3)を読むと、彼は自分の息子の誕生でこの俳句を作りましたとあります。
□資料4・5・6追加しました更に根拠については→と絵文字入れました。

(HPより)資料1
真っ青な海を向こうに雀の群れが飛ぶ
手前には風に泳ぐ鯉幟と五色の吹流し
雀らは子供たちの象徴だ

吹流しは鯉幟の上で泳いでいる顔の無い鯉幟。海際
の強い風の中を雀たちが風に逆らって飛んでいるのでしょう。作者は「海かけて飛べ」と命令に近い応援をしています。石田波郷は人間探究派と呼ばれる俳人。人間探究派とは俳句に自己を詠み込もうと試みたグループです。彼の結核療養中の俳句は俳壇を越えて同病で苦しむ人達の共感を得ました。この句も雀に作者の自己投影を読み取る
ことが可能です。


資料2

戦争と病苦 [編集]
第二次世界大戦中は、俳句固有の方法と格調を元禄俳句に探り、古典と競う俳句一途の決意を深めた。1942年3月、縁談の人、吉田安嬉子(本名せん)と初めて会い、同年6月27日九段軍人会館にて結婚挙式。1943年5月19日、長男修大(のぶお)が誕生し、同年6月、浦和市本太後原2145の岳父の家作に転居する。同月、未召集兵教育を受ける。波郷の禍福は9月23日、30歳で召集されたことに始まる。月末、千葉佐倉連隊に入隊し、10月初旬、華北へ渡り、山東省臨邑に駐留する。1944年、元旦を不寝番兵として迎える。同年3月、左湿性胸膜炎を発病、陸軍病院を転々とし、1945年1月22日夕刻に博多に帰還する。同年3月9日、安嬉子と修大を伴い北埼玉樋遺川村に疎開する。6月17日兵役免除となり、8月15日、盆休みの農家の庭先にて終戦の玉音放送を聞く。この頃より病気が再び悪化、以後、1969年に死去するまで、手術と入退院を繰り返す。


生をかみしめる秀句 [編集]
しかし波郷は、病気との闘いを通して、生をかみしめ自分を見つめる数々の秀句を詠みついでいった。1946年1月、妻子を伴って上京、葛西の吉田勲司宅に仮寓。同年3月10日、江東区北砂町1-805に転居。3月15日、長女温子(はるこ)が誕生。9月、綜合雑誌『現代俳句』を創刊、編集に当たり、1947年11月には現代俳句協会の創立など、俳壇の再建に尽力する一方、焦土俳句を経て、1950年6月に刊行された『惜命(しゃくみょう)』は、子規を先駆とする闘病俳句の最高傑作と位置付けられている。「俳句は生活そのもの」とする波郷は、『ホトトギス』の「花鳥諷詠」に対する「人間探求の」俳句を深化させることに成功した。その後、病苦を乗り越え人生の日々を静かに凝視した句境を格調正しい表現によって詠み続けたが、1969年11月21日、肺結核で病没した。

(資料3)
◎長男の誕生に触発されて,作った句である。→指でOKここです
 小さな体で力一杯大空へ飛びあがる。その自由さを,わが子にもと思ったのであろう。
 句碑は,波郷の出身地の垣生中学校体育館横に,自筆拡大,自然石に刻まれている。昭和55年(1980)設置。

(資料4)追加
波郷とあき子 十七文字のラブレター」2008年8月31日の再放送です。

「これは夫婦が紡いだ俳句の物語です」。あき子も俳句をおぼえ、夫への思いを綴るようになる。破郷は最晩年、妻の句集「見舞籠」の製作にとりかかる。原稿の最終チェック完了「あとがき」を書くばかりとなった時に、この世を去る。

「波郷とあき子 十七文字のラブレター」
 もし来世があるなら、健やかにありたいとの願いをこめる。
生きることへの渇望を率直に詠った破郷が、17文字に命の重みをきざみて
  今生は病む生なりき 鳥頭 (石田波郷)
       今生(こんじょう) 生(しょう) 鳥頭(とりかぶと)

石田破郷( 1913年〜1969年)の人生は、結核との闘いでした。

   唇にのぼれる朱や 春の雪

 ○ 俳句を志し、18歳(昭和7年)の時、故郷松山から上京。
 水原秋櫻子に才能を見出される。
 俳句結社「鶴」の主宰となる

    プラタナス 夜もみどりなる 夏は来ぬ

○結婚(昭和17年)破郷29歳
  あき子は自立心の強い女性、両親からの見合い話には、興味をしめさなかった。「破郷は金はないけど将来有望な俳人になる。しっかり勉強さしてくれる女性を探しています」との知人が持ち込んだ見合い話に、あき子は興味をもち、破郷と結婚。

   新娶 まさをき梅雨の 旅路かな  
         新娶(にいめとり)

○戦場に行き、結核におそわれ帰国。
 
  <留別>
  雁や 残るものみな美しき  
 
 <一子 修大に)
  秋の風 萬の祷を汝一人に

        祷(いのり)  汝(な)
○昭和22年「現代俳句協会」を立ち上げる。

○昭和23年結核再発 (2回の手術でも結核菌は消えなかった)
 絶望の中で俳句づくりにのめりこむ。
  
 希望は褪せぬ 冬日にかざす痰コップ

  褪せぬ(あせぬ)
 
 雪はしづかに ゆたかにはやし屍室

 七夕竹 借命の文字隠れなし


   望みは「生きること」ただそれだけ。
   病床の作品をまとめた「借命」は、療養俳句の「金字塔」と言われる。
○昭和25年入院生活を終え、自宅に戻る
  <妻に>
  水仙花 三年病めども 我等若し

○「鶴」復刊、定本「石田破郷全句集」

○昭和34年破郷朝日俳壇の選者となる

○あき子の句(俳人あき子の誕生)

  楡の花 夫に寧き日いつまでも(あき子)
         寧き(やすき)
  
  夫よ病むな 朴の広葉は噴かずとも (あき子)

○昭和44年 石田波郷享年56  
 破郷が名づけたあき子の句集「見舞籠」が残された。

 枯野見る 背に夫を感じつつ (あき子)
          背(せな)夫(おっと)

 枇杷啜る妻を見てをり 共に生きん  (破郷)
          啜る(すする)
   
  破郷の死後あき子は6年を生き、破郷の命日と同じ日にこの世を去った
 
(資料5)追加です→このHPは「破郷」の人生がほとんど入ってます。
他ページもご覧ください。
 http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/ikku/2001/0106.html

◎私は結婚した日を忘れてしまったのである。毎年、夫は六月二十六日だと言い、私は、二十七日か二十八日と思いこんでいる。結局夫の思っている日にしてしまうのだが、どうして忘れてしまったのだろうか」(石田あき子『夫帰り来よ』)

1942(昭17)波郷夫妻が結婚したのは昭和17年6月27日。中村金鈴夫妻の媒酌により九段の軍人会館(現九段会館)で挙式した。「まさをき梅雨の旅路」は伊香保への新婚旅行である。

句集『風切』に結婚前後に詠んだ句が収められている。

梅雨近き用や葛西にわたりけり
葭雀二人にされてゐたりけり
「縁談、葛西にて二句」と前書きのある句だが、これが正式な見合いで、結婚の1月前のことだった。旧姓吉田安嬉子との縁談が持ち上がったのは前年だったが、17年3月に2人は初めて顔を合わせた。その直後だろうか、波郷は「馬酔木」を辞め、4月末から5月にかけて、1人蔵王高湯温泉に籠もり、頭を丸坊主にしている。後に「あの頃から私の俳句の腰が坐つてきたことは今顧みて認めざるを得ない」(「蔵王開眼」)と書いているが、既に結婚の意思も固めていたのだろう。蔵王から戻り、2カ月前とは様子の変わった坊主頭で、葛西を訪れたのである。

吉田安嬉子と結婚 2句
露草の露ひかりいづまことかな
露草の瑠璃十薬の白繁り合へ
結婚以前から、波郷は渋谷にほど近い駒場会館アパートで暮らしており、そこで新婚生活が始まった。渋谷を遅くまで歩き回り、小さな新妻を鳶合羽に包んで「眼をつむれよ、眠ってもいいぞ。安心して足だけ動かしていればいい」と、アパートまで歩いて帰ることもよくあった。

手(チョキ)→1年後に長男が生まれ、その4カ月後に召集され、以後は長い病気との闘いの日々になってしまった。いつしか結婚記念日は26日になっていたが、25年後の銀婚式は波郷は清瀬、あき子は板橋の病院で迎えている。
故郷松山で俳句を作り始めた10代から、清瀬の病院で息を引き取る50代まで、波郷は多くの鳥を句に詠んでいる。なかでも雀は多い方で、波郷全集からざっと拾っても50句近くはある。
 ※ 長男誕生ですぐに召集されている、この状況からも自分の子どもの(を中心とした)未来を考えてと読めます。また彼は召集後肺結核で召喚されてます。そのことを含めると大人一般は苦しいのではないでしょうか。そこまで作者に心の余裕はないのではないでしょうか?(私見です)

(資料5追加)

雀らも海かけて飛べ吹流し
                   指でOKここです!石田波郷 『風切』

     真っ青な海を向こうに雀の群れが飛ぶ
     手前には風に泳ぐ鯉幟と五色の吹流し
     雀らは子供たちの象徴だ 

 *季語 吹流し(夏)
  
             波郷が左湿性胸膜炎に
             罹患していない頃の句
             伸びやかな句だなぁ

(資料6追加)
石田波郷(いしだはきょう) (1913―69)

俳人。大正2年3月18日松山市生まれ。本名哲大(てつお)。松山中学4年のとき俳句を始め、やがて五十崎(いかざき)古郷に師事、波郷と号した。古郷とともに『馬酔木(あしび)』に投句。水原秋桜子(しゅうおうし)の句集『葛飾(かつしか)』を読んで感動、上京。1933年(昭和8)『馬酔木』最年少の同人となる。『馬酔木』の編集に従事しながら明治大学文芸科に学ぶ。石塚友二と知り横光(よこみつ)利一に紹介される。35年『石田波郷句集』を上梓(じょうし)、清新な青春俳句が注目された。37年『鶴(つる)』を創刊主宰。39年句集『鶴の眼(め)』を刊行。中村草田男(くさたお)、加藤楸邨(しゅうそん)とともに難解派、人間探求派とよばれた。芭蕉(ばしょう)を学び俳句固有の韻文精神を確立しようとした。「俳句は文学ではない」ということばが知られる。43年句集→ここです!指でOK『風切(かざきり)』刊行。鳩兵(きゅうへい)(通信隊)として中国戦線に召集されるが結核発病、内地に送還される。46年句集『病雁(びょうがん)』刊行。47年病気再発、翌年手術を受け、以後生涯、入退院を繰り返した。50年の句集『惜命(しゃくみょう)』はすさまじい闘病の記録。54年『石田波郷全句集』により読売文学賞受賞。『春嵐(はるあらし)』(1957)、文部大臣賞の『酒中花』(1968)、『酒中花以後』(1970)の句集を残した。昭和44年11月21日没。

雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)

[執筆者:平井照敏]


□資料4・5・6追加しました更に根拠については→と絵文字入れました。

◎いかがでしょうか・会員のご意見を聞きたいです。作品論的にはどうでしょうか。

追伸/鉄道員のDVD改めて見てみました。感動ですね。広末涼子の娘役が良いですね。秋に1年生に教えたいと思います。

コメント(11)

資料ありがとうございます。
しかし、この資料を読んでも、作品論的に親です、ということは言えないと感じました。
わが子の誕生に触発されて作ったから「親から子への愛情」ということでしょうか?
文学というのはそんな卑小なものではないと思いますし、「子供を持つ親たち」の「親たち」という書き方自体が変ではないですか?
作者は一人、話者も一人です。
一人の話者が、複数の「雀たち」に向けて詠んでいるのです。
自分の子供を通じて、たくさんの子どもたちへのメッセージを詠んだ、というのが一番自然な読み方です。
そもそも「子供を持つ者」の特権ですか?
子供への愛を語るというのは。
まあ、それはひがみ根性かも知れませんが・・
◎先生、反応ありがたいです。このように活用できればということでコメントしました。他の皆様も宜しくお願い致します。流石にA先生、感激です。

→子供を持つ親たちの方が僕は自然だと思います。そうです親たちの方が良いですね、先生のご指摘のとおりに。そのように自然に感じました。今の世間様の大人に、信頼がない中で、戦後すぐだからといつても、大人すべてがそのような存在とは僕には全く思えません。また親(達)自身の価値も問われてるのですから、親(達)の価値を生徒に教える意味でも、その方が良いのではないでしょうか?と思いました。道徳的かな?大人たちではどうもピンときません。と言うか僕は教えないと思います。

◎そんな感じでこのコーナーを利用してくださいね。

追伸/室生犀星の「小景異情」も今再度作品論調べてますが、これも結構面白いです。昔から日本史が好きなこともあり、作品論的に歴史調べるの好きなのです。
neko先生コメントありがとうございました。このように皆さんで語り合えれば理想的ですね。今後ともよろしくお願いいたします。

僕もやはり、neko先生と同じく「子供を持つ親たち」だと思います。一般的な大人ではなくてです。皆さまのご意見待ってます。
討論は面白いですが、おたがいの論点がかみ合わなければ討論とは言えません。
再度提示しますが、
1 上記資料の、どこを読むと、この作品の読み手が「親」と限定しうるのか、 ということが誰のコメントからも分からないのです。この資料のここをこう読 むから「親」である、と伝わるように書いて下さい。
2 あと、もう一度問いますが、子供を持たない大人はこの場合除外されるとい うことなのですか?それはおかしいのではないかと言っているわけです。子供 を持つ親だけの歌なのか、と、そんな狭い作品ではないだろうと、ということ です。
かみ合った討論をできれば、この続きは面白くなると思います。
文学でも「印象批評」というのは、もっとも軽蔑される呼び方ですからね。
○石田破郷の人生資料を123456(4−6は追加です)を再度検証し、まとめてみました。以下のようになります。

石田破郷(1913−1969)

1931(昭和16) 18歳上京 明治大学入学
1933(昭和8)  馬酔木参加 明治大学中退
1935(昭和10) 句集を上梓
1937(昭和12) 俳誌「鶴」発行
1939(昭和14) 俳誌「鶴の眼」発刊→人間探求はといわれる
1941(昭和17) 指でOK※29歳で結婚「波郷とあき子」
1942(昭和18) 手(チョキ)※息子「修太」誕生
1943(昭和19) 手(パー)※句集「風切」発行「雀らも」の句はここに有!
1946(昭和21) 通信隊召集→結核発病→召還 句集「病雁」発刊
1947(昭和22) 現代俳句協会立ち上げ
1948(昭和23) 結核再発 息子6歳 娘3歳
1950(昭和25) 入院 自宅療養
1954(昭和29) 読売文壇賞
1957(昭和32) 句集「春嵐」発行
1968(昭和43) 句集「酒花中」発行
1970(昭和45) 句集「酒中花以後」発行

問題となるのは1941・42・43です。結婚し息子が生れ「風切」発行
という流れです。その流れならば、資料3のように「長男の誕生に触発されて,作った句」となり、「小さな体で力一杯大空へ飛びあがる雀たち。→その自由さを,わが子や子供たちにもと思った」いう読みが出てくると思います。そうなると話者は「子供を持った親たち」が自然かなと思います。大人では広すぎませんかというかそのような大人は今の世の中(戦後すぐでも)稀です、作者がそこまで考えていたのでしょうか?息子に目が行ってるはずです。まだ生まれてすぐの1歳ですから。

課題としてはまだ「風切」の詳細が調べきれていないので、今後調べます。
しばらくお待ちください。沖縄に行きますので。ただ「風切」の時作者は、まだ結核の発病はなく、元気であつた事は間違いないです。
※根拠となる資料には→や絵文字を入れました。参考にしてください。


△このような提示で討論となりえますでしょうか。ご意見願います。敏






面白くなってきました。
教材研究は果てしないってことですね。
すばらしい資料です。
その点では脱帽です。
ただ、いくら資料が完璧でも、それをどう授業するか、に教員の思想と力量は問われるものだと思います。

長男の誕生に触発されて,作った句である。→だからこの語り手は親である。

基本的にそういう論旨と読みました。
違っていたらまたお願いします。
前回のサークルで私はうろ覚えで「戦後すぐの句ではないか」と言いました。
全然違うことが分かりました。申しわけありません。
だからこそ、やはりこれは「大人が子どもたちへ送った歌」と読むべきだと思います。
そもそも文学者たる者、自分の子供が生まれたから、その子供だけへのメッセージとして作品を作るものでしょうか。
そんな小さな世界観では文学と言えません。
まして、戦時中ならなおさらです。
全ての子どもたち若者たちへのメッセージと読むのが妥当と感じます。
いや、くり返します。
親がいけないと言ってるのではない。
親も含む大人としての句だといってるだけです。

それから、前回の授業は、浅間・伊藤の教材研究の末のプランです。
それを否定してみせるならば、当然、次回、あの句でもいいし、石田波郷の別の句でもよいから、ぜひ、授業の形で提案してみて下さい。
期待ししています。
いろいろ申し訳ありません。このように、このコミュニティーは活用できればと思い、試みました。これからも色々できそうですね。他の皆様の参加もおまちしています

次回の件、了解しました。何か考えて授業してみます。破郷の別の句で検討します。

→こんな時間まで修学旅行準備です。やっと寝れそうです。明日は沖縄、暑そうです。

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