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勝海舟コミュの勝海舟と対立した人々

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以下の文書は以前社内報に載せたものです。

【勝海舟と福沢諭吉】
 先日「人物論明治維新 勝海舟のみたもの」というホームページに、司馬遼太郎氏が勝海舟を小説に書かずに亡くなったのは残念だったと書いてあった。私も司馬さんに海舟を正面に据えた小説を書いてほしいと思ってはいたが、司馬さんがもっと長生きされても、それは叶わなかったかもしれない。司馬さんは、海舟の業績については、江藤淳氏との会談で「海舟がいなかったら、ちょつと幕末、明治はまずかったでしょな」と言い、エッセイでも「(幕末に)幕藩体制を超越した“日本国”という多分に架空性の高い一点を想定して、志士たちに刺激的な示唆をあたえつづけた唯一の人物は、幕臣の勝海舟であった」(「この国のかたち」)と書いているから、最大限に評価していたのは間違い無いが、関西人であった司馬さんは、江戸っ子の海舟の性格が肌に合わないところがあったようだ。司馬さんにとって、海舟は「えぐい(あくが強い、きつい)」と映っていたらしい。
 感情的な好悪があっても、司馬さんは海舟の功績を客観的に評価していた。30年程前、講談社が「勝海舟全集」(全22巻)を発刊したとき、司馬さんは編集委員をされたが、それは、海舟の業績を全集という形にして後世に残す意義に賛同されての事だったと思う。 さて当時、勁草書房という出版社からも勝海舟全集(同)が出ていて、この種の全集が同時期に刊行されるのは、ほとんど例のないことではなかったか。もっとも、当時海舟がブームだったとは言え、そんなに売れる本のはずも無く、双方とも未完のまま終わったように思う。閑話休題。
 肌が合わないと言えば、海舟と福沢諭吉(11歳年少)もそうであった。海舟と福沢は、咸臨丸で渡米したときが初対面で、その後、時々会合等で顔を合わせたり、福沢が海舟に金策を依頼したりすることが有ったが、関係は冷ややかなものだった。と言うより、福沢は海舟が嫌いだったらしい。そんな福沢は、海舟と榎本武揚を痛烈に批判した文章を書いている。「痩せ我慢の説」である。
 その中で、福沢は「勝は江戸城明け渡しのとき、無抵抗であった。敵に対して勝算が無くても家のため主人のために戦うのが武士道の痩せ我慢である。又、榎本は、五稜郭で戦ったまでは良かったが、その後二人とも、元幕臣でありながら新政府の顕官になった。敵に降りてその敵に仕えるのは、例え相手からの誘いがあっても、「痩せ我慢」すべきだった…」と徹底的に批判して、その文章を二人に送りつけた。二人は最初黙殺した。すると福沢は、「(痩せ我慢の説は)いずれこれは時節を見計らい、世に公にするつもりに候えども、(略)事実の間違いこれあるまじきや、また立論の旨につき御意見はこれあるまじきや、もしこれあれば御腹蔵無くなく仰せ聞けられ下されたく(略)この草稿は極秘にいたしおき、今日に至るまでニ、三親友のほかへは誰にも見せ申さず候」との手紙を、二人に送って改めて回答を求めたのである。榎本は「〜昨今別して多忙につきいずれそのうち愚見申し述ぶべく候…」と返答して、そのままになったらしいが、海舟は次のような返書をした。耳慣れない言葉もあるが原文のまま紹介したい。

 「古より当路者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に当たる者あらず。計らずも拙老先年の行為において御議論数百言、御指摘、実に慙愧に堪えず、御深志かたじけなく存じ候。
 行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。各人へお示しござ候とも毛頭異存これなく候。おん差し越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候なり。
  二月六日                     安芳
 福沢先生
拙、このほどより所労平臥中、筆を採るにものう懶く、乱筆御海容を蒙りたく候。」

「(略)私の出処進退は自分の信念に基づいたものであり、他人の批評は私の関知するところではないと思います。公表されても少しも異存はありません。〜」
 この勝負はあった。憮然とした福沢諭吉の顔が目に浮かぶようである。
 この歯切れのいい手紙を読むとき私は、いつも思う。「男子たるもの、一生に一度で良いから、こんな手紙を書いてみたいものだ」と。事を信念を持って行い、他人から批判されることがあっても、それを正面から受け止めて、胸を張って答える…・。
 さて、この話には後日談が有る。その時(明治24年)、福沢は海舟から「公表されても異存はない」と言われたのにもかかわらず何故か「痩せ我慢の説」を公表しなかった。ところが、海舟の死から2年後の明治34年元旦に「時事新報」紙上に公表した。当時福沢は「功利主義者、拝金主義者」と思われていて大衆の人気はなかったのに、武士道精神再評価の声の高まりの中で「痩せ我慢の説」は好評をもって世間から迎えられたと言う。その後、徳富蘇峰が国民新聞に海舟弁護論を載せると、福沢は周囲の人物に口述筆記させた文書を「碩果生」というペンネームで書いて、反論することをしたのである。
 そもそも福沢諭吉は、「痩せ我慢の説」の主張とは相容れない封建制や武士道を否定して脚光を浴びた思想家のはずである。それに、短期間ながら幕臣になったこともある。又、維新前、幕府使節随員として3回も欧米へ長期出張(都合1年8か月ほど)したが、これは、福沢に取って、将来を左右する体験だったはずだ。だから、福沢は幕府から恩恵を受けていないとは、言えないはずである。その福沢は、幕府瓦解の時、どうしていたか?「痩せ我慢」を他人に強いるのであれば、少なくとも自分でも幕府の側に立って戦っていなければ、筋が通らない。実際の福沢は、そんなことをするはずも無く、「戦になれば逃げて」いたのである。自分の門人が、榎本らと共に官軍に抵抗しょうとした時も、それをしきりに止めたのが福沢であった。だから福沢自身に「痩せ我慢」のなかったことは、海舟のそして榎本の比ではない。それなのに、24年もたってから、「立国には、武士の痩せ我慢が必要・・」などと言って、他を批判するのである。福沢の啓蒙思想家としての功績は誰しもが認めるところであるが、こんな一面もあったのである。
 

コメント(9)

大村益次郎。

対立したと言うのは当らないかも知れない。

江戸城明け渡しの後、上野の彰義隊の背後に海舟がいると疑った大村が、海舟の自宅に兵を向けて乱暴をしたらしい。海舟は留守だったようだが、大分後に海舟は談話で「大村益次郎が俺を嫌って・・・」と語っている。
福沢はなんかフェアじゃないですよね。なんか好きになれないなぁ。。まぁ僕はイメージで言ってるだけなんですが…。しかし、司馬さんは本当に勝を好いていなかったんでしょうか。『明治という国家』なんか読んでると、勝のことが好きだったんじゃないかなって思えるんですけど。まぁ司馬さんが勝のことを最大限評価していたのは間違いないですが。
なるほど。だから俺は金貯まらないんだな。
どうも福沢の顔見てる時分悪くなるので、使っちゃうからだ。
1万円札が早く福沢じゃなくなればいいのに(笑)
<小栗忠順

そうですネ。もっとも意見の対立に、決着をつけたのは慶喜になるのでしょうか。

当時、確かイギリスとフランスに取って最大の関心事は中国で、日本の紛争に深入りしない方針だったと思いますが、それでも、借款をしたとなると随分明治維新の様子が変わっていたのは間違いないでしょう。薩長憎しという小栗の気持ちも判らないではないですが、小栗が退けられて本当に良かったと思います。

ここまで書いて、心配になったのですが、借款と言うのは、造船所の建設費用でしたっけ?
きわめて単純な感想失礼します

こんな人が武士道語ってたんですね
こんな人が1万円札なんですね

う〜ん
なんかやだ
小栗さんに関して

当時、アメリカに渡って、小判と金貨の不平等な交換比率を是正したんですよね。
両貨幣に含まれる金属の比率を細かく測定して交渉したそうです。
異様ないでたちで入国してきた異国人に対して、当初好奇の眼差しを送っていたアメリカ人でしたが、その正確な論理と堂々とした物言いを明くる日の新聞で激賞したそうです。

帰国後に創設した横須賀造船所、取り入れた洋式軍制は日清、日露戦争でおおいに役立ったそうな。

なかなか気持ちのいい偉人じゃないですか。

これだけ海外を見てきた彼、その逸話を聞いていても単なる幕府を飛び越えた「日本」を考えてたと思いますよ。

方法論の違いじゃないかと。

勝さんの好敵手としては実力、思想、信念ともやはり彼が一番でしょうね。

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