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アルベルト・フジモリ・フジモリコミュの情報が正確でないので

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フジモリの犯した犯罪についてどんなのがあるのか教えて下さい。
少なくとも日本大使館占領事件で降伏して手を上げて出て来た犯人を皆殺しにしたのは事実であり国際法違反の殺人と聞きました。

コメント(5)

どれが正確な情報なのかわかるわけがありませんが、
こういゆうのもあるようです。
http://homepage2.nifty.com/ai152hannah/pddhh.htm
参考までに。
来歴
アルベルト・フジモリは1938年ペルーの首都リマに生まれた。両親は日本の熊本県出身であり、ペルーに1934年に移住した移民である。彼が誕生すると両親は日本の領事館に出生を届け出たため、フジモリは日本国籍を保有することになった。彼は成長するとColegio Nuestra Señora de la Merced、La Rectoraで教育を受け、リマのLa gran unidad escolar Alfonso Ugarteを卒業した。その後1957年にはラ・モリナ国立農業大学の大学院課程に進学し、1961年農業工学専攻をクラス一位の成績で卒業した。翌年次は同大学で数学の講義を受講している。1964年にはフランスのストラスブール大学に留学し物理学を学んだ。フォード奨学金を得た彼は、続いてアメリカ合衆国のウィスコンシン大学大学院に留学し、1969年に数学の修士号を取得した。その後母校である国立農業大学の理学部長に就任し、1984年には同大学総長に任命された。ペルー大学評議会の議長を二期務めている。1987年から1989年にはTV番組"Concertando"の司会も務め、この番組はペルー国有放送のチャンネルで放映された。

1990年の大統領選挙に新党Cambio 90(カンビオ・ノベンタ "cambio"は変革の意)を結成して出馬したフジモリは当初ダークホース的存在であったが、対立候補の世界的作家マリオ・バルガス=リョサを破り当選した。国民は前大統領アラン・ガルシア政権に対し失望感を抱いており、それと同時に、有力候補であったリョサの提唱した政策"新自由主義経済"を疑いの目で見ていたエスタブリッシュメント層を味方につけることにも成功した。選挙期間中フジモリにはel chino (東洋人)のニックネームがつけられた。多くの評者はフジモリが日系であったために、国民の大多数を占めるインディオと一部の裕福なスペイン系国民が対立するペルーにおいて有利に働いたと考えている。

東アジア出身者またはその子がラテンアメリカ諸国の元首となったのは彼が初めてである。(1977年にガイアナで中国系のアーサー・チャンが大統領に就任しているが、当時のガイアナ大統領は名誉職的な存在であった)。日系人が大統領になったことにより、日本との外交も積極的に行われ日本からの融資なども多く引き入れることに成功した。

大統領職(1990年 - 1992年)
選挙中は"仕事、科学技術、勤勉"といったあいまいなポピュリスト的スローガンを掲げていたフジモリは、大統領に就任すると後にフジショックと名付けられることになる大規模な経済改革を実行した。国際通貨基金(IMF)による詳細な指導を基に、様々な国有財産の売却、国内法の改正、外国資本の石油、天然ガス、鉱物資源への投資を積極的に誘致した。これらの政策によってペルーのマクロ経済は安定を取り戻し、ガルシア政権下で落ち込んでいた外国との貿易額も劇的に改善した。

これらの政策を円滑に進める為、鉱物・石油資源の開発計画を指導する部局を政府に設置した。それまでは環境法により一元的に決定されていた化学物質の排出規制、廃棄物の処理手続きなどは、この組織によって開発プロジェクトごとに決定された。同時に国立公園、アンデス山脈地域、アマゾン川流域など保護地区での開発規制を撤廃している。


1992年の自己クーデター
フジモリは大統領に就任したものの、議会はAPRAとFREDEMOの政党が上下院ともに支配していた。自身の政策を円滑に進める為の新法立法を望んだ彼は、1992年4月5日に自身の政府に対してクーデター(アウトゴルペ)を実行した。フジモリの目的は大統領の権限を強化し、政府と国会の改革を断行することにあった。フジモリの支持者にはこれがクーデターではなく、政府業務の効率化の為の改革にすぎないと主張する者もいるが、国内外においてはより急進的で権威主義的なクーデターであるとみなされている。

フジモリは議会を解散し、新たに設けた民主憲法議会の選挙を招集した。翌年議会により1993年憲法が制定されている。同時に国家非常事態宣言と戒厳令をしき、裁判所と憲法下の権利を制限、テロリズムに対処する為に"severe emergency laws"を制定した。自己クーデターに反対する動きがわずかにあったものの、国民の大多数はこれを歓迎した。直後に行われた調査では、フジモリによる国会解散と司法制度の改革を国民の73%が支持している。

しかし自己クーデターに対する国外の反応はこれとは異なっていた。世界銀行などの国際組織は貸し付け計画を延期し、アメリカ合衆国はペルーに対する援助を人道的なもの以外中止、ドイツ、スペインもこれに続いた。ベネズエラはペルーとの外交関係を停止し、アルゼンチンは大使館員をリマから引き上げさせた。チリはアルゼンチンと共にペルーが米州機構から脱退するように求めた。

クーデター以前から、ペルーとアメリカの関係は良好とは言えない状態であった。アメリカは麻薬組織に対処するための軍事協力を求めていたが、フジモリはこの協定に積極的でなく、経済援助を見返りとして1991年5月にようやく調印した(一般的に南米では麻薬はアメリカ合衆国の問題であると見なす傾向がある)。両国間の関係にはしこりが残っており、これに加えてセンデロ・ルミノソ、MRTAの活動、コレラの流行による食料品の輸入停止によってペルーの孤立化が懸念された。

しかし自己クーデターから二週間後、アメリカのブッシュ政権はフジモリをペルーの元首として認めた。米州機構とアメリカは、今回のクーデターは急進的にすぎるがペルーが以前のような混乱へと回帰することは欲しないことで一致した。アメリカの政策転換は、当時勢力を拡大しつつあったセンデロ・ルミノソの動きを懸念した為であると言われている。

フジモリ自身は、自己クーデターがガルシア政権に端を発するペルーのカオス的混乱を収束させるために必要であったと述べている。評論家たちは、クーデタによる国会解散がなければその後の更なる改革が不可能であっただろうと見なしている。


大統領職(1992年 - 2000年)
1995年4月の大統領選挙で圧勝したが、この頃からフジモリ大統領の人気は陰りを見せ、1996年12月17日にはトゥパクアマル革命運動による日本大使公邸人質事件が発生した。この事件は1997年4月22日ペルー軍コマンド部隊が公邸に突入して解決したが、フジモリ大統領の独裁的権力に対する批判は次第に高まっていった。

1993年に改正されたペルー憲法では大統領の三選を禁止していたが、フジモリ大統領は第一期は旧憲法体制下のため、自身の三選は可能であるとの憲法解釈をし、国会で承認させた。 憲法裁判所はこれを違憲としたが、最終的に最高裁で三選出馬支持する判決が下り、フジモリの三選が可能となった。

2000年、三選目の大統領選挙に立候補する。4月初めの投票ではフジモリ候補も他の候補も過半数に届かず、5月に決選投票ということになった。第1回目の投票で開票作業に不正操作があったことを、選挙の監視に来ていたOAS、ペルー国内のオンブズマン、トレド陣営から指摘され、5月28日に予定されていた決選投票を延期し、その間に透明性のある開票方法をとるように要請が出された。フジモリ大統領は開票作業の透明性に問題はないとして、内外の要請を拒否する。予定通り5月末の選挙を強行するとしたので、OASは選挙監視の意味がなくなったとしてペルーを引き上げ、2位の候補も大統領に抗議する形で決選投票をボイコットすると発表した。実質的には大統領信任投票となった決選投票では、フジモリ大統領が過半数を獲得し、三選を果たす。

日本への亡命
2000年9月、フジモリ大統領の側近が国会議員の一人に現金を手渡している映像が映されているビデオを、別の野党議員たちが公開する。この側近の問題をきっかけにフジモリ大統領の疑惑も浮上し、ペルー国会は反フジモリに傾いていった。

11月13日、フジモリ大統領はブルネイで開催されるAPECに出席のためペルーを出国し、11月16日に来日した。翌17日にペルー政府宛てに大統領辞任の申し出を送付し、事実上の亡命をした。ペルー国会は辞任を受理せず、「精神的無能力」を理由に罷免をした。日本政府はフジモリ元大統領は日本国籍保持者であるため、日本滞在には何の問題もないとしている。

フジモリ大統領が事実上の亡命を選んだのは、暗殺計画を察知したからと言われている。またその後出来た「反フジモリ政権」も情報機関による拉致・暗殺などを計画しているとも言われている。

2001年9月にはペルーの司法長官が殺人罪で起訴し、2003年3月にはICPOも人道犯罪の罪で国際手配した。日本大使公邸事件の際、投降したゲリラを射殺した容疑である。ペルー政府はその他の権力乱用罪でも日本に身柄引渡しをたびたび求めているが、これに関して日本政府は引き渡しを拒否し続けている。

フジモリは日系人であり、ペルーと日本の二重国籍者である。1985年の国籍法改正前に日本国籍が認められているため、日本政府は事実上二重国籍を容認している。

2005年6月、フジモリ元大統領はペルー国営テレビの政見放送を通じて次期大統領選挙への出馬の意向を表明した。現職のアレハンドロ・トレド大統領を始めとする次期大統領候補の不人気もあり、90年代の景気好転の時期の大統領であったフジモリ元大統領は、特に貧困層の国民から非常に高い支持を受けている。
深い資料ありがとうございます。
日本での情報はアメリカ経由の意図的?誤訳も多く
(CNNヘッドラインではスペイン語訳の意味まで違ってるし)
色々な問題を含んでますね。

善悪の判断は外国人の私達にはしてはいけないと感じてます。
フジモリとチリのピノーチェと共通の物を感じます。
ともに経済と教育に貢献したのは事実。
トピックスができずに、消えてしまう事を望んでいたコミュでしたが。
色々と考えた上で意見するのは自由だと思います。
日本も本当の事が分からないのが現状ですし、海外に出て日本を考えさせられた自分もいます。
今後も目が話せない彼ですが、何か策があるのでしょう。
国民を思わずして上に立つはずがありません。
大変な仕事ですよね。
フジモリさんは
何の罪で投獄されているのでしょうか?
なぜ彼は捕まることを
覚悟してまで
ペルーに帰ったのでしょうか?

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