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南紀の旅コミュの伊雜宮

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 三重県志摩市磯部町上之郷
https://www.google.com/maps/place/%E5%BF%97%E6%91%A9%E5%9C%8B%E4%B8%80%E4%B9%8B%E5%AE%AE+%E7%9A%87%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%88%A5%E5%AE%AE+%E4%BC%8A%E9%9B%9C%E5%AE%AE/@34.3801627,136.8066717,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x600455491b3ab2e9:0x78e37cd6e66315c9!8m2!3d34.3801627!4d136.8088604?hl=ja&authuser=0
 皇大神宮(伊勢神宮内宮)別宮で、志摩国一ノ宮・延喜式名神大社(エンギシキミョウジンタイシャ)です。伊雜宮(イザワノミヤ)の「雜」の字は「雑」に置き換えられるのが一般的です。
 伊雜宮は、度会(ワタライ)郡大紀(タイキ)町の瀧原宮(タキハラノミヤ)と共に「天照大神の遙宮(トオノミヤ)」と呼ばれています。伊勢神宮別宮14社のうち伊勢国外のものは、ここだけであり、また神田を持つ唯一の別宮でもあります。10社ある内宮別宮の中で荒祭宮(アラマツリノミヤ)、月讀宮(ツキヨミノミヤ)、瀧原宮に次ぐ順位とされています。
 鎌倉時代成立とみられる『倭姫命世記(ヤマトヒメノミコトセイキ)』によると、伊勢神宮の内宮を建立した倭姫命が神宮への神饌(シンセン)を奉納する御贄地(ミニエドコロ)を探して志摩国を訪れた際、伊佐波登美命が出迎えた当地を御贄地に選定して当社を建立したとされていますが、『倭姫命世記』は勿論一次史料では無い上、該当箇所は伊雜宮神官が後世に加筆したとされる事から、本当の創建は不詳です。また、近世以前の志摩国では、伊雜宮周辺の土地のみが水田による稲作に適した事から当社が成立したとする説や、志摩国土着の海洋信仰によるとする説等もあります。
 延暦23(804)年の『皇太神宮儀式帳』に天照大神御魂(アマテラスオオミカミノミタマ)を祭る「天照大神の遙宮」として記載されているので、それ以前から存在した事は確かです。延長5(927)年の『延喜太神宮式』にも同様の記載があります。
 源平合戦期には、伊勢平氏の地盤だった伊勢国への源氏勢の侵攻が予想されたため、伊勢・志摩両国を平家が警備したが、養和元(1181)年1月、伊雜宮は源氏方に与(クミ)した紀伊の熊野三山勢の攻撃を受け、本殿を破壊された上、神宝を奪われてしまいました。熊野三山の勢力は更に山を越えて伊勢国へ攻め込みますが、平家軍の反撃を受けて退却しています。平治元(1159)年の平治の乱では平家に味方していた熊野三山が、源氏方へ寝返ったのは、当時の熊野三山と対立していた伊勢神宮を平家が贔屓(ヒイキ)にしたためとされます。
 中世から近世にかけての伊雜宮の祭神には諸説あり、戦国時代以降は伊雑宮神職の磯部氏の祖先とされる伊佐波登美命(イザワトミノミコト)と玉柱命(玉柱屋姫命)の二座を祀ると考えられていました。但し、伊雜宮御師である西岡家に伝わる文書では、玉柱屋姫命は「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」「瀬織津姫神(セオリツヒメノカミ)天照大神分身在河」とあり、玉柱屋姫命は天照大神と同じ神であると記されています。
 江戸時代初期に伊雜宮の神職は「伊雜宮が日神を祀る社であり、内宮・外宮は星神・月神を祀る社だ」と主張し、伊雜宮こそが真の皇大神宮だと主張していましたが、延宝7(1679)年に江戸の書店で発見された『先代旧事本紀大成経(センダイクジホンキタイセイキョウ)』と呼ばれる書物によって伊雜宮の主張が裏付けられたと話題になりました。しかし、反発した内宮(ナイクウ)・外宮(ゲクウ)の神職がこの書の内容について幕府に詮議を求めたため、天和元(1681)年に至って幕府は同書を偽書と断定し、江戸の版元「戸嶋惣兵衛」・書店にこの書物を持ち込んだ神道家の永野采女(ナガノウネメ)と黄檗(オウバク)宗僧侶の潮音道海(チョウオンドウカイ)・偽作を依頼したとされた伊雜宮の神職等を処罰、以後、大成経を始めとする由緒の明らかでない書物の出版・販売が禁止されるに至りました。しかし、幕府の目を掻い潜って大成経は出回り続け、山崎闇斎(ヤマザキアンサイ)の垂加神道(スイカシントウ)等に影響を与える事となるのです。
 明治維新後、伊雜宮の祭神は天照坐皇大御神御魂(アマテラシマススメオオカミノミタマ)一柱と定められました。また、式年遷宮のための御木曳(オキヒキ)行事が伊勢神宮に準じて20年に一度行われる事となりました。伊勢神宮では一年次と二年次の二回であるのに対し、瀧原宮と伊雜宮の別宮二社では一年次のみです。
 本殿は内宮に準じ、内削ぎの千木(チギ)と、偶数の六本の鰹木(カツオギ)を持つ萱葺(カヤブキ)の神明造で、本殿周囲にある瑞垣と玉垣にはそれぞれの門があります。
 伊雜宮の鳥居前には神武参剣道場〔登録文化財〕があります。昭和36(1961)年建築の桟瓦葺(サンガワラブキ)木造二階建入母屋造(イリモヤヅクリ)です。
 鳥居前には、昭和4(1929)年に建築された鰻料理店の中六〔登録文化財〕もあります。桟瓦葺木造二階建L字形棟の入母屋造で、昭和41(1966)年から平成元(1989)年にかけて何度か改修されています。
 伊雜宮に奉納する米の田植えを毎年6月24日に行なう御田植式は、磯部の御神田(オミタ)〔重要無形民俗文化財〕と呼ばれ、香取神宮・住吉大社と共に日本三大御田植祭とされています。
 『倭姫命世記』によると平安時代後期には行われていたとされますが、信頼性の高い記録では弘安3(1280)年の記録が最古の物です。
 明治4(1871)年の廃藩置県によって伊雜宮の料田が国有化された結果、翌年からは御田植式が出来なくなって廃止されましたが、地元住民の希望により明治15(1882)年に虫除祈念の名目で再開されました。
 大正時代(1912〜26)中期に料田を縦断する道路整備計画が決定したため、近隣の住民から新しい料田が寄贈されました。
 古来、御田植え祭の日に七匹の鮫が的矢(マトヤ)湾から川を遡って伊雜宮の大御田橋まで出現するとの伝説があります。この七本鮫は伊雜宮の使者、若しくは龍宮の使者とされますが、七本のうち一本は殺され、今は六本とされます。大御田橋からは蟹や蛙に化身して伊雜宮に参詣するともされています。また、この日は志摩の海女たちは海に入る事を忌み、伊雜宮に参詣します。
 伊雜宮の北方には、庚申堂があります。秋葉堂とも呼ばれていますが、祭神は伊弉諾神(イザナギノカミ)・伊弉冉神(イザナミノカミ)・伊佐波登美命と記されていました。
 庚申堂近くには倭姫命旧跡地があり、天井石や鏡楠があります。大正12(1923)年に枯死した鏡楠の根本からは室町時代の白銅鏡2面が出土しました。
 庚申堂近くの風呂屋の谷は伊雜宮への参詣前に禊(ミソギ)をした場所です。

コメント(7)

左;拝殿
中;拝殿・本殿
右;神饌所
 磯部の御神田〔重要無形民俗文化財〕

 磯部の御神田〔重要無形民俗文化財〕

左;中六〔登録文化財〕
中;神武参剣道場〔登録文化財〕
右;御師の家森新

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