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南紀の旅コミュの大和二見

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 現奈良県五條市の大和二見は宿場町として栄えた五條の西隣に当たり、元弘年間(1331〜34)に土豪の二見氏によって平城の二見城が築かれたと言われているが、室町時代の詳細は不明。二見城は、東を流れる吉野川にせり出すような台地の先端に築かれ、北から南へと周囲に堀を巡らしてあった。

 織田信長時代に大和を領した筒井順慶には、島左近勝猛・松倉右近重信・森志摩守好之の三家老がいたと伝えられ、特に前二者は勇猛果敢で右近・左近と並び称されたと言われている。松倉氏は越中出身とも言われ、現大和郡山市の横田郷に居城を構えていたが、順慶が大和一国を支配するようになってからは越智郡3000石も領するようになった。
 重信は、天正10(1582)年の羽柴秀吉対明智光秀の山崎の合戦の際には主君順慶へ有名な「洞ヶ峠の日和見」の献策をしたとも伝えられている。順慶の後を継いだ筒井定次が天正13(1585)年に伊賀国へ転封となると重信もこれに従って、伊賀名張8000石の領主となるが、その嫡男の重政は定次と対立して天正15(1587)年に出奔してしまい、文禄2(1593)年に重信が死去すると、桃ヶ谷国中が4000石で名張城番となった。しかし、その後、重政は定次の下に帰参して名張8000石の領主となったようである。
 松倉重政は慶長2(1597)年に秀吉から大和吉野郡8000石も与えられて五條や大和二見城を支配下に入れるが、その後も名張に留まり、定次の家臣としての立場も守った。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦の際には定次の配下で東軍に参加、井伊直政の手に属して島津軍追撃戦等で手柄を立てた。
 慶長13(1608)年、筒井定次は突如改易されて重政も名張の封土を失うが、関ヶ原の戦功が考慮されて大和吉野郡の封土は安堵の上、2000石を加増されて独立した大名に列する事になり、大和二見城に入城して五條二見藩が成立した。
 重政は五條と二見城下を結ぶ紀州街道沿いに約700mの直線道を新造、税金を免除した商家約100軒を誘致して「新町」を築き、物産の集散地として繁栄させる事に成功した。この新町通の街並みは今も保存され、情緒ある景観を現出している。
 重政は慶長20(1615)年の大坂夏の陣でも功績を挙げ、元和2(1616)年に肥前日野江43000石を与えられて移封、島原に新城を築き、苛斂誅求とキリシタン弾圧を派手に行って島原の乱の原因を作ったとされている。司馬遼太郎などは『街道をゆく(17);島原・天草の諸道』冒頭で「日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」 とまで酷評しているが、五條では重政は今でも名君として讃えられ、彼の二見入城400年目に当たる平成20(2008)年4月27日に重政顕彰碑が建立された。また、同年8月15日には、重政時代に行われていた「松倉祭り(豊後様祭り)」が再現され、約2000基の燈籠が昔ながらの街並みに並べられ、幻想的な空間を生み出した。
 松倉氏転封後、この地は幕府直轄地となり、大和二見城は廃城となって、五條代官所の管轄下に置かれた。
 なお、日本最初の花火師鍵屋弥兵衛は17世紀後半、この新町で火薬の技術を学び、江戸で成功を収めた。

 新町通の東入り口には、宝永元(1704)年建築の中家住宅〔奈良県指定文化財〕・慶長12(1607)年建築の栗山家別邸〔重要文化財〕・元禄9(1696)年建築の栗山家住宅〔五條市指定文化財〕等の古い商家が残る。特に栗山家別邸は建築年代が判明している民家としては日本最古の貴重なものである。但し、何れも内部は非公開。
 通りを暫く西へ進むと右手に、吉田茂内閣で初代法務大臣・初代保安庁長官等を歴任した木村篤太郎(1886〜1982)の邸宅があり、「まちや館」として公開されている。なお、保安庁とは防衛省の前身。
 さらに西進すると染物屋の赤根屋跡がある。元禄8(1695)年に、ここの息子半七が遊女の三勝と大坂の千日寺で心中し、歌舞伎・文楽の『三勝半七艶容女舞衣(ミカツハンシチハデスガタオンナマイギヌ)』の題材になった。
 ここから少し西に向かうと、左手にまちなみ伝承館があり、ここの少し西の新町松倉公園に松倉重政顕彰碑が建つ。
 ここから西へ進むと紀伊半島を縦断して五條ー新宮を結ぶ計画だった幻の国鉄五新線の吉野川橋梁を潜る形となり、やがて高野山真言宗光明山西方寺に着く。ここには松倉重政の墓がある。本来は頌徳(ショウトク)碑だが、島原の乱後、重政の子勝家が斬首されて松倉家が廃絶された後、墓として扱われるようになった模様で、平成20(2008)年10月22日には重政の位牌が寺内から発見された。
 新町通の西端から南下すると大和二見城跡に着く。現在では、本の丸・二の丸跡は、日蓮正宗浄土山妙住寺の境内となっている。
 妙住寺境内西側には昭和50年代まで堀跡が残っていたが、今は埋め立てられ資材置場になってしまった。
 この資材置場には松倉重政二見入城400年祭で用いられた「天守閣」と「櫓」が置かれている。この付近からは城の天然の堀であった吉野川の美しい風景を見る事も出来る。
 城跡から西北に向かうと天然記念物の二見の大ムクがある。台風で上部が失われていますが、樹高15m、幹回8mの威容を誇る。
 JR大和二見駅近くにはリバーサイドホテルと日帰り温泉施設金剛乃湯がある。地下1300mよりくみ上げられるナトリウム−塩化物炭酸水素温泉で、泉温は28.4℃。サウナや露天風呂もある。

コメント(6)

10月29日に行って来ました。

左;中家住宅〔奈良県指定文化財〕
中;栗山家住宅〔五條市指定文化財〕
右;栗山家別邸〔重要文化財〕


左;法務大臣木村篤太郎生家(まちや館)
中;赤根屋半七宅跡
右;まちなみ伝承館
左;五新線吉野川橋梁
中;松倉重政顕彰碑
右;松倉重政墓
左;妙住寺山門
中;吉野川
右;妙住寺庭園
左;二見の大ムク〔天然記念物〕
中;金剛乃湯
右;リバーサイドホテル「本陣膳」

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