ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

溝/側溝/用水路コミュの(朝日新聞より)東京都日野市の溝 =2=

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
シリーズものです。。。。

http://mytown.asahi.com/tama/news.php?k_id=14000160606130001

清流の郷で(3)

2006年06月16日


 日野市の用水路の一つに変わった名の堀がある。

 「日野用水よそう森堀」。日野用水の支線として、江戸期に掘られたと言われる。当時、近くの丘にまつられた稲荷(いなり)の祠(ほこら)の前で、集落の人々がその年の米の収穫を「予想」したことから名付けられたという。

 緑に覆われた堀の周辺には市の水田がある。市内に住む名取孝恭(たかやす)さん(66)は、ここで米作りをする「ひの市民大学農業体験コース」の実行委員長を務める。毎年約30人の市民が参加、農家の指導で収穫までを体験する。水の管理も行い、田植えの時期には、当番を決めて毎日堀を見回る。

 この堀のコンクリート化が持ち上がったことがある。人手の足りない農家の要望で、維持しやすいという理由からだ。

   □  □

 かつて「東京の穀倉地帯」と言われた同市でも農家の人口は減り続けている。80年には約3400人だったが、00年は約1700人と半減した。

 「水辺を守る」という観点から、市は農家の説得を始め、市民に協力を呼びかけた。結局、堀ざらいなどの一部作業を市民が担うことで、「保全」にこぎつけた。

 その後、市は隣接地を「水田公園」として整備した。名取さんたちの取り組みは、こうした流れを引き継ぐ形で5年前に始まった。

   □  □

 名取さんは、1945年3月10日、東京大空襲に遭った。その後、神奈川県内に疎開。広がる水田の風景が、大空襲のつらい体験から救ってくれた。そして、「原風景」として焼き付いた。

 戦後、日野に移り住んだ。就職後は転勤暮らしが続いたが、定年退職して「終(つい)の栖(すみか)」を日野と決めた。あの時に見た原風景と重なったからだ。

 夕方、バケツを手に、子どもたちが堀の水面をのぞき込んでいた。

 「いつまでも残したい光景だね」。名取さんがポツリと言った。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

溝/側溝/用水路 更新情報

溝/側溝/用水路のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング