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アンチ日蓮正宗(日蓮正宗系)コミュの「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」PART3

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「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」PART3は、検証136〜200までをまとめたものであり、
「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」PART2(検証86〜135)
のつづきということになります。

このPART3は、前半と後半に大きく別れていて、まず前半では
□1 日蓮在世の時代から日蓮正宗大石寺8世法主日影の代までの間、大石寺に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は存在していなかったこと
□2 日興は身延離山で身延山久遠寺から何一つ持ち出していないこと
□3 日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は本心では「本門戒壇の大御本尊」偽作説を支持していたこと

この三つを大きな論点としています。

後半では、
□1日蓮正宗の僧侶、信者による「本門戒壇の大御本尊・後世偽作論」に対する反論を徹底粉砕して斬る論陣になっています。
その中でも特に、日蓮正宗大石寺66世法主細井日達の著書「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」なる妄説を粉砕する論、「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」コミュニティでの日蓮正宗側の妄説を論破する論を設けています。
なぜそうしたかと言うと、日蓮正宗の僧侶・信者たちは、細井日達の著書「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」等々を以て、「本門戒壇の大御本尊・偽作論は全て破折済み」などという妄言を吐くからです。
□2過去に「本門戒壇の大御本尊」偽作説を唱えた犀角独歩氏の「大石寺彫刻本尊の鑑別」「大石寺漫荼羅本尊の真偽について」、金原明彦氏の「日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実」等々の著書、および「河辺メモ」が、全体的な、一般に対して説得力のある科学的・客観的証拠・根拠という点については、大きく欠けており、「本門戒壇の大御本尊」後世偽作の客観的・科学的な証拠とは言えないということを論証しています。
□3 かつて日蓮正宗未入信者で「本門戒壇の大御本尊」の御開扉を受けた人はいたこと
□4 日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真は本物であること

この四つを大きな論点としています。

このトピックに書かれている内容について、質問その他のコメント(絶賛でもOK)をしたい方は、こちらへ。

「日蓮&日蓮正宗の教義的・ドグマ的問題点の分析・検証・批判」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=9227810&comm_id=406970

質問等をしたい方はこちらへ。

「アンチ日蓮正宗・教学基礎講座」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63259676&comm_id=406970

「関連質問&質疑応答」トピック
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=46300303&comm_id=406970

日蓮正宗現役信者ないしは『本門戒壇の大御本尊』日蓮真造論者からの反論・文句は、「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」コミュニティの中にある下記のトピックに書き込んでください。

「アンチ日蓮正宗vs日蓮正宗」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4011664

「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる名前の板本尊の真偽について」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=41378641&comm_id=4011664

出典&参考文献/
美濃周人「虚構の大教団」「謎の日蓮正宗・謎の創価学会」「日蓮正宗・創価学会50の謎」「日蓮正宗・創価学会・謎の大暗黒史」「家庭内宗教戦争〜お前は誰の女房だ」犀角独歩「大石寺彫刻本尊の鑑別」立正安国会・山中喜八「御本尊集」「御本尊集目録」熊田葦城「日蓮上人」安永弁哲「板本尊偽作論」木下日順「板本尊偽作の研究」窪田哲城「日蓮聖人の本懐」柳沢宏道「石山本尊の研究」高田聖泉「興尊雪冤録」日蓮宗宗務院「日蓮正宗創価学会批判」「日蓮宗宗学全書」鴨宮成介「板本尊の真偽について」日宗全「大石寺誑惑顕本書」
堀日亨「富士宗学全集」「富士宗学要集」「富士日興上人詳伝」「熱原法難史」細井日達「日達上人全集」「悪書板本尊偽作論を粉砕す」日蓮正宗宗務院「創価学会の偽造本尊義を破す」日蓮正宗法華講連合会「大白法」山口範道「日蓮正宗史の基礎的研究」継命新聞社「日興上人」興風談所「日興上人御本尊集」浅井昭衛「学会宗門抗争の根本原因」「なぜ学会員は功徳を失ったのか」正信会「富士の清流を問う」乙骨正生「FORUM21」「日蓮正宗公式HP」「創価学会公式HP」「顕正会公式HP」「正信会公式HP」中公文庫「日本の歴史」扶桑社「新しい歴史教科書」水島公正「『世界宗教への脱皮』の妄見を破す」新人物往来社「日本史/疑惑の宗教事件ー権力と宗教の危険な関係」河合敦「早分かり日本史」ひろさちや「日蓮がわかる本」日蓮正宗宗務院「大日蓮」不破優「地涌からの通信」たまいらぼ「創価学会の悲劇」「大石寺の正体」日蓮正宗大石寺「大石寺案内」「平成新編日蓮大聖人御書」日蓮正宗入門」「日蓮正宗聖典」暁鐘編集室「魔説板本尊偽作論を摧く」日蓮宗新聞社「日蓮宗新聞」中外日報社「中外日報」聖教新聞社「聖教新聞」「大白蓮華」「聖教グラフ」日蓮正宗富士学林「日蓮正宗富士年表」三省堂「新明解古語辞典」河合一「暗黒の富士宗門史」東京学芸大学日本史研究室「日本史年表」学習研究社「日蓮の本」

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コメント(86)

■検証182・日向造立板本尊と「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は全く無関係だ1

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(国賊せまし(仮名)を擁護する太井肉塊(仮名)の妄説)
「他の弟子が知らぬはずがない」という事についてですが他の弟子も知っています。
五老の一人・民部日向は日興上人身延離山後の正安二年十二月、日蓮大聖人の紙幅御本尊を模写して板本尊を造立しています。いかに日蓮大聖人の法義に暗い五老でも直弟である以上、日蓮大聖人のなさった前例なくして、まったくの新義を作り出す事はあり得ません。
これは身延山久遠寺の本堂に安置された本門戒壇大御本尊を拝していた日向が大御本尊を真似て板本尊造立に及んだと考えるほかないです。因みにこの日向造立の板本尊はそれから五十年以上、身延山久遠寺本堂の本尊として安置されていました。
(『アンチ日蓮正宗VS日蓮正宗』掲示板103の太井肉塊(仮名)なる者の妄説)
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身延離山の11年後の1300(正安2)年12月に、身延山久遠寺第三祖日向が造立したとされる通称「板本尊」と、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、全くの無関係である。
両者を無理矢理に結びつけようとする太井肉塊(仮名)の妄説は、ただのこじつけの論に過ぎず、この日向造立の板本尊と大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を結びつける直接の証拠は何一つない。

以下の点からしても、日向造立の「板本尊」と大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が無関係であることは明白だ。

□1 日向造立「板本尊」の脇書は「日蓮幽霊成仏得道乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立」になっていると「日蓮宗宗学全書」に記載されている旨、日蓮正宗大石寺66世細井日達法主が言っている。
が、しかし「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の脇書きは
「右現当二世の為造立件の如し、本門戒壇之願主 弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」第8巻資料類聚1より)
となっており、両者の脇書が全く違っている。

□2 日蓮正宗大石寺48世日量が書いた「富士大石寺明細誌」によると、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は「竪四尺七寸五分、横二尺一寸五分」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」第8巻p334)となっているが、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は日向造立「板本尊」について
「日向の添書に『正安二年庚子十二月日。右日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に之を造立す』とある丈二尺七寸、幅一尺八寸の大聖人の御筆を写した板本尊…」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『富士日興上人詳伝(下)』p120〜p121より)
と書いている。
したがって「竪四尺七寸五分、横二尺一寸五分」(本門戒壇の大御本尊)と、「丈二尺七寸、幅一尺八寸」(日向造立板本尊)では、大きさが全く違う。

法華講員・太井肉塊(仮名)が言うように「日向が大御本尊を真似て板本尊造立に及んだ」のなら、脇書や大きさも、全く同じにしたはずである。
がしかし、両者は全く違っている。
日向造立「板本尊」なるものは、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の真似でも何でもない。両者は、全くの無関係である。



■検証183・日向造立板本尊と「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は全く無関係だ2

□身延山久遠寺の日向板本尊のモデルは本位牌・寺位牌である
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(国賊せまし(仮名)を擁護する太井肉塊(仮名)の妄説)
いかに日蓮大聖人の法義に暗い五老でも直弟である以上、日蓮大聖人のなさった前例なくして、まったくの新義を作り出す事はあり得ません。
これは身延山久遠寺の本堂に安置された本門戒壇大御本尊を拝していた日向が大御本尊を真似て板本尊造立に及んだと考えるほかないです。
(『アンチ日蓮正宗VS日蓮正宗』掲示板103の太井肉塊(仮名)なる者の妄説)
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日蓮正宗では、1300(正安2)年12月に日向が造立した「板本尊」などと言っているが、これは、「板本尊」ではなく、鎌倉時代の当時、栄西や道元が中国から伝えた禅宗とともに中国から日本に伝来した「位牌」の一種である「寺位牌」「本位牌」と呼ばれるものである。

民部阿闍梨日向は、日蓮が生きていたころ、あるいは日蓮入滅後も、禅宗の大寺院が立ち並ぶ鎌倉方面に布教の足を伸ばしていた。鎌倉時代、鎌倉の仏教寺院、なかんずく禅宗寺院にはすでに中国から伝来した「寺位牌」「本位牌」があったので、当然のことながら、日向も「寺位牌」「本位牌」を知っていたと考えられる。

それから日向造立の「板本尊」には、細井日達によると「日蓮幽霊成仏得道乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立」と書いてあると言うのであるが、こんな脇書きのある本尊というのは、日向の師・日蓮が図顕した本尊には全くない。
日蓮は、自らが書した大漫荼羅本尊を亡者の菩提のためではなく、生きていた弟子の僧侶や信者に授与していた。しかもそれらの本尊は、全て紙の書かれた本尊である。
しかも「乃至衆生平等利益」などという文は、本尊ではなく、故人の菩提のために建立される「塔
婆」や「位牌」に書かれている文である。
日向も「板本尊」造立の目的を「日蓮幽霊成仏得道」と、師・日蓮の菩提のためとしていることからして、これは「本尊」と言うよりは「本位牌」「寺位牌」というべきものである。

「身延山久遠寺同御影堂、大聖人御塔頭、塔頭板本尊…」と中山法華経寺三代住職日祐が書き残しているから「本尊」と解釈するむきもあるようだが、そもそも「寺位牌」というものは、本位牌の他に、菩提寺(旦那寺)や本山に、供養の布施と共に納められる位牌で、寺では位牌堂や本堂内の須弥壇に安置され、朝夕の勤行の際に供養されるものなのである。 その「寺位牌」の扱いは、本尊に準じるか、本尊と何ら変わらないかのように、扱われるものである。

中国から伝来して間もない「寺位牌」が、須弥壇中央に祀られていたとあっては、「位牌」をはじめて見た人たちにとっては、あたかもそれが「本尊」と映ったと考えられるのである。

したがって、これらのことからして、日向造立の「板本尊」とよばれるものは、「本尊」ではなく、鎌倉時代において中国から伝来していた「本位牌・寺位牌」をモデルにした「位牌」であり、「位牌」として身延山久遠寺の御影堂に納められた「寺位牌」だったと考えられる。
もちろん大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊とは何の関係もないものである。




■検証184・日向造立板本尊と「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は全く無関係だ3

□身延山久遠寺の日向板本尊のモデルは本位牌・寺位牌である2
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(国賊せまし(仮名)を擁護する太井肉塊(仮名)の妄説)
脇書、大きさが違う事が日向造立「板本尊」と「本門戒壇の大御本尊」が無関係である証拠という事ですが、日向には脇書と大きさが大御本尊と同じ物を造立する事は不可能だったのではないでしょうか。当時、そこに大御本尊は無かったのですから。
(『アンチ日蓮正宗VS日蓮正宗』掲示板188の太井肉塊(仮名)なる者の妄説)
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もし本当に、1279(弘安2)年から1289(正応2)年まで、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が存在していたならば、脇書が同じで等身大の板本尊など1300(正安2)年に造れないわけがないでしょう。身延離山からたった11年しか経っていないわけだから。
大きさだけ比較しても「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は「竪四尺七寸五分、横二尺一寸五分」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨編纂「富士宗学要集」第8巻p334)。
日向造立「板本尊」は「丈二尺七寸、幅一尺八寸」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『富士日興上人詳伝(下)』p120〜p121より)
日向造立「板本尊」は丈が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の半分以下であり、大きさが違いすぎている。
しかも脇書がまったく違っているとなれば、日向造立「板本尊」なるものと、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊き全く無関係であることは明らかである。

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(国賊せまし(仮名)を擁護する太井肉塊(仮名)の妄説)
はじめて見た人たちに「本尊」と映った。という事ではなく、当の日蓮宗の記録から久遠寺本堂の本尊として50年以上安置されていた事がわかっているのです。
(『アンチ日蓮正宗VS日蓮正宗』掲示板189の太井肉塊(仮名)なる者の妄説)
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あくまでも太井肉塊(仮名)は、久遠寺本堂にかつて祀られていた日向造立「板本尊」なるものは、あくまでも「本尊だ」と言い張っているわけだが、ならば「乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立」などと脇書が書いてある本尊がどこにあるというのか。
日蓮正宗の葬儀に祀られる「導師本尊」、葬儀で経文・題目などを書いて死者に着せた「経帷子本尊」、棺桶や骨壺の中に入れた「未来本尊」にも、「乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立」などと脇書は書いてない。「導師本尊」や「未来本尊」の脇書は「即身成仏之印文也」である。
日蓮正宗だけでなく、日蓮宗まで広げてみても、生きている人に授与される「臨終曼荼羅」や死者の経帷子に書かれた「曳覆曼荼羅」にも、「乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立」などと脇書はない。
この「乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立」との文は、まさに位牌や塔婆に書いてある文である。
すなわち、「乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立」と書いてあることが、久遠寺本堂にかつて祀られていた日向造立「板本尊」なるものが、実は本堂中央に祀られている「寺位牌」だった明確な証拠である。




■検証185・日向造立板本尊と「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は全く無関係だ4

□仙台・仏眼寺の「レプリカ本尊」の存在が洗脳法華講員の説が虚言であることを証明
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(国賊せまし(仮名)を擁護する太井肉塊(仮名)の妄説)
いや、造れるわけがありません。11年を、「11年しか」ととるか「11年も」ととるかなどという事は人それぞれですが、少なくとも脇書と大きさを同じにするなど出来るわけがありません。この時点で日興上人門下とは袂を分かっている事と、現場に既に大御本尊が存在しないからです。
(『アンチ日蓮正宗VS日蓮正宗』掲示板192の太井肉塊(仮名)なる者の妄説)
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この太井肉塊(仮名)の妄説は、完全な虚言である。以下にその証拠を示す。

□日蓮正宗大石寺塔中・観行坊住職を務めた能勢順道氏が編纂した日蓮正宗関連の史料集「諸記録」p227によれば、宮城県仙台市・仏眼寺に、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を、そっくりそのまま模写・彫刻した「拓本」本尊、いわゆる「レプリカ(模写・複製)本尊」が存在していることが記されている。
このレプリカ本尊が製作されたのは、「諸記録」によれば、1834(天保5)年ということなので、身延離山から556年後のことである。

この仏眼寺は、今は日蓮正宗の末寺になっているが、元々ここは1305年(嘉元3年)に日蓮正宗第3祖日目の弟子である日尊が建立した38ヶ寺の一つとして建立された寺院で、日尊門流(京都・要法寺の門流)の寺院であった。
大石寺と要法寺は、一時、交流があった時代もあったが、江戸時代の日蓮正宗大石寺24世法主日永の頃、交流を断絶している。日永の代というのは、1692年〜1708年のころ。ちょうど元禄時代の頃である。その後、1795(寛政7)年に起こった「寛政の法難」で、大石寺は寺社奉行に対して
「要法寺は、日興門流ではあるものの、大石寺とは同系ではない」
と1797(寛政9)年に回答している。仏眼寺のレプリカ本尊が製作されたのは、これ以降のことだ。
仏眼寺の本末問題については、1900(明治33)年の本門宗からの日蓮宗冨士派(日蓮正宗)の分離独立によって大きく問題化しており、最終的に仏眼寺が日蓮正宗の末寺として最終決着したのは、1943(昭和18)年のことである。したがって、仏眼寺のレプリカ本尊が製作された当時は、江戸幕府の寺社奉行も、大石寺自身も末寺として公認していなかった時代に製作されたものである。

したがって、大石寺と同門でもなく、現場に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が存在していなくても、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「レプリカ本尊」の製作が可能だったこと。これを仙台・仏眼寺の「レプリカ本尊」が見事に証明している。
そもそも日蓮本尊の「模写」など、「冨士一跡門徒存知事」の中に出てきていることであり、これも鎌倉時代に製作可能であったことが明らか。
よって、仙台・仏眼寺の「レプリカ本尊」の存在そのものが、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊と、大きさ、脇書が全く相違している、日向造立「板本尊」が、全く無関係である明白な証拠である。

□二番目の証拠は、「興風談所」が発行している「日興上人御本尊集」に、大石寺をはじめ日蓮正宗寺院に格蔵されている日興真筆本尊の写真や模写図が登場していること。
「興風談所」というのは、日蓮正宗大石寺67世阿部日顕法主によって破門された正信会僧侶が中心になって運営している所である。
この事実からしても、大石寺と信仰上で袂を分かっていても、本尊の模写・複製が可能であることを明確に物語っているのである。






■検証186・日向造立板本尊と「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は全く無関係だ5

□日向造立「板本尊」が実は本尊ではなく「寺位牌」だったという証拠
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(国賊せまし(仮名)を擁護する太井肉塊(仮名)の妄説)
>「乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立」などと脇書が書いてある本尊がどこにあるというのか。
日向が正安2年に造立した板本尊の脇書には「右、日蓮幽霊成仏得道乃至法界平等利益の為に敬って之を造立す」と書かれているそうですが、身延山久遠寺の本堂に本尊として50年以上安置されていた事が当の日蓮宗の記録から明らかになっています。
(『アンチ日蓮正宗VS日蓮正宗』掲示板192の太井肉塊(仮名)なる者の妄説)
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「「乃至衆生平等利益の為に敬って之を造立」などと脇書が書いてある本尊がどこにあるというのか」という当方からの反問に対して、太井肉塊(仮名)は、日向造立「板本尊」がそれだと繰り返すだけ。これは太井肉塊(仮名)は実質的に、反論不能に陥っているということに他ならない。
「乃至法界平等利益の為に敬って之を造立す」と書いた日向「板本尊」が、本当に「本尊」なら、「乃至法界平等利益の為」と書いてある本尊がそれ以降も複数存在しているはずである。しかし、日蓮正宗でも日蓮宗でも、そのような本尊は一つもない。
日向「板本尊」は「本尊」ではなく、「寺位牌」だったという証拠の第一である

そもそも寺位牌・本位牌という化儀は、日蓮正宗にはなく、日蓮宗、禅宗、浄土宗、真言宗、時宗にある化儀であるので、これをインターネットフリー百科事典から引用する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8D%E7%89%8C
「本位牌」
四十九日の法要までに、野位牌から作り替えられる位牌。漆塗りに金箔・沈金・蒔絵が施されるなど立派な物が多い。永く仏壇に安置して祀られる。位牌には札位牌と繰り出し位牌がある。札位牌は、一人あるいは夫婦など二人以上の戒名等が表面に書かれた(彫られた)位牌である(書かれた人が存命中は、朱色の字にしておく。複数名用に巾の広い巾広位牌もある。)。繰り出し位牌は、多数の木の札が重ねて納められた位牌で、木の札一枚一枚に一人の戒名等を記す。
「寺位牌」
本位牌の他に、菩提寺(旦那寺)や本山に供養の布施と共に納める位牌。寺では位牌堂や本堂内に安置し、朝夕の勤行の際に供養される。

特に「寺位牌」は、ほとんど「本尊」と同じように扱われていることがわかる。これは証拠の第二。

証拠の第三は、そもそも日向が「日蓮出世の本懐」と自称する「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を模倣して造立した「板本尊」だったら、身延山久遠寺本堂に半永久的に本尊として祀られているはずである。
しかし、そうはせずに、ある一定の期間が過ぎたら、倉庫に閉まってしまったということは、これが本尊ではなく、「寺位牌」だったからに他ならない。
「位牌」というものは、ある一定期間が過ぎたら、倉庫に閉まってしまうものだからである。

それともう一つ、付言しておくと、かつて私の日記で、日向造立「板本尊」なるものが、本尊ではなく「寺位牌」であるという説を書いたところ、日蓮宗の僧侶の方から、「その通りだ」と賛同のコメントをいただいたことがある。
その日蓮宗僧侶の方のコメントによれば、この日向「板本尊」が造立された機縁というのは、身延山中で日向が日蓮の幽霊を見た?ことに驚き、日向が「日蓮幽霊成仏得道乃至法界平等利益の為に敬って之を造立す」という文を書いたということであった。
ならば、やはりこれは「本尊」ではなく、「寺位牌」だったということである。




■検証187・「河辺メモ」は「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠ではない1

「アンチ日蓮正宗」コミュニティで
> hideさんの見識で「河辺メモ」なるものの評価・分析を教えて頂けないでしょうか。
との質問を受けたことがあるので、「河辺メモ」なるものについての見解を書いておきます。

先に結論を書いておきますと、「河辺メモ」なるものは、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠、ないしは大石寺6世日時、9世日有による偽作を証明するものではないということです。ここのところをポイントに分けて書きます。
河辺メモに関する大きなポイントは、いくつかあると思います。

□1 阿部日顕が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が偽物であると言ったのか
□2 河辺メモは「本門戒壇の大御本尊」後世偽作の証拠になるのか
□3 「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の図形が「日禅授与本尊」と本当に一致するのかどうか
□4 両本尊の図形の一致は「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠かどうか
□5仮に「本門戒壇の大御本尊」が「日禅授与本尊」の拓本だった場合、「本門戒壇の大御本尊」を偽作したのは誰なのか

こんなところではないでしょうか。
ただし、「河辺メモ」そのものは、日蓮正宗大石寺67世法主・阿部日顕も河辺慈篤氏も認めているので、「河辺メモ」を「本物」とする前提で話を進めます。

□1 阿部日顕が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が偽物であると言ったのか

「河辺メモ」が「本物」なら、阿部日顕が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が偽物であると言ったというのは、本当にそう言ったということになります。阿部日顕が「河辺メモ」が暴露された後に、「そんなことは言っていない。河辺慈篤の記録ミスだ」などと弁解したところで、後の祭りです。

ということは、少なくとも阿部日顕は、宗務院教学部長時代、「本門戒壇の大御本尊」後世偽作説に非常に近い考え方を持っていたということです。
これには傍証があります。
阿部日顕は、日蓮正宗と創価学会が和合路線を歩んでいた「宗創和合時代」の1983(昭和58)年4月6日、大石寺御影堂での「霊宝虫払い大法会」御書講の席で、次のように説法している。

「この御抄(聖人御難事のこと)の日時は、弘安二年十月一日でありますから、まだ本門戒壇の大御本尊顕発を旬日(じゅんじつ)の後に控えております。従って、この文が直ちに戒壇の大御本尊を顕したもう事実的証拠ではありません。そのように取るのは過ぎた解釈と思われます」
(日蓮正宗宗務院機関誌「大日蓮」昭和58年5月号・1983(昭和58)年4月8日付け「聖教新聞」)

どこをどう読んでも、日蓮正宗大石寺67世法主阿部日顕は、日蓮の遺文「聖人御難事」の「余は二十七年なり」の文は、「この文が直ちに戒壇の大御本尊を顕したもう事実的証拠ではありません」と、完全に否定している。

これは、日蓮正宗がよく言う、「聖人御難事・出世の本懐説」を否定することを臭わしているもので、これから推測するに、少なくとも、昭和50年代頃、阿部日顕は、「本門戒壇の大御本尊」後世偽作説に非常に近い考え方を持っていたと考えられます。

■河辺メモ


1999年7月7日、日蓮正宗と対立する創価学会系の新聞・アングラ文書が、日蓮正宗僧侶・河辺慈篤(当時は徳島市・敬台寺住職)が記録したとされるメモを公表した。これは、1978年2月7日、当時、東京常泉寺住職で日蓮正宗宗務院教学部長、後の大石寺第67世法主・阿部日顕と河辺慈篤が、帝国ホテルで面談したときに、阿部日顕が河辺慈篤に話したとされる内容である。

「S53.2.7. A面談  帝国H

一、戒旦之御本尊之件
  戒旦の御本尊のは偽物である。
  種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
  多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
  題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
  頃の筆だ。
  日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている

一、Gは話にならない
  人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の
  事ではGでは不可能だ。

一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻
  るだらうと云う安易な考へを持っている。」
■河辺慈篤(1929〜2002)

1929年(昭和4年)11月19日 - 福岡県北九州市門司区で生れる。
1935年(昭和10年) - 大石寺第62世法主・鈴木日恭を師僧として出家得度する。
日恭の死去後は第63世法主・秋山日満の徒弟となる。
1954年(昭和29年) -教師に昇格して、 徳島市の敬台寺の住職となる。
1965年(昭和40年)- 宗会議員に初当選する。
1969年(昭和44年)-南四国布教区宗務支院長になる。
1971年(昭和46年)-正本堂落慶委員になる。
1976年(昭和51年)-日蓮七百遠忌局委員・新寺建立委員会委員になる。
1978年(昭和53年)2月7日 阿部日顕と帝国ホテルで面談して、河辺メモを筆録。
1980年(昭和55年)6月12日 - 東京都江東区の妙因寺住職となる。
1981年(昭和56年)-東京第一布教区副宗務支院長になる。
1983年(昭和58年)-日蓮正宗参議になる。
1988年(昭和63年) - 札幌市の日正寺の住職となる。
1989年(平成元年)-北海道第一布教区宗務支院長になる。
1990年(平成2年)7月16日- 東京・西片の大石寺東京出張所にて行われた「西片会議」に、参議として出席。
1990年(平成2年)7月18日- 大石寺大書院で行われた御前会議に参議として出席。
1999年(平成11年) - 河辺メモが暴露。東京都新宿区の大願寺の住職となる。
2002年(平成14年)11月10日 - 72歳で死去。法名は妙恭阿闍梨慈篤房日信大徳。




■検証188・「河辺メモ」は「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠ではない2

□2 河辺メモは「本門戒壇の大御本尊」後世偽作の証拠にはならない

ならば、「河辺メモ」は、「本門戒壇の大御本尊」後世偽作の証拠かどうか、ということになりますが、私は「河辺メモは『本門戒壇の大御本尊』後世偽作の証拠ではない」という見解です。
したがって、私は「アンチ日蓮正宗」の偽作論に河辺メモを『本門戒壇の大御本尊』後世偽作の証拠として採用していません。

ではなぜ「河辺メモ」は、「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠にはならないのか。
「河辺メモ」の内容そのものは、日蓮正宗大石寺67世法主・阿部日顕が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が偽物であると言ったということに尽きるものです。
第一に、阿部日顕は、当時、宗務院教学部長でその後に、法主に登座しましたが、少なくとも「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「鑑定人」ではありません。
(鑑定人とは、訴訟などにおいて一定分野の専門的知見に基づき意見を述べる人をいう。公的な立場の人で、日蓮正宗が勝手に自称するものではありません)
「河辺メモ」が「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠になると言うなら、ならば阿部日顕が「本物だ」と言ったら、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、日蓮真造の本物になってしまうのか、という逆説すら成り立ってしまうことになります。
私は、阿部日顕を「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「鑑定人」とは認めていませんので、「河辺メモ」はも、「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠とは認めていません。

第二に、河辺メモが書かれた当時は、阿部日顕が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が偽物であると言ったとしても、これが暴露された後に「あれは記録ミスだった」だの「そんなことは言っていない」などと翻しているわけですから、とてもこれを証拠として偽作論を進めるわけにはいきません。

これが仮に、阿部日顕が「霊宝虫払い大法会」や「御大会」といった大法会の席の説法で言って、「大日蓮」やその他の機関紙にも掲載されているとか、日蓮正宗や阿部日顕が書いた正式出版物に書いてあった、ということなら、証拠として採用できるということです。
大法会の説法や機関紙掲載のもの、正式出版物なら、後になって「そんなことは言っていない」は絶対に通用しません。
しかし河辺メモの場合は、発言者が阿部日顕、筆記者が河辺慈篤で、他に同席した人物もおらず、証人もいない状態では、どうにもなりませんね。これだけでは、証拠として採用するには、あまりにも弱すぎるということです。

ただし、当時は教学部長であったにせよ、日蓮正宗大石寺の法主在職者である阿部日顕が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が偽物であると言った、という重みはあると思います。
その重みというのは、日蓮正宗大石寺法主が自ら「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作と認める発言をしていたという次元での重みということで、つまり日蓮正宗大石寺法主自ら、日蓮正宗の公式見解を否定していた、という重みです。
これは例えて云うと、ローマ法皇が「旧約聖書・新約聖書は偽書」「キリストは救世主ではない」と言うことに等しいわけです。

しかしその法主の発言の重みと、実際に「本門戒壇の大御本尊」と「日禅授与本尊」の図形が合致するかどうか、「本門戒壇の大御本尊」が後世偽作の証拠かどうかという問題は、別問題だと考えます。法主の発言が重いからと言って、それはそのまま「本門戒壇の大御本尊」後世偽作の証拠になるわけではありません。





■検証189・「図形鑑別」は「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠ではない1

□3 「本門戒壇の大御本尊」の曼荼羅の図形は「日禅授与本尊」の曼荼羅の図形とは一致しない

ならば、日蓮正宗大石寺67世法主・阿部日顕が「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が偽物であると言った言わないに関係なく、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の曼荼羅の図形が「日禅授与本尊」の曼荼羅の図形と本当に一致するのかどうか、という問題が発生するわけです。

これについては「河辺メモ」に触発された「富士門流信徒の掲示板」出身の自称・図形鑑別家・犀角独歩氏が、日蓮宗現代宗教研究所の教学発表大会や、自らの著書「大石寺彫刻本尊の鑑別」「大石寺漫荼羅本尊の真偽について」、あるいは自らのブログ「犀の角のように独り歩め」「仏教再考」で見解を発表しています。
犀角独歩氏は、1911(明治44)年に日蓮正宗信者・熊田葦城氏が出版した著書「日蓮上人」に掲載されている「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真と、出所不明の「日禅授与本尊」の写真を鑑別して、「南無妙法蓮華経」の七文字が合致するという見解を発表しています。
出所不明の「日禅授与本尊」の写真ですが、まあこれも本当に「日禅授与本尊」の写真と仮定しなければ話が進まないので、そのように仮定します。

まず第一の問題は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の曼荼羅の図形が「日禅授与本尊」の曼荼羅の図形と本当に一致するのかどうか、という点ですが、私自身が両者の写真を所持していますので、1911(明治44)年に日蓮正宗信者・熊田葦城氏が出版した著書「日蓮上人」に掲載されている「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真と、「日禅授与本尊」の写真の両方を持っているので、両者の写真を重ね合わせて光を当てるなどして、いろいろと図形鑑別をやってみました。
なにせ1911(明治44)年の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真は、あまりにも文字が不鮮明で、なかなか鑑別がしにくいのですが、私が図形鑑別を試みた結果は、「南無妙法蓮華経」の七文字以外の「日蓮」「御判」「釈迦牟尼仏をはじめとする十界」「愛染」「不動」は全く一致しません。一致しないどころか、文字の位置からして大きくずれています。
1911(明治44)年の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真と当該の「日禅授与本尊」の写真の「南無妙法蓮華経」の七文字は合致するとは言えないとの結論に達し、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真と「日禅授与本尊」の写真の図形は一致しないという結論に達しました。

これについては、皆さんも1911(明治44)年の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真と当該の「日禅授与本尊」の写真の鑑別をやってみられたらいかがでしょうか。
合致するかしないかという判断は、自らが二つの本尊の図形を照らし合わせてみて、自分で両者の写真を鑑別して判断すべきものだと思います。阿部日顕や犀角独歩氏の判断をそのまま真に受けて、自分では何もしないまま、頭から鵜呑みにすべきではありません。

さらに第二の問題として、二つの本尊の大きさの問題があります。
日蓮正宗大石寺48世法主・日量が書した『富士大石寺明細誌』に大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊縦・横の寸法が書いてある。それによると「本門戒壇の大御本尊」の縦は約143センチ、横は約65センチである。
これに対して日禅授与本尊の寸法は、縦111.0センチ×横58.3センチであると、犀角独歩氏自身が明かしている。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50915400.html#
これだと「本門戒壇の大御本尊」と「日禅授与本尊」の寸法は大きく食い違っていることになる。両者の図形が一致するのに、寸法が食い違っているというのは、大きな矛盾で、そもそも拡大・縮小コピーのない時代に、どうして大きさの違う曼荼羅の図形が一致すると言えるのか。こんな矛盾した話しはあるまい。
こういうことからしても、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の曼荼羅の図形と当該の「日禅授与本尊」の曼荼羅の図形は一致しないことを証明する傍証になっていると考えられます。

この他に、1911(明治44)年の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の曼荼羅の図形と当該の「日禅授与本尊」の曼荼羅の図形は「似ている」とする見解がありますが、「似ている」というのは、あくまでも「別のもの」ということで、図形は「合致しない」ということです。




■検証190・「図形鑑別」は「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠ではない2

□4 両本尊の図形の一致は「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠ではない

日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」の曼荼羅の図形は「日禅授与本尊」の曼荼羅の図形とは一致しないと言っても、犀角独歩氏、「河辺メモ」や犀角独歩氏の図形鑑別の支持者は、
「『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊の写真と『日禅授与本尊』の写真の図形は一致する」
などと、とことんまで言い張ってくることでしょう。
よって、『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊の曼荼羅の図形と『日禅授与本尊』の曼荼羅の図形は一致するという仮定で話を進めることにします。
そうすると、『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊の曼荼羅の図形と『日禅授与本尊』の曼荼羅の図形の一致は「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠かどうか、という問題が発生します。

私の見解は、『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊と『日禅授与本尊』の図形の一致は「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠ではないという見解です。
それはなぜか。
第一に、『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊と『日禅授与本尊』の図形の一致は、
「『本門戒壇の大御本尊』は『日禅授与本尊』の拓本である」という仮説も成り立ちますか゜同時に
「『日禅授与本尊』は『本門戒壇の大御本尊』の拓本である」という仮説も成り立ちます。
又、同時に「『本門戒壇の大御本尊』も『日禅授与本尊』も何らかの某本尊の拓本である」という仮説も成り立ちます。
したがって『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊の曼荼羅の図形と『日禅授与本尊』の曼荼羅の図形の一致から、「『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊が後世の偽作である」という結論を導き出すには他の証拠が必要になります。
しかし犀角独歩氏は、図形鑑別以外の証拠を出さないまま、「『本門戒壇の大御本尊』は『日禅授与本尊』の拓本である」という一方的結論づけをしています。

それともう一つ、犀角独歩氏は自らの著書の中で、『本門戒壇の大御本尊』を偽作とは言っていないことを附言しておきます。
さらにもうひとつ言うと、犀角独歩氏は、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊に批判的な論調を述べているにもかかわらず、人目につかない他方のコミュニティでは
「正確に言えば、わたしは法華講をやめていませんよ。 末寺の役職を辞退しただけで、脱講届も出していません。 また、大石寺から信徒除名にもなっていません。 あしからず。 」
などと、日蓮正宗の信徒としての籍、法華講員としての籍を残したままにしていることを独白している。
これを本人に問いただしたところ、日蓮正宗から正式に離檀する手続きをしていないことを認めたにもかかわらず、その一方で犀角独歩氏本人のプロフィールなどでは「大石寺法華講員ではない」「日蓮正宗を棄教した」などと、事実に反することを書いているということも言っておかねばなりません。






■検証191・「図形鑑別」は「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠ではない3

□5 両本尊の図形の一致は「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠ではない2

第二に、「『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊と『日禅授与本尊』の図形の一致は「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠」とするには、「『日禅授与本尊』が日蓮真筆である」ないしは「日禅授与本尊が『本門戒壇の大御本尊』よりも先に存在した」という前提が必要になります。
それから当該の「日禅授与本尊」ですが、日蓮の真筆本尊を収録した、最も権威ある立正安国会発刊の「日蓮・御本尊集」には、収録されていない。これについて日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、自らの著書「富士日興上人詳伝」で次のように言っている。

「禅師へご授与の御本尊については、興師のご加筆のが現存すべく、それと同形のが北山本門寺にも法道院にも存在する。予が眼が拙いためかいずれかがご真筆でありやは判断しかねる。
幸いに両本尊を同座申し上げたら判明するであろうが、その機会はなかなかあるまい。
先年、上総国東金にある祖書讃仰会の片岡清助氏が大挙撮影の時に北山にて予も参列したが、同氏らの忌憚なき真偽の評言に同山の司判(檀徒総代人等)達が憤慨していた。
そのためでもあるか、同会の改称である立正安国会から出版せられた全御聖筆の中の「御本尊目録」には北山本門寺蔵御聖筆11幅の中にようやく徳川神君に有縁の鉄砲曼荼羅という1幅だけしかのっておらず、稲守六郎授与の分は模本であるとして、他山の御正本というの端書に記してあり、その他の多数は、取るに足らぬもので、ことに本項の禅師の御分はあるいは拙劣なる模本と見たのかもしれぬ」
(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」p613)

つまり、「日禅授与本尊」の鑑定を行った立正安国会は、「日禅授与本尊」を何かの本尊の模本であるとして、日蓮真筆とは認めておらず、よって立正安国会発刊の「日蓮・御本尊集」には、収録されていないということです。
しかしその堀日亨は、「予が眼が拙いためかいずれかがご真筆でありやは判断しかねる。」などと言っていながら、「日禅授与本尊」を一方的に「日蓮真筆」と決めつけて「富士宗学要集第8巻」に収録しています。

「日禅授与本尊」の鑑定を行った立正安国会は、「日禅授与本尊」を何かの本尊の模本であるとして、日蓮真筆とは認めておらず、よって立正安国会発刊の「日蓮・御本尊集」には、収録されていません。日蓮真筆ではないと鑑定されている以上、現在の所、「日禅授与本尊が『本門戒壇の大御本尊』よりも先に存在した」という証明ができていません。
犀角独歩氏もブログの中で、「日禅授与本尊」を何かの本尊の模本であると認めていますが、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊より、「日禅授与本尊」が先に存在していたという証明を何一つ行っていません。
ただし、仮に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊より、「日禅授与本尊」が先に存在していたという証明が為されたとしても、まだ「『本門戒壇の大御本尊』も『日禅授与本尊』も何らかの某本尊の拓本である」という仮説を否定できないので、「『本門戒壇の大御本尊』は『日禅授与本尊』の拓本である」という仮説の証明にはなりません。

よって私は、『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊と『日禅授与本尊』の図形の一致は「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠ではないという見解です。
したがって私は、図形鑑別そのものを「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠とは採用していません。




■検証192・「図形鑑別」は「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠ではない4

□6仮に「本門戒壇の大御本尊」が「日禅授与本尊」の拓本だった場合でも「本門戒壇の大御本尊」を偽作したのは日有であることに変わりはない

日蓮正宗大石寺の本門戒壇の大御本尊」の曼荼羅の図形と「日禅授与本尊」の曼荼羅の図形が仮に一致したとしても、これは「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が後世の偽作である証拠ではないとは言っても、犀角独歩氏、あるいは「河辺メモ」や犀角独歩氏の図形鑑別の支持者は、
「『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は『日禅授与本尊』の拓本だ」
「図形鑑別は『本門戒壇の大御本尊』後世偽作の証拠だ」
などと言い張ってくることでしょう。
では、仮に「本門戒壇の大御本尊」が「日禅授与本尊」の拓本だった場合、「本門戒壇の大御本尊」を偽作したのは誰なのか、という問題が発生します。

「日禅授与本尊」は古来から北山本門寺に格蔵されていたと伝承されている本尊ですが、現在は大石寺と北山本門寺の関係は、全くの断絶状態です。
したがって大石寺の法主が「本門戒壇の大御本尊」偽作を企んで、北山本門寺に出向いて「日禅授与本尊」を模写したとなると、それは大石寺と北山本門寺が断絶する以前でないと考えられません。
(この点についても、大石寺法主が「本門戒壇の大御本尊」偽作を企んで、わざわざとなりの北山本門寺に格蔵している本尊を模写したりするだろうか、という疑念が払拭できませんが)

大石寺と北山本門寺の関係が決裂・断絶になったのは、日蓮正宗大石寺9世法主日有が死去した1482(文明14)年9月7日の「大石寺・北山本門寺・小泉久遠寺の論争」以降のことで、それまでは大石寺と北山本門寺は、開創以来、「刎頸の友」のような関係だったというのは史実です。
又、北山本門寺6代住職・日浄が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を「未聞未見の本尊」と言って非難したのは、1493(明応2)年、死去する直前のことです。

■日有の死去直後には「本門戒壇の大御本尊」は存在していた
■大石寺の法主が「本門戒壇の大御本尊」偽作を企んで、北山本門寺に出向いて「日禅授与本尊」を模写したのは、1482(文明14)年9月以前。

そうすると、「日蓮正宗大石寺の「本門戒壇の大御本尊」は日蓮正宗大石寺9世法主・日有の偽作だ」で詳しく論述している通り、経済力、新池抄聞書、事の戒壇偽作、三大秘法鼓吹、身代わり本尊彫刻、百六箇抄偽作、日興跡条条事偽作、日蓮本仏偽作、法主の血脈偽作、御宝蔵・客殿創建、といった12の証拠と3の傍証からして、日蓮正宗大石寺9世法主日有による偽作は、変わらないと考えます。したがって、仮に「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が「日禅授与本尊」の拓本だったとしても、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した人物は、日蓮正宗大石寺9世法主日有ということになる。

ところが、当の犀角独歩氏は、日有偽作説ではなく、大石寺17世法主・日精偽作説を唱えたり、14世日主偽作説に傾斜したりしているのだから、矛盾だらけの論説になっている。
犀角独歩氏が唱える「本門戒壇の大御本尊」日精偽作説、日主偽作説の誤謬・誤りについては「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作だ」の検証133から検証160にかけて詳しく論述しているので、そちらを参照せられたい。
「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作だ」PART2(検証81〜150)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42909387&comm_id=406970

■犀角独歩(さいかくどっぽ・1955〜)

創価学会員の家庭に生まれる
創価学会男子部時代は創価学会教学研究グループに所属
1990年 創価学会より脱会して東京・蒲田の日蓮正宗宝浄寺信徒になり法華講に入る
大石寺宗務院内事部『大日蓮』編集室嘱託になり 阿部日顕法主の口述から原稿作成
・大石寺宗務院教学部嘱託兼任  創価学会問題の基礎資料作成
1995年 日蓮正宗法華講宝浄寺支部の役職を辞任
JDCC(日本脱カルト研究会|JSCRP前身)参画
・社会福祉法人立正福祉会青少年こころの相談室相談員(歴任)
・NPO法人全日本青少年育成協会顧問相談役(歴任)
2004年10月25日 日蓮宗現代宗教研究所でミニ講演を行い「図形鑑別」を発表
2004年11月 「大石寺漫荼羅本尊の真偽について」「大石寺彫刻本尊の鑑別」を刊行
2005年4月 ブログ「犀の角のように独り歩め」を開始
2008年2月2日 mixi「アンチ日蓮正宗」に加入。その後、GREE「アンチ日蓮正宗」にも加入。
2009年ころ、大木道惠氏と結託して「アンチ日蓮正宗」乗っ取りを企んで、富士門流信徒の掲示板から大量に「アンチ日蓮正宗」にユーザーを流入せしめる
2009年9月 公式には「無宗教」を自称しながら、人目につかない他方のコミュニティでは
「正確に言えば、わたしは法華講をやめていませんよ。 末寺の役職を辞退しただけで、脱講届も出していません。 また、大石寺から信徒除名にもなっていません。 あしからず。 」
などと、日蓮正宗の信徒としての籍、法華講員としての籍を残したままにしていることを独白していたことがある人の通報で発覚。「アンチ日蓮正宗」から追放になる。

最近は、松本修明氏に親近して活動しているようである。




■検証193・金原明彦氏の「日蓮と本尊の伝承」に書いてある偽作説は誤りである1

2007(平成19)年8月、金原明彦氏という人物が「日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実」という本を出版している。出版した金原明彦氏とは、創価学会員であると言われているが、この本のどこにも、金原明彦氏が創価学会員であるとは書かれていない。ただし、この本の8ページに金原明彦氏が創価学会を称賛している箇所があることからして、この金原明彦氏という人は、創価学会員なのだろうと推測される。

この本の内容は、日蓮正宗大石寺に格蔵されている「一閻浮提総与の大御本尊」「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊が、日蓮の直造ではなく、後世の造立であることを認めた本であることから、「創価学会員が『本門戒壇の大御本尊』を後世の偽作と認めた本」として脚光を浴び、かなりセンセーショナルに宣伝されたこともあって、私もこの本を買って読んでみた。中には注目すべき史料もなくはないのだが、まあ、読んでみて、はっきり言って、あまりにも呆れてしまいました。
確かに金原明彦氏は、さまざまな史料などの考察から、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、日蓮の造立ではなく、後世の誰かが造立したものであると結論づけているのだが、金原明彦氏が言わんとしていることは、
「『(本門戒壇の大御本尊は)後世の造立であるが、宗祖(日蓮)の直筆をもとにしており、これまでどおり、この御本尊を本宗の根本としていく』と宣言することも可能であろう。一宗の面子も大切ではあろうが、一切衆生の成仏という大事からみれば、より小事である」
(「日蓮の本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実」214ページより)
と記しているように、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は、後世の誰かの偽作であることは認めるが、造立主は大石寺の「本堂用」ないしは「戒壇用」にこの板本尊をつくったのだから、悪意はない。したがって日蓮直筆本尊となんら変わらないのだから、今までどおり、日蓮正宗の根本の本尊であることに変わりはない、というものなのだ。

「本門戒壇の大御本尊」は後世の偽作だが、日蓮直筆本尊と考えてさしつかえない---こんな珍説を生み出した根拠として、金原明彦氏は次のように弁解している。
「(日蓮)大聖人が直接記されたものでなくとも、正しく聞き書きされたものは偽書とはいえない」
「大石寺所蔵の『本門戒壇の大御本尊』について、それが日蓮大聖人の直造であるか否かを問うことは、御本尊としての真偽を問うことではない。…日蓮大聖人の意にかなった御本尊であるか否かということと、大聖人の御真跡か否かということとは、まったく別の問題である」
(「日蓮の本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実」8〜9ページより)

室町時代、江戸時代、明治時代、終戦後から、日蓮宗各派、北山本門寺をはじめ、さらに現代でも、さまざまな方面から、日蓮正宗や創価学会などの日蓮正宗系各宗教団体に対して「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊は後世の偽作である、という批判が浴びせられている。
板本尊偽作批判をする方も、年々、年を追うごとに研究に研究を重ね、綿密な調査に調査を重ねてきているので、批判する内容が精密になり、レベルアップしてきている。
日蓮正宗も日蓮正宗系各団体も、次第に、こういった板本尊偽作批判に苦慮し、抗しきれなくなってきている??ものと考えられる。
そしてついに、日蓮正宗・創価学会側から、「本門戒壇の大御本尊」は後世の誰かの造立であるとは認めるが、日蓮の本尊であることに変わりないのであるから、今までどおり、根本の本尊として差し支えない、などという前代未聞の珍説を唱えだしたと考えられなくもない。

創価学会も日蓮正宗から破門され、今は絶縁状態になっているとはいえ、今さら大石寺の「一閻浮提総与の大御本尊」「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を否定することなど、できるはずがない。そんなことをすれば、創価学会会館や創価学会員宅の仏壇に祀られている本尊は「本門戒壇の大御本尊」の分身ということになっているのだから、自らが祀っている本尊をも全て否定してしまうことになる。
むしろ、創価学会は将来の日蓮正宗との再和解をも念頭において、「本門戒壇の大御本尊」・「二箇相承」根本説は、絶対にキープしておかねばならない生命線だろう。

まあそれでも日蓮正宗大石寺が、日蓮正宗宗務院教学部の僧侶や日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』を使って、金原明彦氏の珍説を否定してかかっているので、日蓮正宗としては、この珍説は用いることができないということのようだ。

■金原明彦(きんばら・あきひこ・1960〜)

1960年、静岡県三島市に生まれる。創価学会員。
アジア・アフリカ語学院卒業。
現在、会社役員。
著書
「愛鷹山中の謎の遺跡・山居院―史実が伝説になるとき」(2000年・沼津市明治史料館) 
など

■検証194・金原明彦氏の「日蓮と本尊の伝承」に書いてある偽作説は誤りである2

さらに金原明彦氏の著書「日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実」の内容においては、間違いが余りにも多すぎるのである。
まず、「日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実」の前半の内容は、犀角独歩氏が「大石寺彫刻本尊の鑑別」で書いている図形鑑別とほとんど同一である。しかしこの「図形鑑別」が「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠ではないと言うことはすでに論証している。

■検証189・「図形鑑別」は「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠ではない1(図形の不一致)
■検証190・「図形鑑別」は「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠ではない2(証拠にならない)
■検証191・「図形鑑別」は「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠ではない3(証拠にならない)
■検証192・「図形鑑別」は「本門戒壇の大御本尊」偽作の証拠ではない4(日有偽作は不変)

さらに「日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実」の内容の、その他の内容の誤りについても、すでに論説しています。

「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮真筆ではない。後世の偽作だ」
PART1http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66503912&comm_id=406970
■検証41・金原明彦氏の塗漆・塗金箔説は「本門戒壇の大御本尊」後世偽作の証拠ではない
「日蓮正宗大石寺の『本門戒壇の大御本尊』なる板本尊は日蓮正宗大石寺9世法主日有の偽作だ」PART2http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=42909387&comm_id=406970
■検証124・日蓮正宗大石寺六世法主日時・八世法主日影の時代に「本門戒壇の大御本尊」偽作は不可能1(金原明彦氏の「本門戒壇の大御本尊」6世日時・8世日影偽作説は誤りである1)
■検証125・日蓮正宗大石寺六世法主日時・八世法主日影の時代に「本門戒壇の大御本尊」偽作は不可能2(金原明彦氏の「本門戒壇の大御本尊」6世日時・8世日影偽作説は誤りである2)
■検証126・日蓮正宗・平井信行寺の応永十九年の板本尊は日有の時代に彫刻造立されたものだ(金原明彦氏の「本門戒壇の大御本尊」6世日時・8世日影偽作説は誤りである3)
■検証127・日蓮正宗・平井信行寺の応永19年の板本尊は日有の時代に彫刻造立されたものだ2(金原明彦氏の「本門戒壇の大御本尊」6世日時・8世日影偽作説は誤りである4)
■検証128・日蓮正宗・平井信行寺の応永19年の板本尊は日有の時代に彫刻造立されたものだ3(金原明彦氏の「本門戒壇の大御本尊」6世日時・8世日影偽作説は誤りである5)
■検証129・日蓮正宗・平井信行寺の応永19年の板本尊は日有の時代に彫刻造立されたものだ4(金原明彦氏の「本門戒壇の大御本尊」6世日時・8世日影偽作説は誤りである6)
「日興跡条条事」は日興真筆ではない。後世の大石寺法主・9世日有の偽作だ!
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=37625405&comm_id=406970
■検証32・金原明彦氏の「日興跡条条事・真書説」は誤りである

このように内容に於いて、これだけ誤りがあると、もはや偽作説として成り立っていないと言うべきです。
そもそも、この「日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実」という本は、創価学会員である金原明彦氏が、後世の偽作である「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を、無理矢理にでも日蓮の出世の本懐である本尊に据えることを認めさせようという魂胆からはじまった本であることからしても、金原明彦氏の偽作説は成り立っていないと言うべきである。



■検証195・日蓮正宗未入信者で「本門戒壇の大御本尊」御開扉を受けた人はいた1(日蓮正宗が説く秘仏論の誤り)

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(日蓮正宗の妄説)
本門戒壇の大御本尊内拝を「御開扉」といい、本宗(日蓮正宗)信仰者にかぎり、御法主上人の許可を得て受けることができます。
(日蓮正宗発行『日蓮正宗入門』p283〜p284)
富士大石寺では、日蓮正宗の信心をしていない人は大石寺の「本門戒壇の大御本尊」に内拝・参詣出来ないと聞いています。本門戒壇の大御本尊は「秘仏」なのです。
(各掲示板等に見られる日蓮正宗信者の書き込み)
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何かあると日蓮正宗の信者は、必ずと言っていいほど「大石寺の『本門戒壇の大御本尊』は秘仏だ。未入信者は御開扉を受けられない」と言って、すぐに自分たちだけの殻の中に閉じこもろうとするが、「日蓮正宗の未入信者は御開扉を受けられない」ということが、事実に反することであることを論証する前に、まず日蓮正宗が言う「秘仏」の言葉の使い方が誤りであるということを指摘しなければならない。まず「秘仏」という言葉であるが、これは辞書によれば

「厨子(ずし)などに納められ、普段は拝観を許していない仏像や仏画。」

と載っている。YAHOO百科事典によれば

「秘せられた仏像の意で、厨子(ずし)や仏龕(ぶつがん)に納め、普段は扉や蓋(ふた)を閉じて拝観が許されない仏像(仏画を含む)。
平安時代以降、密教の影響を受けたものと思われるが、日本では古くから例が多く、法隆寺夢殿の救世観音(くせかんのん)像、東大寺二月堂の十一面観音像、善光寺の阿弥陀(あみだ)三尊像、石山寺の如意輪観音像、清凉(せいりょう)寺の釈迦如来(しゃかにょらい)像、浅草(せんそう)寺の聖(しよう)観音像、江島(えのしま)神社の裸形の弁才天像などがよく知られている。これらのほとんどは年1回ないし7年、33年、61年目などに開帳されるが、東大寺二月堂、善光寺、浅草寺の像のように絶対秘仏として開帳されないものもある。また法隆寺夢殿の本尊は鎌倉時代ごろから秘仏とされてきたが、1884年(明治17)フェノロサ、岡倉天心らにより神秘の扉が開かれたときの逸話は名高い。
秘仏とされるものには諸条件があり、霊験(れいげん)あらたかなため秘して特別な尊崇をするもの、また密教の聖天(しょうてん)歓喜天(かんぎてん)像とか裸形の尊像などのように、グロテスクもしくはエロティックすぎて一般の公開がはばかられるもの、あるいは災害などで像が損傷を受けたり、滅失して公開できなくなったものも含まれる。」

つまり、普段は厨子の扉が閉められていて、日常的に拝観ができない本尊のことを「秘仏」と言うのであり、自宗の僧侶・信者以外が拝観できるかできないかが「秘仏」か「秘仏」でないかの境界線ではないのである。
こういったことを踏まえ、日蓮正宗では、中世の昔から日蓮正宗に入信していない人で、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受けて内拝した人は、歴史的に何人もいたわけだが、この項目では、それらの人たちのうちの5人の人をここでとりあげることにする。




■検証196・日蓮正宗未入信者で「本門戒壇の大御本尊」御開扉を受けた人はいた2(下総妙興寺の大法院日憲)

現在のところ判明している、日蓮正宗に入信していない僧侶、未入信者が、日蓮正宗大石寺に参詣して「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「御開扉」を受けた最も古い記録は、江戸時代の初期、日蓮正宗大石寺15世法主日昌の代に、日蓮宗の寺院・下総(千葉県)妙興寺の僧侶・大法院日憲が「御開扉」を受けた記録ではないだろうか。
その大法院日憲が「御開扉」を受けた記録というのは、「日蓮宗宗学全書」18巻P149に収録されている「当家諸門流継図之事」である。そこには、次のように書いてある。

「大石寺板本尊の事 日憲参詣の時、委く拝し奉る。竪五尺、横二尺四寸なり。去て御勧請の次第は上段には釈迦多宝本化の四菩薩、次の段には文、普、薬、弥、舎、迦、大梵、釈提、大日月明星、次の段には天、章、伝、台、阿闍、提、次の段には鬼子、十羅、天八、仏滅後二千二百二十余年○大漫荼羅也、日蓮御判、其の下に横右現当二世の為に造立件の如し、御判の右之脇に、本門戒壇之願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日云々」
(「当家諸門流継図之事」/「日蓮宗宗学全書」18巻P149〜150)

このように大法院日憲という僧侶が、大石寺に参詣して「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を内拝して、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の相を詳しく書き留めている。この文の内容からして、明らかに日憲は、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「御開扉」を受けて、内拝をし、じっくりと「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の漫荼羅の相を観察していたことが明らかである。

□大木道惠氏の大法院日憲・京都本法寺・東光院日憲・同一人説は誤りである

下総国(千葉県)の妙興寺とは、正峰山妙興寺と長崇山妙興寺の二ヶ寺あり、大法院日憲という僧侶は、いずれの妙興寺の貫首の名には載っておらず、謎の多い人物であるが、大木道惠氏は、この大法院日憲とは、京都本法寺五住職・東光院日憲(?〜1525)であるという説を唱えている。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32236722&comm_id=406970
「『当家諸門流継図之事』 下総峰妙興寺大法院日憲(京都本法寺六世、東光院日憲)1525寂」
(2008年11月20日に大木道惠氏が「アンチ日蓮正宗」トピックに書き込んだ文)

京都本法寺とは、日蓮宗本山の叡昌山本法寺(本尊は十界大曼荼羅)のことで、ここは日蓮宗京都十六本山の一つで永享8年(1436)に、「不受不施義」を初めて唱えたとされている日親により四条高倉に創建された寺院。
しかし、「当家諸門流継図之事」によれば、大法院日憲が大石寺に登山して「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「御開扉」を受けたのは、大石寺15世日昌の代の時であるから、1525年に寂した東光院日憲だとすれば、年代が合わないことになる。したがって、大法院日憲と京都本法寺五住職・東光院日憲とは全くの別人であり、大木道惠氏の説は誤りであると言うことになる。

いずれにせよ、下総妙興寺という寺院は、富士門流でも大石寺門流でもない、日蓮宗の寺院であることからして、そこの僧侶が「御開扉」を受けたということは、大石寺15世日昌の代に、日蓮正宗に入信していない僧侶が、日蓮正宗大石寺に参詣して「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「御開扉」を受けたということに他ならない。


■妙興寺(みょうこうじ)

下総国(千葉県)の妙興寺とは、二ヶ寺あり、いずれも日蓮宗の寺院。

□正峰山妙興寺

千葉県香取郡多古町多古584にある、日蓮宗寺院で正峰山妙興寺という。
寺域に本堂、山門、鐘楼などが建ち並び歴史の重さを感じさせる名刹。日蓮上人の直弟子、中老日辨によって正安2年(1300)年に創建された。二世日忍の時に現在の峰の地に移り、山号を正峰山と改めて以降、通称「峯の寺」と呼ばれている。
山門は明和2年(1765)、三世日精の代に建てられ、多古藩主の定紋が附されています。寺には、弘安2年(1279)に日辨に与えた日蓮直筆の曼陀羅、立正安国論草稿のほか、日辨御持扇地紙、日祐・日尊・日親の曼陀羅、正木大膳時茂、原胤栄の制札など、多数の寺宝が所蔵されている。
また寺内には、多古藩主久松氏の墓地、演劇で有名な「鏡山おはつ」のモデルとされる忠婢さつの墓がある。


□長崇山妙興寺

千葉県千葉市若葉区野呂町738にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。長崇山妙興寺という。
日蓮の檀越・曽谷入道教信の子である曽谷四郎左衛門直秀が出家して道崇と号し、建治元年(1275)、今の境内の南方800メートルの加納ヶ丘の地に法華の道場を開いた。
その後、講堂が建立され、七堂伽藍が建てられた。
永禄12年(1569)、里見氏の兵乱によってことごとく堂宇を焼失。
天正7年(1571)、地頭・斉藤善七郎胤次が再建願主として現在地に土地を寄進して堂宇を建立。
慶長元年(1596)、妙興寺に野呂檀林が開檀され、当時としてはまれに見る大講堂があった。
寛文元年(1661)、碩学・安国院日講が「法華玄義」「法華文句」を講ずると全国から学僧が集まって隆盛を極めた。
寛文6年(1666)、徳川幕府は安国院日講が唱える不受不施を非として日講を日向に流罪にし、時運が衰微した。

大石寺15世法主日昌が、法主として在位していたのは1596年(慶長元年)から1622年(元和8年)の間であるので、大法院日憲が長崇山妙興寺の日憲だとすれば、野呂檀林の学僧である可能性が高い。


■大木道惠(おおき・みちよし・1954〜)

通称名は大木道惠(おおきどうけい)、ネットではFBI、ないしはOM@FBI、「置時計」(おきどけい)のHNも使っている。
1954年、横浜市生まれ。自称・ジャーナリスト。立正大学文学部社会学科卒業。
学生時代に日蓮正宗・創価学会に入信するが、「除名」されたと自称。その後、正信会系檀徒を経て、日蓮正宗法華講員になる。本人は法華講員のコミュニティでは
「私は正宗を辞めてはいませんよ。 講中活動を一切辞めただけで、脱講届も出していません。また、所属寺院からも大石寺から信徒除名にもなっていません。現段階で老僧や学僧の方たちとも親しくさせていただいていますよ。 悪しからず。」
と書いている。
創価学会系の雑誌「新雑誌21」に「宗教評論家」ないしは「宗教ジャーナリスト」の肩書で1991年の宗創戦争以前から登場し、「創価学会擁護・日蓮正宗批判」の記事を多数執筆。
1991年7月号「新雑誌X」で
「『新雑誌X』では今回を含めて、四回に及ぶ座談会をしましたが、出席者である私たちは『創価学会に点が甘い』『創価学会のイヌ』(笑)という批判を受けてきましたが、私たちの真意はこのへんにあるわけです。日蓮正宗当局がこうした活動を推進するようなら、私(梅原正紀)や大木(道惠)氏は喜んで『日蓮正宗のイヌ』になります」
と言って、「『日蓮正宗のイヌ』になります」宣言をしている。
さらに日蓮正宗と創価学会の「宗創戦争」後に、創価学会系怪文書「地涌からの通信」の内容に著しく酷似している著書「仏教者の戦争責任―日蓮正宗の歴史改ざんを問う」を執筆。
日蓮正宗大石寺理境坊妙観講の指導教師・小川只道と直接関係があり、情報提供していることを認めていることから、日蓮正宗・創価学会の二重スパイ疑惑が指摘されている。
2004年11月、日蓮宗・現代宗教研究所の教学研究発表大会で「日蓮正宗系団体の動向について」と題するミニ講演を行い、実質的な創価学会擁護講演を行う。
2008年5月2日、mixi「アンチ日蓮正宗」に加入。後にGREE「アンチ日蓮正宗」にも加入。
犀角独歩氏や「富士門流信徒の掲示板」参加者たちと結託して「アンチ日蓮正宗」乗っ取り工作を行うが失敗して頓挫。2009年9月、「アンチ日蓮正宗」から追放。

富士宗学研究会、宗教社会史研究会、世界救世教問題を考える会、興門資料研究会、独歩の会(解散)主宰
著書・論文
「創価学会攻防史の研究」(新雑誌X、新雑誌21、福神、などに掲載)
 『仏教者の戦争責任―日蓮正宗の歴史改ざんを問う』(文芸社)
 『日蓮正宗教学論文目録』(たまいらぼ)など。
 私家版として
 『創価学会における政教一体の歴史 1』(宗教社会史研究会)
 『創価学会問題関連書籍目録』1、2、索引(宗教社会史研究会)
 『富士宗学諸本対照一覧』(富士宗学研究会)
 『日蓮聖人遺文集諸本対照一覧』(富士宗学研究会)
 『日蓮正宗筆者別教学関係著作論文目録』(富士宗学研究会)
 『創価学会版御書全集真偽一覧』(富士宗学研究会)
 『大石寺版平成新編御書真偽一覧』(富士宗学研究会)
 『三島由紀夫全集(旧版)総目次』(雅仙堂)
 『決定版 三島由紀夫全集総目次』(雅仙堂)その他。
  復刻を企画し刊行した資料
 熊田葦城著『日蓮上人 日興上人』(宗教社会史研究会・鹿砦社)
 佐藤慈豊編『日蓮大聖人御書新集』(宗教社会史研究会・鹿砦社)など。



■検証197・日蓮正宗未入信者で「本門戒壇の大御本尊」御開扉を受けた人はいた3(姉崎正治・山川智応・長瀧智大)

日蓮正宗大石寺55世法主下山日布の大導師で、宗教学者・姉崎正治博士、国柱会の山川智応氏、長瀧智大氏が、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「御開扉」を受けたことがあった。
日蓮正宗宗務院機関誌「大日蓮」昭和10年(1935)3月号の「日布上人をしのび奉りて」と題する論考には、次のような文がある。

「ある時、姉崎博士それから国柱会の山川・長瀧等の諸先生が登山されたことがあった。(日布)上人の御導師で戒壇の御本尊の御開扉、終りて徐ろに参詣者に向直られたる(日布)上人は、『各々ヨウコソの御登山、仏祖三宝も御満悦のことと存ずる---各々が無始以来の罪障消滅現当二世の所願満足と厚く御祈念申し上げました。南無妙法蓮華経---』と一拶された。
諸先生方は驚いたかも知れぬ。しかし(日布)上人よりして見れば当時高名な先生方も、学者も富豪も、村翁野媼も選ぶ所なく等しく仏子、等しく導き等しく語るべきなりとせられたに違ひない」
(「大日蓮」昭和10年(1935)3月号)

姉崎正治(1873〜1949)氏とは、京都府生まれの評論家・宗教学者(キリスト教・仏教)。第三高等中学校を経て、1893年、東京帝国大学(現・東京大学)哲学科に入学。1896年、同大学同学科卒業。1900年にドイツ・イギリス・インドに留学し、1903年に帰国。
1904年、東京帝国大学教授となる。1905年、同大学文科大学に宗教学講座を開設。日本の宗教学研究の発展の基礎を築いた。東京大学宗教学研究室には、彼の写真が今も飾られている。ジャパン・レビューにも寄稿した。また、1923年から1934年までは、同大学の図書館長を務め、関東大震災の被害に遭った図書館の復興に尽力した。1939年7月から1947年5月まで貴族院議員も務めている。

山川智応(1879〜1956)氏とは、日蓮宗僧侶・仏教学者。本名を伝之助という。国柱会の田中智学に師事し日蓮主義運動に参加。日蓮教学の発展に貢献した。著書に『日蓮聖人研究』等がある。
長瀧智大氏も、山川智応氏同様に国柱会の中枢幹部である。

日蓮正宗大石寺55世法主の下山日布(1835〜1919)とは、1874年(明治7年)12月12日、大石寺55世日布として登座。1889年(明治22年)6月15日、56世大石日応へ相承を譲る。
1919年(大正8年)3月4日、84歳で遷化(死去)している。
姉崎正治博士、国柱会の山川智応氏、長瀧智大氏がいつ「御開扉」を受けたのか、日時は記載されていないが、1874年に登座してから1919年に死去するまでの間のことと思われる。

ところで、この下山日布が姉崎正治博士、山川智応氏、長瀧智大氏の三人に「御開扉」を受けさせた一件を、1991年に勃発した宗創戦争において、創価学会の機関紙や謀略紙が、さかんにとり上げ、「邪宗の者に御開扉を受けさせた」と日蓮正宗をポロクソに非難している。
ところが、その創価学会も、同じように未入信者に「御開扉」を受けさせていたことがあるのである。

私からすれば、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊そのものが日蓮とは何の関係もない、後世の偽作であり、日蓮正宗に入信していない人が「御開扉」を受けたこと自体を別にとやかく批判する気はないし、未入信者が「御開扉」を受けようが受けまいが、自由だと思う。
私が言っているのは、日蓮正宗未入信者で「本門戒壇の大御本尊」御開扉を受けた人は過去にたくさんいたにも関わらず、「『本門戒壇の大御本尊』は秘仏だから、日蓮正宗の僧侶・信者以外は御開扉は受けられない」などという欺瞞的なことを言うべきではないと言っているのである。


■下山日布(しもやま・にっぷ・1835〜1919)

日蓮正宗大石寺55世法主  広宣院川越阿闍梨泰勤または泰隆と称する
1835(天保6)年2月5日 埼玉県入間郡石井村に下山善助を父として誕生
1841(天保12)年1月16日 7才のときに日蓮正宗大石寺51世法主・日英を師僧として出家得度。
1852(嘉永5)年4月20日 18才で上総の細草檀林に入る。
1864(文久4)年 細草檀林を出檀(卒業)。
1874(明治7)年12月12日、54世日胤より相承を受け、大石寺55世法主日布として登座
1876(明治9)年、日興門流八本山とその末寺により日蓮宗興門派が成立。大石寺門流もこの中に入る。
1878(明治11)年12月17日 北山本門寺34代貫首・玉野日志が大石寺に問難書を送ったことについて、北山本門寺・玉野日志貫首宛てに返書を送る。
1881(明治14)年5月16日より1882(明治15)年4月26日まで、日興門流八本山貫首の輪番により、日蓮宗興門派第4代管長に就任。
1881(明治14)年8月10日〜16日 大石寺にて日蓮六百遠忌法要を行う
1882(明治15)年7月 大石寺分離独立願いを内務省に提出
1883(明治16)年11月8日 僧俗護法会議を開き大石日応を議長に任命する
1884(明治17)年10月4日 血脈付法の大石寺法主を日蓮宗興門派管長に選任すべき意見書を八山会議に提出させる。
1885(明治18)年4月15日 大石寺と他七山がそれぞれに分派願を内務省に提出
1885(明治18)年6月15日 大石寺大坊を辞して富士見庵に隠退し、隠居だった大石寺52世鈴木日霑が三度大坊に入って大石寺法主の当職に就く
1889(明治22)年5月21日 大石寺56世大石日応に相承する
1919(大正8)年3月4日 大石寺富士見庵にて遷化(死去)。85才

■検証198・日蓮正宗未入信者で「本門戒壇の大御本尊」御開扉を受けた人はいた4(ノリエガ将軍)

現代の20世紀の時代においても、未入信者が「御開扉」を受けた実例があった。その人物とは、かつてのパナマの独裁者・ノリエガ将軍である。ノリエガ将軍が「御開扉」を受けた場所は、正本堂であり、池田大作を通じてノリエガ将軍が「御開扉」を受けたということに他ならない。
池田大作とノリエガ将軍の関係は古く、両者は1974(昭和49)年以来、パナマ、日本、ハワイでしばしば旧交を温め合ってきている。
そのノリエガ将軍が、1991年の宗創戦争勃発以前の「宗創和合時代」において、池田大作の尽力で、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が格蔵されていた日蓮正宗大石寺正本堂に参詣している。そのノリエガ将軍の正本堂参詣を創価学会の機関紙「聖教新聞」は、以下のように伝えている。

「(ノリエガ将軍は)正本堂に参詣してパナマ国家の健全な発展に向けての出発点にした」(1974年10月29日付け『聖教新聞』)
「この日(ノリエガ)将軍は(池田名誉会長との)会談に先立って総本山大石寺に拝観しており、名誉会長も前日の雨も止み、晴天の中での総本山拝観は、まさに貴国の大発展を象徴していると思うと喜びを述べ…」(1985年5月31日付け『聖教新聞』)
「なお、この日午後、同将軍は総本山大石寺に詣でた」(1986年12月14日付け『聖教新聞』)

大石寺に「参詣」「詣でる」というのは、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の「御開扉」を受けることを意味する。これは「日蓮正宗の常識」である。創価学会も、池田大作をはじめ最高幹部の登山を大石寺「参詣」「参拝」とか正本堂「参詣」「参拝」と呼び、「御開扉」を受けるための正本堂への入場券のことを「参拝券」と呼んでいた。(内拝券とは呼んでいなかった)
こういったことからか、1990年2月1日号「ニューズウィーク」誌が、「ノリエガ将軍・創価学会員説」を報道している。この報道に対して、創価学会本部が「ノリエガ将軍の創価学会入信」を公式に否定したとのコメントが載せられている。しかし創価学会はノリエガ将軍が正本堂で「御開扉」を受けたことは否定していない。
1989年12月21日、アメリカ軍がパナマに侵攻し、ノリエガ邸に突入したところ、ノリエガ邸内には、「ブードゥ」や「黒魔術」などといわれる呪術の儀式のための生き血が祭器の中に残されていたという。ノリエガ将軍が創価学会に入信していたとしたら、自宅でこんな呪術の儀式をしていたとは、とても考えにくいものがある。つまりこれは、ノリエガ将軍は、創価学会本部のコメントのように、「創価学会員ではない」ということであり、ノリエガ将軍の正本堂参詣も、日蓮正宗未入信者が「御開扉」を受けた事例ということになろう。

十五年くらい前のことだがこのことを、日蓮正宗K寺住職H氏と問答をしたときに、私のほうから指摘したことがある。するとH氏は「正本堂の中には入っていない」と一点張りに言い張るだけ。私がどんな証拠を出しても、ただ頑迷に「正本堂の中には入っていない」と言い張るだけだった。
日蓮正宗と創価学会の宗創和合路線時代における創価学会主宰の大石寺団体登山・個人登山参加者については、日蓮正宗は創価学会に全面委任しており、誰が参加していたのかについては全く把握しておらず、ノーチェック状態だった。したがって日蓮正宗住職が頑迷に「正本堂の中には入っていない」と言い張るのは、何の根拠もないただのハッタリに過ぎない。
だいたい常識で考えて、地球の裏側のパナマの独裁者を、わざわざ日本の大石寺まで招待しておいて、正本堂に入る直前で「ここから先は、あなたは中に入れません」なんて言ったら、失礼千万で済むものではない。「オレはパナマの国家元首だぞ。国家元首をなめるな」という話になり、その後の池田大作とノリエガ将軍の蜜月関係など、とうてい有り得なかっただろう。
又、創価学会は今日、「日蓮正宗が未入信者に御開扉を受けさせる謗法を行った」などと言って日蓮正宗を非難しているが、何のことはない。創価学会もかつては同じことをしていたのである。
日蓮正宗も創価学会も「同じ穴の狢」だから、当然といえば当然か?



■マヌエル・ノリエガ(マヌエル・アントニオ・ノリエガ・モレノ・1934〜)

パナマ共和国の軍人、政治家。国家元首、最高司令官(将軍)だった人物

パナマ大学を卒業後にペルーに留学。帰国後、国家警備隊に入隊し、パナマの米州学校で訓練を受けた。
1983年、パナマ軍最高司令官に就任。隣国コロンビアの麻薬組織(メデジン・カルテル)と結びつき、パナマからアメリカ合衆国へコカインなどを密輸するルートとして私物化。
さらに反米国家のリビア・カダフィ政権やキューバ人に対してアメリカ合衆国の査証やパスポートを闇ルートで転売していた。
1989年に大統領選挙に出馬したが、落選が確実になると軍をあげて選挙の無効を宣言し、新たに国家最高指導者のポストを作り、1989年12月に自ら就任した。
しかしその5日後、麻薬の不正浄化や在パナマ米軍兵士の殺害、選挙結果の不履行を理由にジョージ・H・W・ブッシュ大統領の命令で米軍がパナマ侵攻。圧倒的なアメリカ軍の軍事力の前にパナマ軍は敗北。戦闘による混乱の中、アメリカ軍に拘束され、アメリカに連行される。アメリカで麻薬密輸の罪で懲役40年(後に30年に減刑)の判決を受ける。
フロリダ州マイアミで服役中だったが、模範囚であることを理由に刑期は短縮され2007年9月9日に釈放された。
フロリダ州連邦地裁は2007年8月28日にノリエガの身柄を刑期終了後にフランスに引き渡すと決定。フランスでは、同国内の銀行口座を使って麻薬資金の洗浄を行っていたとして1999年に欠席裁判のままノリエガに禁固10年の有罪判決が下されており、アメリカに対して身柄引き渡しを要求していた。その後アメリカ国務長官ヒラリー・クリントンが引き渡し命令に署名し、2010年4月26日にノリエガはフランスへ移送され、同年7月7日にパリの裁判所にて禁固7年の有罪判決が下されている。
パナマでは、政敵であったウーゴ・スパダフォラ殺害の容疑にて、ノリエガに禁固20年の判決が出ている。
2011年12月11日、ノリエガはフランスからパナマへ送還され現地到着後、収監された。



■検証199・日蓮正宗未入信者で「本門戒壇の大御本尊」御開扉を受けた人はいた5(その他)

日蓮正宗に入信していないのに、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受けた人は、他にもいる。日蓮正宗大石寺理境坊妙観講のが発行している小冊子「化儀抄のやさしい解説(上)」には、こんなことが書いてある。
「以前、顕正会や正信会の人が内拝券をごまかして御開扉を受けた、という話しを耳にしたことがあるが…」(「化儀抄のやさしい解説(上)」p38)

顕正会とは、1974(昭和49)年に日蓮正宗から破門された妙信講が改名したものであり、正信会は、1980(昭和55)年以降、日蓮正宗vs創価学会問題の中で、最終的に法主の血脈を否定して破門になった僧俗の一団。どちらも、日蓮正宗から破門されたわけだから、未入信者と同様、正規の手続きであれば、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受けることは許可されない人たちである。それがなぜ、顕正会や正信会の信者が、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受けることができたのか。
それは、1991(平成3)年正月に日蓮正宗と創価学会の宗創戦争が勃発し、その年の7月に大石寺登山参詣の制度が改正される以前においては、日蓮正宗末寺寺院の受付窓口において、自分が創価学会員であり、大石寺に登山参詣したいと申し出れば、ほとんどノーチェックで、添書が発行され、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受けることが出来たのである。
つまり創価学会員でなくても、寺院の窓口で「私は創価学会員だ」と言って、本部名・支部名を名乗れば、寺院は創価学会員の信徒名簿を持っていなかったため、全くフリーパス・ノーチェックで添書が発行されていたのである。

1991(平成3)年7月の登山制度改定によって、添書登山でも登山信徒名簿への登録が必要になり、法華講員以外は、運転免許証などの身分証明書の提示が必要になった。これによって、部外者が末寺寺院から添書を発行してもらうことがむずかしくなったわけだが、それでも、日蓮正宗未入信の部外者が、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受けることを完全に閉ざされたわけではない。それはなぜか。その後もこういったことがあるのである。

□内拝券を持っている法華講員が未入信者に内拝券とワッペンを売っている
これは、GREEの法華講員専用コミュニティの掲示板に堂々と、「部外者に内拝券を売っている法華講員がいる」という書き込みが為されています。
さしずめ、内拝券のダフ屋みたいなことをしている法華講員がいるということですね。

□大石寺の登山会に法華講員が部外者を勧誘している
日蓮正宗から「数を集めよ」と号令がかかる大石寺で開催される総登山会、法華講支部総登山会をはじめ「七万五千人総会」などに、法華講員が日蓮正宗未入信の部外者に参加するよう勧誘しています。これは2009年、日蓮正宗未入信の他宗の信者が、法華講員から「七万五千人総会」に参加するよう勧誘されたという内容のmixi日記を書いています。

□日蓮正宗末寺住職が、日蓮正宗未入信の知人に平気で添書を発行している
末寺住職も、けっこう好き勝手放題やっている人がいるようです。内拝券を手に持って胸にワッペンをつけていれば、信者であろうがなかろうが、輸送班のチェックも全てフリーパスで奉安堂(正本堂・奉安殿)の中に入れます。
未入信者であるみとがバレると「未入信とは知らなかった」と逃げる住職もいるようですが、「日有化儀抄の指南には違背していない」と確信犯的に行っている住職もいるとか。

こういったことがあるため、今でも日蓮正宗未入信の部外者が、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受けることは度々あるようです。


■添書(てんしょ)

日蓮正宗の信者が、総本山大石寺に参詣して「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の御開扉を受けるには、まずは所属寺院の住職に「添書」を発行してもらう。その添書を大石寺登山事務所に提出し、御開扉供養金を納めて、「内拝券」とワッペンを登山事務所から発行してもらう。
そして奉安堂(かつての正本堂・奉安殿も同じ)に入場する際に、ワッペンを見せて、内拝券を渡して入場し、御開扉を受ける。
つまり末寺で添書をもらう→大石寺で添書を提出→御開扉を受けるという、このパターンが、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を偽作した大石寺9世法主・日有の代から大石寺門流の中で延々と続き、これが大石寺登山参詣の基本原則になっていた。

昭和20年代、戸田城聖会長率いる創価学会が、創価学会主宰の大石寺団体登山会を開始。これは事務手続き・登山費納金から登山、列車・バスの手配、塔中坊宿泊、食事、就寝、勤行、下山まで全て創価学会が一括して取り扱い、末寺住職の添書は不要としていた。
その後、創価学会は個人登山もはじめるが、末寺住職の添書は不要とするのは、団体登山と同じであった。
創価学会の登山会では、大石寺の塔中坊に着いた後、登山会責任者から「参拝券」とワッペンをもらい、御開扉を受けていた。(創価学会では「内拝券」とは呼ばずに「参拝券」と呼んでいた)

法華講連合会の団体登山会は、法華講支部の登山部が、所属寺院住職に添書を発行してもらい、法華講連合会を通じて大石寺に添書を提出している。ただし内拝券とワッペンは、登山責任者の信者が、登山信者に内拝券とワッペンを配布するのは、創価学会の登山会と同じ。

日蓮正宗と創価学会の宗創和合時代には、創価学会の登山会も行われていたが、末寺住職が発行する添書による登山も行われるという、いわば二本立てであった。

その二本立て時代、「登山会に参加させてもらえない」と言って日蓮正宗末寺寺院の窓口に来る自称・創価学会員がかなり来ており、寺院はそういう人たちに「添書」を発行していた。
しかし日蓮正宗の末寺寺院は、法華講や寺院直属信徒・根檀家・檀徒の名簿は持っていたが、創価学会員の名簿は持っていなかった。したがって、自称・創価学会員が寺院の窓口に来た場合は、全くノーチェック・フリーパス状態であった。
ノーチェック・フリーパスだったのは、何も添書発行に限らず、供養金、本尊下附、塔婆、過去帳、葬儀、法事、永代供養、大過去帳記入、お経回り、墓地購入等の受付など、全て同じ。

1990(平成2)年12月の宗創戦争の勃発によって、1991(平成3)年6月末いっぱいをもって創価学会が主宰する団体登山・個人登山の一切が廃止され、添書登山と法華講連合会の団体登山、法華講支部登山会だけになった。
このときに、日蓮正宗末寺寺院では、「信徒名簿」「法華講名簿」の他に「登山信徒名簿」を作成しており、その中には法華講員以外の名前が多数記載されている。
その後、日蓮正宗では、創価学会破門、池田大作・信徒除名、創価学会員の信徒資格喪失としたが、「登山信徒名簿」そのものは今も生き残っている。




■検証200・大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の『写真』は著作権フリー・大石寺公認の「本物」である

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(日蓮正宗信者の妄説)
「本門戒壇の大御本尊」の写真は本物ですか?。本物の写真だと言うのなら、どうやって撮影したのですか。
(日蓮正宗の信者によるGREE・アンチ日蓮正宗の掲示板での書き込み)
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それでは、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真のほうはどうかというと、もちろん大石寺に格蔵されている「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を直接撮影した本物である。
そもそもこの写真は、1911(明治44)年に日蓮正宗信者・熊田葦城氏が出版した著書「日蓮上人」に掲載されているものである。これは日蓮正宗大石寺の正式許可のもと、当時、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が格蔵されていた御宝蔵の中で、至近距離から撮影したものであるが、「日蓮上人」の著者・熊田葦城氏は、この写真は、自身の折伏親である由井一乗氏から寄贈されたとしている。由井一乗という人物は、大正15年(1926)1月号の『大日蓮』に、大講頭の肩書で名刺広告を出している。
さらに由井一乗は、昭和4年(1929)5月13日、日蓮正宗大石寺60世法主阿部日開より日蓮正宗法華講総講頭に任命されている。そのとき、阿部日開より由井一乗に「賞与大漫荼羅」(賞与本尊)と賞状が与えられた。阿部日開自筆の賞状には、由井を称えて、
「多年爲法外護ノ勳功ニ依リ大漫荼羅ヲ賞與シ之ヲ表彰ス、昭和四年五月十三日 總本山日開在判」
とある。つまり、こういう日蓮正宗の中で枢要な地位にある人物が、熊田葦城氏に渡した「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真とは、隠し撮りや盗撮によって撮影されたものではなく、日蓮正宗大石寺の正式許可のもとに撮影され、熊田葦城氏の著書「日蓮上人」に掲載されたということである。

そもそも薄暗い御宝蔵の中で写真撮影をするには、1911(明治44)年当時の写真技術からして、撮影に充分な露光を得ることができず、照明ないしはフラッシュが必要になる。したがって、「御開扉」のときに、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を1911(明治44)年当時に隠し撮りないしは盗撮するなどということは、絶対に不可能である。
又、いくら大講頭や総講頭の地位にある人物といえども、由井一乗が勝手に御宝蔵の中に入って「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊が格蔵されている厨子の扉を開けて撮影するなどということも不可能であるわけで、この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真撮影と熊田葦城氏の著書「日蓮上人」への掲載が、日蓮正宗大石寺の正式許可のもとに行われたことは、日蓮正宗大石寺66世法主細井日達が著書「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」の中で認めているところである。

さらにもう一点。この「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真を掲載した「日蓮上人」の著者・熊田葦城氏は、1940(昭和15)年4月12日に79才で死去。(妙光寺百年史年表p129)
「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真を撮影したとされる日蓮正宗法華講総講頭・由井一乗氏は、1945(昭和20)年9月23日、82才で死去している。(妙光寺百年史年表p131)
したがって、この写真の著作権が熊田葦城氏、由井一乗氏のいずれかにあったとしても、両名の死去から数えて60年以上が経過しており、著作権法51条2項による「著作者の生存期間および死後50年までを保護期間の原則とする」著作権保護期間は過ぎ去っている。よって、この写真は、著作権フリーである。よって、この写真掲載に当たって、大石寺を含め誰からの制限・規制を受ける筋合いのものではない、ということをここにはっきりと宣言するものである。
大石寺の「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊そのものは後世の偽作であり、真っ赤なニセモノだが、「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊を撮影した『写真』は本物なのである。



■「著作権の保護期間」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%97%E4%BD%9C%E6%A8%A9%E3%81%AE%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E6%9C%9F%E9%96%93#.E5.86.99.E7.9C.9F.E3.81.AE.E8.91.97.E4.BD.9C.E7.89.A9

著作権の保護期間(ちょさくけんのほごきかん)とは、著作権の発生から消滅までの期間をいう。

この期間において著作権は保護され、著作権者は権利の対象である著作物を、原則として独占排他的に利用することができる。
著作者の生存期間および死後50年までを保護期間の原則とする(著作権法51条2項)。無名または周知ではない変名の著作物、および団体名義の著作物の著作権は、公表後50年まで保護される(著作権法52条1項、53条1項)。また、映画の著作物の著作権は、公表後70年まで保護される(著作権法54条1項)。

写真の著作物

写真の著作物の保護期間を他の著作物を区別して特別に定める規定は存在しない。したがって、一般の著作物と同様に、写真の著作物の保護期間は死亡時起算の原則により決定される(51条2項)。
写真の著作物の保護期間は、1899年7月15日に施行された旧著作権法では、発行後10年(その期間発行されなかった場合は製作後10年)と規定されていた。その後は、以下のような変遷をたどっている。

1967年7月27日 - 発行後12年(未発行の場合は製作後12年)に延長(昭和42年法律第87号、暫定延長措置)
1969年12月8日 - 発行後13年(未発行の場合は製作後13年)に延長(昭和44年法律第82号、暫定延長措置)
1971年1月1日 - 公表後50年に延長(著作権法全面改正)
1997年3月25日 - 著作者の死後50年に変更(WIPO著作権条約への対応)

上記によれば、1956年12月31日までに発行された写真の著作物の著作権は1966年12月31日までに消滅し、翌年7月27日の暫定延長措置の適用を受けられなかったことから、著作権は消滅している。また、1946年12月31日までに製作された写真についても、未発行であれば1956年12月31日までに著作権は消滅するし、その日までに発行されたとしても、遅くとも1966年12月31日までには著作権は消滅するので、1967年7月27日の暫定延長措置の適用は受けられない。したがって、著作権は消滅している。いずれの場合も、著作者が生存していても同様である。

この規定によるならば、1911(明治44)年に日蓮正宗信者・熊田葦城氏が出版した著書「日蓮上人」に掲載されている「本門戒壇の大御本尊」なる板本尊の写真は、熊田葦城氏、由井一乗氏の死後50年を待たずして、とっくの昔に著作権保護期間が消滅していることになる。



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