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異端の文学/外道の系譜コミュの大坂が生んだ町人学者にして奇才文士――岡田播陽

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 播磨の人。

 心斎橋にて呉服商を営みながら、博学な知識をもて小説や社会論を著す。近世の国内学者研究も行い、《中江藤樹》や《大塩平八郎》についても詳しい。スウェーデンボリ(スウェーデンボルグ)研究の知られざるオカルティスト――《高田集蔵》とも交流があった。
 明治期の大坂が誇る銅版画、南画の有名な《森琴石》が編纂する木版『名家画帖』から輩出した三代目《清風与平》――茶器製作による日本で最初の帝室技芸員を拝命――の長女たまは彼の妻である(琴石の日記にも播陽の名が残る)。
 主な著書に『最後のマッチ』(大正十一年)、『反射炉』(改善社・大正十六年)、『大衆経』(平凡社・昭和五年)がある。そして《岡田誠三》(1913-1993/大阪外大卒。朝日新聞大阪本社入社。戦時中は特派員としてニューギニヤに従軍し、『ニューギニヤ血戦記』(朝日新聞社・1943)『ニューギニヤ山岳戦』(1944)で第十九回直木賞を受賞。ほか『失はれた部隊』(人民会議社・1946)、大塩平八郎の小説『雪華の乱』、父の伝記『自分人間』(中央公論社・1977)などがある)は彼の息子。

 播陽の中江藤樹の逸話を小説に仕立てた『近江聖人』や、藤樹の史料『蒹葭堂献本始末』翻刻など近世の学者研究については初めに触れたが、陽明学者としての大塩平八郎研究については、文献研究のみならず深い因縁がある。というのも、彼の幼年の漢学の師であった《岡田半耕》は平八郎の門人であり、洗心洞学塾で久しく住まう者であった。その死の間際、彼は播陽とその兄、そして池田という者を呼び、以下のような想いを遺したという。

「……中斎先生の平常の生活を語り、不幸にして中斎先生は幕吏及び不信の徒のために醜詆さるヽも先生は真に高潔無比であって、人格上些の非点がなかった。そのことを證し、当時幕吏の醜状を剔抉せんとして嘗ては身を賎夫に変じ、兵庫の御用商人北風荘右衞門方の下男に住み込むなど苦辛惨憺多少の資材を得たが、不幸時は非にして自分の言は多くは功を奏せず、こヽに此一生を終るも、汝等この師の志を体して中斎先生の寃を雪ぐのことに努めよ……」(吉川延太郎『洗心洞箚記』より)

 その後、池田某は平八郎の生存を信じて薩摩に赴き、実地の調査の繰り返し中国にも渡ったが消息を絶つ。さらに播陽の兄は彼よりも早くに鬼籍にはいり、播陽のみ五十年あまり家業の傍ら大塩研究を続けていったのだった。



 数少ない江戸時代の気風を《淡島寒月》と重ね合わせることができる。隠れた文士であった。かような人もいたのである。
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