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日本語しつもん箱コミュの〜おいてもらう VS 〜もらっておく

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ある生徒のリクエストに応じて、動詞て形を中心に様々の文型を教えています。

■動詞て形 + いる
■動詞て形 + みる
■動詞て形 + あげる/くれる/もらう
■動詞て形 + おく
■動詞て形 + から
など…

一つの例文に複数の文型を用いることも教えましたが…

■頼んで みて あげる
■彼は よく がんばって くれて いる
■やって みて から わかる

そこで私がてこずっているのは動詞の「並び順」なんです。
通常は

?動詞て形→?みて→?あげる/くれる/もらう→?いる/おく

とまあ、こんな感じですが、

「〜おいてもらう VS 〜もらっておく」

これは明らかに上述の「並び順」と食い違いがありますし、
そもそもそれぞれの意味も違いますので、
生徒たちが混乱しやすいトピックなんですが、
わかりやすく説明するために、参考になる材料を募集中です。

何卒よろしくお願いします。

コメント(50)

 「9」への補足ですが,そもそも「〜テ あげる/くれる/もらう」などの表現は「主観的な話者の視点や態度(モダリティ)を表す」と いえるのだろうかという疑問も あります。

 たしかに こういうものは よく「待遇表現」などという わくぐみで論じられたりします。話者の視点に拘束されるというのも,そのとおりでしょう。でも,じゃあ主観的かというと,かならずしも そうではないと おもうのですね。そもそも はだかの動詞で,たとえば「パーティーの料理をとる」というのだって,デフォルトで「行為者が行為者の意志で行為者のために する」という意味が ふくまれています。だから,行為者の ために するのではないときには,「〜テ あげる/くれる/もらう」などの表現が必須になるのではありませんか。つまり,「〜テ あげる/くれる/もらう」などが標識をもっているのと おなじように,実は,それらをつかわないということも標識をもっていると かんがえるべきケースが おおいと おもうんですよ。そうだとすると,はだかの動詞の かたちは,もう,それ以上,動詞の「外側」に いきようが ないのだから,その時点で,「〜テ あげる/くれる/もらう」などが あらわしている受益者の表示を「主観的」といって動詞の「外側」に おくべきことだというリクツは 破綻しているのではないかと おもうんですが,いかがでしょうか。

そういう意味で,わたしは「〜テ あげる/くれる/もらう」というのは もともと動詞に ちかいところで はたらく「客観的」な要素なのだと おもっています。
< 「7」 ファール・ジェラさん

> 同じ動詞で積み上げた例文にはどうも納得しにくい部分がありますので、その状況の例を
> 1つ挙げて戴けませんか?

 つまり,ファール・ジェラさんには

■頼んで みて あげて みる

に2回「テみる」が あると,それは無意味な くりかえしに感じられるということですよね。それこそが,「頼んであげてみる」や「頼んでみてあげる」を「頼む」「テみる」「テあげる」の たしざんとしてしか みていないということだと おもうんです。

 わたしは,「テみる」は それが おかれている位置によって はじめて意味が さだまると かんがえるので,ひとつの動詞句のなかに2か所あったとしても,それぞれ別の意味をはたすことが できると おもうんです。

 うえの例だと,「頼んでみる」というのは,「頼む相手」が どう反応するか,おしはかれない(が,それでも 頼む)ということをあらわしていると かんがえます。そして,「頼んでみてあげてみる」の 最後の「テみる」は,「頼んでみてあげる」ときの受益者として想定されている人物が,「頼んでみてあげる」行為を実行したときに どう反応するか,おしはかれない(が,それでも 頼んでみてあげる)ということをあらわしていると かんがえます。

 たとえば,Aさん,Bさん,Cさんがいて,AさんはBさんのことが すきで,なおかつ有名人のCさんとは親戚どうしであるとします。そしてBさんはCさんのファンだという状況をかんがえてください。AさんはCさんの親戚なので電話をかけることはできますが,有名人のCさんは気むずかしい性格で,Aさんの頼みをきいてくれるかどうか,わかりません。以前にもAさんが しりあいのサインを頼んだとき,電話で「わかった」とは いったものの,実際には なにも してくれなかったということが ありました。でも,AさんはBさんの歓心をかうために Cさんを利用しようと おもいました。もとより,そんなことをしてBさんが ほんとうに よろこんでくれるかどうかは さだかではありません。以上のような状況で,

  AはBのためにCにサインを頼んでみてあげてみた。

という文が意味をもって成立するのではないでしょうか。
>>12 きんちょさん

なるほど、つまりこういうことですね↓

AはBのためにCにサインを?『頼んでみて』?『あげてみた』。

?=Cに頼んでみること
?=?をやってBの気持ちを伺うこと
これは無前提に書いて一般化しすぎました。

(1)*花子は パーティの料理をとってくれておいた。
(2)花子の発話で
 「いいですよ。*とってあげておきます。」

とはいえ、与えられた文脈、与えられた発話のもとでは、比較の意味でも「おいてくれた」「おいてあげた」よりは悪いですし、単独でも僕には不自然に響きます。それで、「あげておく」「くれておく」という語順が一般的に全て悪いかというと、後に名詞がきてそれを修飾する場合は、確かによくなるのでしょう。それは上でものべましたが。

(3)花子がとってくれておいた料理はキッチンにある。
(4)(私が)とってあげておいた料理は、キッチンに置きましたよ。

インタネットコーパスで挙げていただいた例も、その多くが、名詞節になっているか修飾句として後に来る名詞を修飾している場合であると思います。どうしてそうなると良くなるのかはちょっとまだ説明が付きませんが。またゆっくりと考えてみたい。

>わたしは,意味が ちがうと おもいますけどね。

違った表現形式をつかっている、つまりはここでは違った語順で並んでいる以上、厳密な意味で解釈上「意味が違う」のは当然なんだろうと思います。

(5) 新しい飼い主になった あなたには、この犬についてぜひ知っておいてもらいたいことが あります。
(6) 飼い主になると決めるまえに、あなたに ぜひ知ってもらっておきたいことが あります。

(5)は「聞き手が「知る」よう措置することが話し手の恩恵となる」ということであり、(6)は「聞き手が「知る」ことで話し手が恩恵を被るよう措置する」ということなんでしょう。これは入れ替えても齟齬をきたすことはありません。

(7) 新しい飼い主になった あなたには、ぜひ知ってもらっておきたいことが あります。(8) 飼い主になると決めるまえに、あなたに、 この犬についてぜひ知っておいてもらいたいことが あります。

つまり、聞き手がすでに飼い主になった後であれ、なる前であれ、いずれの表現もただしくあてはまるということです。

 僕が違いがないといった趣旨は、あくまで二つの表現の比較という意味において、Aが不適切でBが適切な表現環境(動詞とか、文脈とかその他諸々)、Bが不適切でAが適切だとおもわれる表現環境があって、それを比較して違いを析出できるほどの違いがみあたらなかった、ということです。もちろんこれは、他の誰かがみつけるかもしれません。

 学習者の役に立つよう、こういう環境では使える/使えないということが明示できるような2つの表現の間の意味・用法の違いを記述するという目的を意識した違いです。もちろんそれは、トピックの質問に基づいていますが。


>「主観的」といって動詞の「外側」に おくべきことだというリクツは
>破綻しているのではないかと おもうんですが,

 動詞に対して「〜てもらう」が主観的だから外側にある、と主張しているわけでありません。動詞は述語のいわば出発点というかコア(芯)の位置にあります。ですからあらゆる要素が動詞の外側にあり、全ての要素は動詞が内側にあります。

 それと主観−客観というのは、あくまでも相対的な概念です。つまり、外側にあるテンス・アスペクト・マーカーの「た」は終助詞「よ」よりは客観的だが、「た」の方が「てもらう」よりは表現としては主観的だという趣旨です。

 冒頭の(1)(2)の文の判定を説明するために、動詞のアスペクトに絡む「〜ておく」より「〜てもらう」の方がより話者の参与の度合いが高い、つまりは主観性が高い表現だからから右側(「〜ておく」の外側)にくるのではないか、ということです。
 たしかにこの「主観性−客観性」の尺度でパキッと動詞以下の述語の塊の語順に説明が付くかというと、そうはいかないところがありますが。 

  
<「14」 豊作さん

>  僕が違いがないといった趣旨は、あくまで二つの表現の比較という意味において、
> Aが不適切でBが適切な表現環境(動詞とか、文脈とかその他諸々)、Bが不適切で
> Aが適切だとおもわれる表現環境があって、それを比較して違いを析出できるほどの
> 違いがみあたらなかった、ということです。もちろんこれは、他の誰かがみつけるかも
> しれません。

この部分に かかれていることを よみますと,要するに,サンプルとして あたえられた文が「非文」であるかどうかということを つねに分析の出発点とするという たちばを表明されているように わたしには よめます。わたしは それを,アメリカ流の構造言語学から はじまって生成文法に いたるまでの流儀だと おもっています。しかし,その「流儀」というのは はじめから「意味」を客観的な分析対象には しない,というか,「意味」なんてものは科学的に分析できない…とするドグマをふくんでいると おもうんです。「6」で中右実『認知意味論の原理』を引用されていて,ファール・ジェラさんも そこに反応されていたけれども,わたしの理解では,認知意味論をふくむ認知言語学は,こうしたドグマを批判するところから出発していると おもうんですね。そして,それは当然のことだと おもうんですよ。だって,わたしたちが最終的に しりたいのは,「正文」と「非文」の ちがいではなくて,「正文A」と「正文B」の『意味』の ちがいなんですから。


>  学習者の役に立つよう、こういう環境では使える/使えないということが明示できるような
> 2つの表現の間の意味・用法の違いを記述するという目的を意識した違いです。もちろん
> それは、トピックの質問に基づいていますが。

 学習者に つたえたいのは『意味』の ちがいのはずなのに,なぜだか教師は「使える/使えない」というところにフォーカスしてしまっている。そして,そのように提示するほうが わかりやすいと信じこんでいる。
 「使える/使えない」ということが明示されなくても,「使える」もの同士で「2つの表現の間の意味・用法の違いを記述」できれば それで いいのではありませんか。「使えない」ことだけ判断できても,あまり意味がないと おもうんです。逆に,「あえて使ったら どんなことになるか」というところまで わかっていれば,それが「どのように使えない」のか(どのように特殊なばあいなら つかえるのか)ということも判断できるはずです。たとえば「ドアは あきたいんだ。」というのは「非文」だと おしえるよりも,その表現をするときには「ドア」に めや くちをつけて,意思をもった存在として えがき,なおかつ そこに話者の視点をおくりこむ(「ドア」の気もちに なりかわってみる)という てつづきが先行していなければならない…ということを「理解」させることのほうが,「無意志動詞に『たい』は つかない」と いうことよりも ずっと大切で本質的なことだ…というのが,わたしの たちばです。これは,日本語教師をしていくなかで わたし自身が獲得した たちばなので,わたしは むしろ,この たちばから旧来の言語学のドグマを批判する がわに たちたいです。そして,「認知言語学」というのは わたしにとって,こうした たちばを支持してくれるものなのです。


> これは入れ替えても齟齬をきたすことはありません。

齟齬をきたさないとしても,意味は ちがいます。単に いれかえできないようにするだけなら,つぎのようにすれば いいだけのことです。

(5) もとの飼い主は,新しい飼い主になった人物に,その犬について,きちんと知っておいてもらいたいことが あった。それは単に引き渡す時点で形式的な説明をして知ってもらっておけばいいというのではなく,その犬に万一のことが あったときには いつでも思い出せるよう,新しい飼い主が,その時点で二度と忘れないよう心に刻んで知っておくということが必要だと感じていたのだ。だから,もとの飼い主は,何度も含んで説明し,新しい飼い主にそのことを知っておいてもらおうとした。


こうした表現をわたしたちは よく「文学的表現」と いいますよね。「文学」は学習者に必要ない,「正文」か「非文」かが区別できればいい…という たちばも あるでしょう。でも,わたしの たちばから みれば,まわりみちのようであっても こうした「文学的」な表現が とらえられるような説明が あたえられていれば,「正文」か「非文」かなんてことは かなり ちいさな問題のように おもえるのですけどね。
私は、別に意味記述の意義一般を否定するつもりはありません。
私の基本的立場は、機能主義であり、チョムスキィ派の統語の自律性仮説にも反対します。

 以前の書き込みで補足したい点をひとつ。

 中右説を紹介しましたが、中右が「〜てもらう/〜てくれる/〜てあげる」を命題内容成分かモダリティ成分かどちらに分類しているかちょっとうろ覚えで、分からなくなってきました。今よく思い返してみると、命題内容成分ではなかったかと。それで、いま手元に文献がないので、何とか入手して確認の上、後日、訂正が必要なら訂正したいとおもいます。引用するなら内容を確認してからにすべきでした。


< 「16」 豊作さん

 わたしは自分が いいたいことを説明する必要があって,自分の かんがえかたの たちばのようなことをかきましたが,豊作さんの おたちばをせんさくしたり,批判したりするつもりでは ありませんので,そのへんで いきちがいが ありましたら ことばが たりなかったと おもいます。すみませんでした。

 中右さんの説に こだわらずとも,ごく常識的な文法で,動詞の ちかくにある成分から,とおくにある成分を ならべていけば,だいたい

    ヴォイス − アスペクト − テンス − ムード

と いうことに なるでしょう。この全体を「モダリティ」と よぶ ひとも いるし,「ムード」と「モダリティ」を おなじ意味で つかう ひとも いるようですが,せっかくなので ひろい意味で「モダリティ」と いう いいかたをするとすれば,おおまかにいって,言表事態めあてのモダリティから言表態度のモダリティへという順番に ならんでいます。それを「客観」「主観」と いうのは わたしは あまり すきではないけれど,そう いって いえなくも ありません。

> 主観−客観というのは、あくまでも相対的な概念です。つまり、外側にあるテンス・アスペク
> ト・マーカーの「た」は終助詞「よ」よりは客観的だが、「た」の方が「てもらう」よりは表現と
> しては主観的だという趣旨です

 それには同意できます。で,たとえば否定の「ない」は「ヴォイスよりは うしろでテンスよりは まえに位置する」というような位置の測定が できるわけですよね。そうすると 否定の「ない」と「アスペクト」は おなじ位置になって,どちらが さきになることも できる。

    ごはんをたべていなかった。

    ごはんをたべないで いた。

のように,2とおりの表現が可能になります。もちろん,意味が おなじだとは いいません。ここで いいたいことは,否定の「ない」と「アスペクト」との あいだには順序の制約がないという事実が あるということです。(しかし過去の「タ」のあとに否定の「ない」をつけることは もとから できない。順序の制約に反するということも 簡単に たしかめられるでしょう。)

そこで,「テもらう」と「テおく」の位置をかんがえてみます。

    きいてもらえる (可能のまえ)
    きいてもらう (「テもらう」自体がヴォイス的)
    きいていてもらう(アスペクトのあと)

    きいておかれる(受身のまえ)
    きいておく(「テおく」自体がアスペクト的)

「テもらう」のほうが 存在できる位置が若干,うしろよりです。「テおく」は基本的に「テいる」と共起しないので それ自体が「アスペクト」の位置をしめることができると かんがえられるのに対し,「テもらう」は その あとにも おけます。一方,「テおく」は受身のまえに おくことが できるのに対し,「テもらう」は それ自体が受身的で「ヴォイス」の位置をしめることが できると かんがえられ,可能のまえに おけても,受身のまえには きません。しかし,両者が かさなっている範囲では,「テもらう」のほうが まえに くることも できるでしょう。

    去年,神社で祈願した ねがいごとが 神さまに しっかり きいておいてもらえたようだ。

    いや,ぼくも去年,あることをきいてもらっておいたつもりだけど,それっきり なにも いいことが ないよ。

 これは,一般に「ヴォイス」と「アスペクト」とは位置が いれかわりうるということと合致します。(ごはんが ねこに 「たべられている」。 / あんなところで「たべていられる」と じゃまだ。)
すみません。

とりあえず,ひとことだけ。

わたしは,「20」で検討されているような「相互承接」の可否というか,それだけをとりだして 語感でもって「落ち着きがいい」とか 「悪い」という議論をするのは いいけれど,それが なんのためなのかということろが疑問なのです。ずっと かいてきたことも結局は,それが いいたいのですが。

「落ち着きがいい」というのは どういうことなのでしょうか。「落ち着きがわるい」ほうが ただしくない日本語で,「落ち着きがいい」ほうが ただしい日本語になるということなのでしょうか(…たぶん,ちがう)。「落ち着きがわるい」ほうは おしえないで,「落ち着きがいい」ほうだけをおしえるのが よいと いうことなのでしょうか(一理あるけれど,本質的には そういうことではないような気がする)。

あくまで仮説といえば仮説なんですが,わたしは「落ち着きが悪い」ということは,「それに ぴったりの文脈が みつけにくい」ということを直感的に のべたときの表現だと おもうんですね。ですから,「落ち着きがいい」ほうが日本語らしいとか,文法に かなっているということでは ぜんぜんなくて,単に,「そのほうが つかえるケースが おおい」とか「そのほうが よく ありふれたケースで つかわれる」ということをしめしているのではないか。ならば,「どちらが先か」ということをあたかも文法の規則として存在しているかのように論じるのは どうかと おもうのです。

(もちろん,「* かいものにいったない」のように「タ」のあとに「ない」をつけるとかいうふうな不可能な順序というものは あるでしょう。でも,ここで検討しているのは そういう基準で判断すれば すべて可能な順序だと おもいます。むしろ,可能な順序だからこそ,なやんでみたり,検討してみたり,順序が あるのではないかと かんがえてみたり しているんですよね。その時点で,対学習者むけの議論ではなくなっているようにも おもいます。)

逆にいえば,こうした相互承接に かかわる 適切な文脈の みつけやすさの ちがいというのが,文型の もつ意味に あてはまるような現実の事象の おこりやすさと関連づけて論じるようなことができれば,そういう研究は とても魅力的に おもえます。あくまで,意味や現実と きりはなしたところで規則としての議論をすることに疑問を感じるということなのです。
 …ということで,あまのじゃくな わたしは,「20」で「?」や「*」が ついたものを弁護すべく,たちあがってみようと おもいます。

★「??走ってみている」

> (「今、走ってみているところだ」にすると落ち着きがいいように思われます。)

 わたしは,「ところだ」が なくても じゅうぷん つかえる表現だと おもいますが…。

★「*走っていてみる」

 ダメ? 「もうすこし走っていてみてよ」とか いいそうですけど。

 「走る」こと全体が“テスト”として おこなわれたわけではないが,ある段階で「走っている」ことが“テスト”としての意味をもつようになった…という状況をかんがえれば ありうると おもいます。

★「*走っておいている」
★「*走っていておく」

> シテイルでは、(シテミルと)シテオクとの相互承接に特徴があるようです。

たしかに「テおく」と「テいる」は共存しないいと おもいます。これは承接の『順序』の問題というよりは意味上の衝突の問題ではないかと わたしは おもいます。

★「*走ってみておく」
★「*走っておいてみる」

これらは 2つとも わたしにとっては ぜ〜んぜん おっけいです。

 「マラソンの本番のまえに,かるく走ってみておく?」

 「このコース,1回走っておいてみたけど,まだ不安だなあ。」

とかとか。


★「??走ってあげておく」

> (「昨日、走ってあげておいた」とすると落ち着きがいいように思われます。)

それなら,つかえるということじゃありませんか? 「きのう」ならよくて「あした」だと だめなんて りくつは ないでしょう。「(サバンナのチーターが撮影にきたテレビクルーにむかって つぶやくように) しょうがない。ちょっと走ってあげておくか。」…なんて,だめですか?

★「??走ってくれておく」

> (「昨日、走ってくれておいた」とすると落ち着きがいいように思われます。)

同上。「タ」だと いいというのは,要するに これが承継の規則の問題じゃなくて,適合した文脈を想像しやすいかの問題だということをしめしていると わたしは かんがえます。「走ってくれておくって言ってたよ」なら,どうですか? 想像力が かきたてられませんか?


>  シテオクはかなり複雑なふるまいを見せます。cf)9きんちょさんのググったデータ
>  シテミルとは相性が悪いようです。

はたして,「相性」の問題なのでしょうか。わたしにとっては,「みてみておいた」「おいておいてみた」などなど,ぜ〜んぜん 問題ないんですけど…。


★「??走ってあげてみる」

> (「昨日、走ってあげてみた」とすると落ち着きがいいように思われます。)

これも おなじなんですが,別に おかしくないですよ。たとえば,タカビーなタレントが,

 「ちょっと ファンの目の前で 走ってあげてみようか。キャーキャーいうかもしれない。」

なんて おもっている…とかの例は だめなんですか? 意向形になるのは別あつかい? (「タ」が ついただけで 特別あつかいする理由が わたしには わからないのだけど…。)

★「??走ってくれてみる」

> (「昨日、走ってくれてみた」とすると落ち着きがいいように思われます。)

これも おなじこと。「タ」のほうが おちつきが いいのは,恩恵の授受は事後的に解釈するほうが しやすいのと,「テみた」だと「テみる」と ちがって,「結果的に うまく いかなかった」というときにも つかえるからでしょう。未来のことを「テみる」で いうときだと,「うまく いかないかもしれない」ということを行為に さきだって行為者が意識していなければならず,それなのに 話者のがわに恩恵をあたえるということだけは確信しているというのが,状況設定として むずかしいからでしょう。でも,検索したら,つぎのような例が ありました。「そんな時にミッチーが僕を紹介してくれてみることに…。」

似たような質問ですが、

「誕生日を覚えてくれていてありがとう」と
「誕生日を覚えていてくれてありがとう」とはどっちが自然に響きますか?
> killhiguchiさま

 ご意見ありがとうございます。

 暗黙の了解が成立している空間に,ちがう前提をもちこんで はなしをしようとすれば,衝突をまねいたり,あいとを とまどわせてしまったりすることは ある程度,さけられないのかなと おもいます。

 たぶん,わたしが介入しなければ,みなさんが あるべき「並び順」について議論し,いろいろ例外はあるものの これが標準だとか,こういう「並び順」は おかしいとか,こういう一般則が あるとか,…そういう議論が つづくのだろうと おもいます。

 でも,わたしは最初から,そういう議論の わくぐみに違和感をいだいているんです。わたしからみると,なんで みんな,おかしいと おもわずに根拠のない共通の前提に のっかって はなしが できるのだろうと,不思議でならないのですよ。だから,その,わたしからみると根拠のない共通の前提のところをつついたり,ときには正面から たたいたりして,「どうして あるべき『並び順』が あるという前提で はなしが できるの?」というところを,みなさんに釈明してもらいたいと おもっているんですが,理解されていないようです。ひととおり このことを説明したとたんに,また もとの前提の わくぐみで はなしが はじまったように みえたりも しました。そこで,いくらか挑発的な といかけをすることになったかと おもいますが,ご理解いただければと おもいます。

 なお,「相手が日本語教育を目的としているのか、単なる日本語の構造に関する知的好奇心で参加しているのか〜」の部分ですが,わたしは 特定の あいてに対して そういう きめつけをしたつもりはなくて,最初のトピ主さんが,日本語をおしえているときの疑問として問題を提起されていたので,それに そった かきかたをした部分が あったということだと おもいます。(むしろ,トピ主さんの問題提起の明示的な この前提をはなれて 自由な議論をはじめられる かたが おおいのをみて,ああ,ここは そんなふうに自由に いいたいことをかきこんで いいのだなと わたしは おもったんですけどね。)

 「誰も相互承接の順序に規則があるとかそういう話をしていない」とも おっしゃっいますが,最初のトピ主さんから一貫して,わたし以外の投稿は それを前提にし,その点に反応したものではないのでしょうか。「制約のようなもの」と おっしゃるのも,「順序の規則」の一種として のべられたのだと わたしは おもったのですが,ちがいのですか? それでは,killhiguchiさまが おっしゃる「事実の説明」「欲している解答」というのは,どのような疑問を解決するもののことをおっしゃっているのでしょうか。それは もしかして,killhiguchiさまが「容認できない」と おっしゃるものについて,なぜkillhiguchiさまが そう おもわれるのかを いいあててほしい…ということなんでしょうか。(また勝手な推測だと いわれるかもしれませんが,ご本人が はっきり かかれていないように おもうので,わたしなりに想像して,ありうる可能な こたえの ひとつをかいてみました。そうしないと,なにをしたらいいか わからないままですので。ちがっていたら,ご指摘ください。また,いうまでもなく 語感は ひとにより さまざまです。ほぼ全員が ひとしく「容認できる」,あるいは「容認できない」という意見で一致する現象も あるでしょうが,そうでない現象も あるということをあたまに いれておく必要があると おもいます。)
< 「23」 cocoさん

わたしは,それをいう ひとが,いいたいほうを いえば いいと おもいます。

あなたが それをきく立場だったら,どちらをいわれたとしても,言った人は 言ったほうのことを言いたくて,そう 言ったのだと理解するのが いいでしょう。

お礼を言う ひとが,「誕生日を覚えていてくれてありがとう」と いったのなら,仙鶴老師さんが おっしゃるように,「覚えてくれた」ことよりも「覚えている」ことに対して お礼を言ったのだろうと おもいます。でも,もし,その ひとが,「誕生日を覚えてくれていてありがとう」と いったのなら,「覚えている」こと以上に「覚えてくれた」ことをとても感謝してるのだなと うけとれば いいことだと おもいます。

わたしは,ことばは その ことばをはなす ひとの 自己表現だと おもうんですね。自然かどうかは,その ひとが なにを表現したいのかということに てらしたときに,はじめて いえることで,ことばをうけとる がわの ひとは,「その日本語は 不自然だ」などと いう まえに,あいてが その ことばをつかったことには理由が あると おもって きくという態度を大切にしていきたいと おもいます。 ききなれなくても,その ひとにとっては,そのとき ちょっと ふつうとは ちがう 「いいたいこと」が あって,その 「いいたいこと」を表現するためには それが いちばん自然だったのかもしれないじゃないですか。

< 「24」 killhiguchiさま

 具体的な内容の検討についても,おこたえします。

 文の自然さの判断については 一致しないところも あるかと おもいますが,わたしなりに おもうことも できるだけコメントしてみます。


★ 「*走っていてみる」

 きんちょ > 「もうすこし走っていてみてよ」とか いいそうですけど。

 killhiguchiさま >私には許容できません。他の例のように、文脈を整えたものや実例を示してくだされば納得します。

 納得されるかどうかは わかりませんが,ネットにあった例をひとつ あげてみます。
 「指の痺れはあるが万年筆で字を書いていてみると前衛書家の字みたいなものが書ける。」
もちろん,「書いてみると」だけでも じゅうぶん意味は通じると おもいます。ここで「書いていてみると」と あるのは,「指のしびれ」を感じたあと それでも「書き『続ける』」という選択をしたことを前面に だしたかったからではないかなと おもいます。



 きんちょ >たしかに「テおく」と「テいる」は共存しないと おもいます。これは承接の『順序』の問題というよりは意味上の衝突の問題ではないかと わたしは おもいます。

 killhiguchiさま > 書きましたように、伺いたいことは、なぜこのような現象が起こるのかということです。「意味上の衝突」とは何でしょう。具体的に考察する余地があるのではありませんか?(どうでもいいことですが、ここでは「意味上の衝突」を認めていながら、「*走っていてみる」ではそれを考える余地をなくされるのは何故でしょう。)

「テいる」には,進行継続,結果状態などと よばれるような種類が ありますが,中核になる機能は,「おなじ状態がつづく」ということをあらわすことだと かんがえます。「テおく」にも準備・放任・処置などと よばれるような用法が あるでしょうけど,共通しているのは「ある状態をつくりだして,(あるときまで)その状態が維持されるようにする」ということでしょう。そうすると,「テおく」のなかに「テいる」の意味が ふくまれているから,かさねて つかう理由がなくなってしまう…というようなことをかんがえました。ですから,ここでいう《意味の衝突》は前接も後接も できないということを意味します。

「テみる」に関しては,動作の途中でも,結果でもなく,企図して着手し,実行しはじめるまでの段階に焦点をあてて のべる表現になるので,「テいる」と意味が かぶるということは ありません。ふつうの動詞から「完遂」の意味をマイナスしたものが「テみる」が ついた動詞の意味だと かんがえれば,「テみる」は途中の意味でも,(完遂しないなりの結果が かんがえられるのであれば)結果の意味でも 後接する可能性が でてきます。また,「テいる」に「テみる」が後接するのは,「テいる」のなかに意志性が みとめられる場合でしょう。(1)意志をもって進行を継続させたり,結果状態を維持したりし,(2)その結果が どうなるかは不明…というような意味になるときに可能になると,機能の分析のほうからは予想できます。この,後接のほうの条件は かなり きびしいので,そのせいで「〜テいてみる」という形式は非文をつくるものであるかのように認識されやすいのだと おもいます。

【つぎの投稿へ つづく】
【まえの投稿から つづく】


★「??走ってくれておく」「??走ってくれてみる」

 killhiguchiさま > やはり、難しいと思います。シタ形でも無理のような気がしてきました。

もちろん,わたしも これだけをみたら,第一感では不自然だなと おもいます。

「なぜ,無理そうに おもわれるか」ということに関する理由づけは まえの投稿で すこし書いたかと思います。わたしは,

 「走ってくれてみるそうだよ」

は,よさそうに おもいますけど。見解の相違でしょうか。

 「走ってくれておくって言ってたよ」

は,自分で かいてみたのだけど,たしかに まだ くるしい感じがしますね。ちょつと ねじれた いいかたのように感じます。間接話法と直接話法が まざってしまったような印象をうけます。ただ,そんな,ちょっと混乱した いいかたって,実際には けっこう あるように おもったので,かいておいてみました。逆にいうと,人称にからむ視点の おきかたに関連して,「テくれる」のあとに「テおく」を共存させるのは むずかしいということなのではないでしょうか。「走ってくれる」に対する主格は「走る」の動作主ですが,授受表現の特徴として視点は話者に うつってしまいます。ところが,それに「テおく」をつけると,再度,動作主の意図に関連した準備・放任・処置などをあらわすことになるから,視点が,[動作主→話者→動作主] と ねじれた 格好になって おかしく感じるのではないかということです。傍証として,「走ってやっておくって言ってたよ」なら 自然に きこえませんか?


★ 「そんな時にミッチーが僕を紹介してくれてみることに…。」

 killhiguchiさま > 私には許容できません。

 引用元は( http://toshisports.blog22.fc2.com/blog-entry-6.html )です。これをよんでみると,「ミッチー」というのは鍼灸師である「僕」(筆者)の友人で,「ミッチー」は しりあいのバスケットボール選手に「僕」を紹介し,「僕」は そのバスケットボール選手の治療にあたったということのようです。そうやって みると,「紹介してくれてみる」をただ「紹介してみる」にするのは感謝の表現が たりなそうだし,「紹介してくれる」じゃなくて「紹介してくれてみる」と なっているのは,鍼灸師の「僕」は,結局,治療に失敗したという後段に むすびついているようでもあり,それなりに このような表現がされた理由が あるように おもいます。
 まあ,それでも納得していただけない かたも いるだろうし,それは しかたないことだと おもいます。また,これも上述の視点の混乱をふくんでいる表現だと おもうので,わたしも 視点が ねじれた表現だなという印象は もっています。ただ,じゃあ,どう いいなおしたらいいかというと,むずかしいなとも,おもいます。たとえば,「そんな時にミッチーが僕を紹介してあげてみることに…。」というのは視点は一貫しているだろうけど,「紹介して『あげる』」のが ほかならぬ筆者自身であるわけだから,なかなか,このようには表現できないだろうと おもうのです。
> killhiguchiさん 「33」「34」

 よる おそい時間に かきこんでくださり,ありがとうございます。

 1回の応答が2000字に はいらなくなってきました。mixiの この場が想定している適量をこえたということだと おもうので,議論を拡散させないため,いちばん大切だと おもうところにだけ おこたえします。もし,たりないところがあれば,必要が あるときに おこたえしますので,そのときは催促するなり,あらためて質問されるなり していただければと おもいます。

 豊作さんへのレスで,「ヴォイス−アスペクト−テンス−ムード」という順序を自分から あげたくらいですから,もちろん わたしも 日本語におけれ文法的な語の配列の順序というべきものが あると おもっています。「規則」として かたるのが適当なことも たくさんあると おもいます。

 いま,議論しているテーマも,そういう「規則」に かかわる部分が あるかもしれません。でも,そうではない ものも ふくまれているように おもいます。「議論するなら そこの区わけをきちんと しながら やっていくことをかんがえないと いけないんじゃないか」というのが わたしの いいたいことです。

 冗長性に関する ご質問も同様で,一切みとめない たちばでは ありません。ですから,本来は,論じるときに,意味が衝突するときに かさねることが できなくなる場合と,冗長であっても かさねられる場合の区別も していかなければならないと わたしも おもいます。東京の ことばでは存在の「ある」「いる」に「テいる」をつけて「あっている」とか「いている」とは いいません。一方,「異なっている」「ちがっている」などは いえます。大阪にいくと「いてる」も つかうようです。福岡では「あってる」も つかうようです。そういう 簡単には わりきれない問題が あるものの,東京で「いている」「あっている」とは いわないことと並行した現象として とらえてみては どうかというつもりで お返事したというふうに理解していただければと存じます。
> 「37」 killhiguchiさん

 わたしは,「区わけをきちんと しながら やっていくことをかんがえないと」と かいています。「区わけをしてから」とは かきませんでした。

 それから,くわしくは かきませんでしたが,わたしは 最初の問題に関しては いまでも「■動詞て形 + から 」をのぞいた,

■動詞て形 + いる
■動詞て形 + みる
■動詞て形 + あげる/くれる/もらう
■動詞て形 + おく

については きまった「並び順」が あるとは おもっていません。「ならびかたに応じて ちがう意味になる」ということと,「そのなかには,実際には 有効な意味をなさなくなるので結果として つかえないものが ある」という2つの原理だけで たいていのことは説明できると おもっています。そして,そのほうが よいアプローチだとも おもっています。

わたしが,きまった「並び順が」あることをみとめたのは,たとえば,「■動詞て形 + いる 」で あらわされている内容を

 ■いて + 動詞

としては ダメだよね〜…というようなことについてです。(あたりまえのことですが,再確認しておくことには意味が あるでしょう。)

わたしが,文法規則として きまった「並び順」が あると おもっている ほとんどのものは,あたりまえすぎて,おそらくは母語話者どうしでは議論の対象にすら ならないような ものです。逆にいえば,母語話者どうし,このmixiのコミュのようなところで議論しなければならない「ことばの順番」というのは,ほぼ,うえに しめした2つの原則で かんがえていったほうが よいことだろうという,けんとうをつけています。もちろん,これは経験則によるものであって,理論的に そうだというわけではありませんが。

と,いうわけで,個別の問題については わたしの たちばから,「このようにも説明できるよ」というふうに いちいち説明をこころみて,がんばっているわけです。うえのOMIさんの「36」の内容も興味ぶかく よみました。「テおく」、「テいる」は共起しないと かいてしまったことを後悔も しましたが,killhiguchiさんに つっこまれてした弁解のなかで,「テいる」が状態動詞に つく場合と,つけられない場合があるという よく にたものように感じられる事実を指摘できたことで,「それと おなじような原理での ゆれが ある」ということを解明していくことのほうが,「並び順が きまっていく」という仮説から検証していくよりも有効なアプローチであることが しめされたのではないかというふうに理解しております。結果として「並び順」が あるというふうに みえる場合も あるでしょうが,「並び順」の理論をつかったとたんに,「どうして ひとによって許容度が ちがうのか」とか「どうして例外的な使用例が みつかるのか」などの疑問をふくめて ひろい解決をする みちすじが とざされてしまうような気がします。それが,わたしが この件で抵抗をつづける根源的な理由なんだと おもいます。
< 「39」 killhiguchiさん

以下の2つは,合わせ技で「なるほどねぇ」と おもいました。

 > 方言の文法を議論に混ぜるのは、ちょっと避けた方がいいと思います。

 > シテイル・シテアル・シツツアルは一般にパラディグマティックな関係だと思いますが、
 > シテアルとシテオクは、冗長性があるはずなのに、接続します。シツツアルとシテオクも
 > 「頼んでおきつつある」「*頼みつつあっておく」接続します。

「積んでおいてある」のように,「テおく」と「テある」は ふつうに共起しますよね。「テいる」との相性が わるい原因は,「テある」と「テいる」の ちがいに通じる なにかに からんでいるはず。…そうすると,わたしの まえの説明は スジが わるかったということが わかります。「テおく」が《状態》をふくんでいるからというのは 乱暴だったことが わかります。

 それと同時に 気がついたことですが,たしかに方言によっては「テある」に あたるものと「テいる」に あたるものの分布のしかたが かなり ちがうのは周知のことですよね。だから,方言が流通している地域で,共通語で「テおいてある」を普通にいうような感覚で「テおいている」が つかわれたという可能性を慎重に みておかないと いけませんね。そこも納得です。

 「ミステリー」の部分,「頼んでおきつつある」「*頼みつつあっておく」をくらべると,すくなくとも前者のほうが時間の順番に あっているということは いえそうです。「テある」は「テおく」よりも「テおいた」に ちかい意味ですからね。「テおく」じたいは まだ状態じゃなくて動作ですよね(=さきほど 反省して撤回した件)。だから,「テある」になった《状態》を「テおく」《する》というのは意味上,無理があるけど,「テおく」《した》結果が「テある」の《状態》になるというのは理解できる。「準備」の意味での冗長性は あるけれど。

そうすると,「テおく」と「テある」の相性の悪さの理由は,動作をみる注視点を動作主から客体や状況に移動させる作用のある「テおく」と,動作主の状態に焦点をあてる「テいる」の注視点の ずれということでしょうか。

…と,以上,反省と撤回と,やりなおしの提案。
あっ,すみません。「41」の最後のところ,よっぱらって 変なことをかいてしまいました。

「頼んでおきつつある」「*頼みつつあっておく」は「テある」と「テおく」の くみあわせじゃなくて,「つつある」と「テおく」の くみあわせでした。なにを血迷っているのか!!

かきなおします。

「積んでおいてある」「*積んであっておく」をくらべると,すくなくとも前者のほうが時間の順番に あっているということは いえそうです。「テある」は「テおく」よりも「テおいた」に ちかい意味ですからね。「テおく」じたいは まだ状態じゃなくて動作ですよね(=さきほど 反省して撤回した件)。だから,「テある」になった《状態》を「テおく」《する》というのは意味上,無理があるけど,「テおく」《した》結果が「テある」の《状態》になるというのは理解できる。「準備」の意味での冗長性は あるけれど。

それから,オリジナルについても,コメントしなおします。

 「ミステリー」の部分,「頼んでおきつつある」「*頼みつつあっておく」をくらべると,すくなくとも前者のほうが時間の順番に あっているということは いえそうです。「テおく」じたいは《動作》で,しかも「テおく」が客体や状況に「準備」の意味をもたせるから,変化動詞をつくるものと かんがえて いいですよね。だから,その進行途中には「テある」よりも「つつある」のほうが えらばれる。一方,「テおく」は動作が客体や状況に変化をおよぼして「準備」が完遂することをあらわすから,動作が中途で「変化」が実現していないことをあらわす「つつある」に後接するのは ぐあいが わるい。

…こんなふうに いえば いいでしょうか。
< 「43」 killhiguchiさん

 たぶん,「理論闘争」は必要ないと おもいます。なぜなら,

>  きんちょさんは、「きまった並び順」ということばやそれを使う人たちのうちに、
> 暗黙のうちに、その現象には意味的・認知的動機付けはない、という主張を読み取って
> いらっしゃるのでしょうか?

そのとおりです。

これは,わたしの偏見だったかもしれないけれど,ずっと そう 感じていました。

あと,いいわけみたいに きこえるかもしれませんが,わたしが「きまった 並び順」と かいたときの「きまった」という ことばには,「意味的・認知的動機付けはない、という主張」によるという意味をこめたつもりでした。(結果的に そのように出現してくるものとしての「並び順」や,事実として観察されるものとしての「並び順」から区別する意味で,「きまった」という ことばをつかいました。)

ですから,「意味的・認知的動機付け」が あるだろう,あるいは,あるかもしれないと おもいながら,事実の問題として「きまった並び順」の有無を観察するということに意義が ないなどとは おもっていません。

また,少数の例外が あったとしても,おおきな傾向として,圧倒的に ある順番のほうが優勢であるという事実が あるときに,その事実が なんらかの意味をもつだろうという みとおしをすることにも反対しません。

> rule/list fallacyによる二分法も危険ですが、(確かに、周辺例はカテゴリーについて重要
> なことを教えてくれますが)周辺例からの過剰な一般化も危険なように思います。

ということにも,賛成です。ただ,「だから両者の中庸をいく」というよりは,典型も周辺も つつみこんで理解できるような説明をもとめたいという よくばりな志向が killhiguchiさんよりも つよいのかもしれません。

killhiguchiさんには,わたしが偏見をもっているように みえるかもしれませんが,「きまった並び順」ということばやそれを使う人たちの主張が,暗黙のうちに、その現象には意味的・認知的動機付けはない、というふうに理解されたり,ご本人も無自覚に そう おもっていたりすることは けっこう おおいと おもうんです。ですから,失礼と しりつつも,わたしは,まずは つついてみることにしています。特に,わたしは このコミュニティーで いままで たいして発言してこなかったので,参加メンバーのかたがたの ことが よく わかりません。つついてみて,やっぱり そうなら,「機械的すぎるんじゃないの?」ということをいうし,killhiguchiさんのように わたしの言い分も理解したうえで批判される かたには,へんな議論に つきあって いただくことになって恐縮ではあるけれど,つついてみた結果,はじめて,かんがえの ふかい かただと わかるのですから,やはり,つついてみて よかったと おもうわけです。

というわけで,わたしも理論闘争をしたいわけではありません。もしかしたら,わたしの ことばづかいが つたなくて,必要以上に「闘争」ちっくな いいかたをしてしまったかもしれませんが,そこのところは ご容赦いただきたく存じます。
 動詞テ形につく補助動詞どうしの くみあわせで,どういう順番の どういう くみあわせが 多いとか,少ないとか,ほとんど ないということ ひとつひとつの観察と,補助動詞どうしの「並び順」が どうなっているかということとの あいだには ギャップが あるんじゃないでしょうか。

 「■動詞て形 + いる 」で あらわされている内容を ■いて + 動詞 としては ダメだということを わたしが いったのに対して,「43」で killhiguchiさんが おっしゃったことについて説明すると,まえにある動詞句のテ形に「いる」が ついているということをてがかりに,わたしたちは,それが補助動詞の「いる」だと判断できるのであって,この前提をはずしてしまったら,内省も資料の分析も わたしたちが ここで しているようには すすめられなくなります。だから,「テいる」が 補助したい動詞(句)の まえではなく,うしろに つくというのは構造的に きまっていることで,意味的・認知的動機付けで説明すべきことではないと おもったのです。同様に,豊作さんが おっしゃっていたような動詞の内側から外側へと線的な序列も,日本語を日本語にしている構造として存在しているものだと わたしは おもうのです。ただ,その序列のなかで,テ形接続の補助動詞をみていくと,それぞれ,相互承接が できないほど はなれた位置にはないと おもうんですね。だから この件は「並び順」の議論に適さないと おもったのです。

 逆にいうと,わたしは,純粋に「並び順」を論じるためには,そのための問題の提示のしかたが あると思うんです。それは,ある文をつくるのに,その構成要素となる語の集合が あたえられているだけでなく,それらをくみあわせたときに表現されるべき内容が あらかじめ あたえられているか,あるいは,順番をかえても ひとつしか ありえないという条件です。そうした条件下で,はじめて純粋な意味での「並び順」が かたられる。逆にいうと,「並び順をかえれば意味もかわる」状況で議論される「並び順」というのは,構造的なものではなく意味的・認知的なものではないかと いいたいのです。つまり,それは「並び順」に関しては疑似問題になってしまうと おもうのです。

 たとえば「男女(だんじょ)」と いうか「女男(じょだん)」と いうか,というのは「並び順」の議論の対象になるでしょうけど,そのときの前提として どちらも「男と女」=「女と男」という単純な(要素の順序によって結果が かわらない)足し算の意味だと したときに どちらが つかわれるかを検討しているのだということが了解されていますよね。もし,「女男(じょだん)」という ことばが「女のような男」という意味で つかわれているという情報が はいってきたら,そこでの「並び順」の考察では そのサンプルを排除して おこなわれなければならなくなるはずです。
 また,「山のゴミ」と「ゴミの山」と,どちらが ただしい順番か,などということをまじめに論じようとする ひとは,たぶん,いないでしょう? おそらく,ほとんどの ひとが,直感的に,そういう議論は へんな議論だと わかると おもうんです。だって,それらは それぞれ ちがうものをさしているのだから。
 ならば,純粋な意味での「並び順」というのは,表現したい意味を固定したうえで論じなければいけないはずです。そうでない「並び順」の観察は,事実としての傾向をみいだしたとしても,その順番の背後にある共起可能性とか意味のちがいとか,認知されやすさの ちがい等々が 要因として まざりこんだ現象をみているということを自覚しないと いけないんじゃありませんか。

 いやいや,そういう自覚は はじめから全員に あって,きんちょだけが誤解して かみついているのだと おっしゃる かたも いるでしょう。でも,ここまで きても,なんだか しっくりと こないんです。たとえば,<考えておいている>と<考えていておく>の実例をさがして,もし,一方だけが みつかって,もう一方が みつからなかったと します。そうしたら前者が優勢な並び順ということに なるんでしょうか。「『事実として』優勢な並び順であると観察された」とは いえるかもしれないし,そういう観察に意味がないとは おもいませんが,それは ほんとうに「『並び順』として優勢」なんでしょうか。もし,両方の用例が それなりに みつかれば,むしろ,「それぞれ意味が ちがう」と分析される可能性が たかいと おもうんです。それなら,片方しか みつからなかったときも,「みつからない」ほうは「意味的・認知的動機付けが原因で ない」のかもしれません。純粋に「『並び順』として劣勢だから ない」と いえるのは,「ならびかたを逆にしても おなじ意味をあらわすはずだ」という前提が あるときにだけ いえることなのではないでしょうか。
ありがとうございます。

目からうろこでした。

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