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史跡コミュのシーボルト宅跡

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 長崎県長崎市鳴滝2丁目

 1922年10月12日指定。

 https://www.google.com/maps/place/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E5%AE%85%E8%B7%A1/@32.7553854,129.8902694,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x3515535339cfbc59:0xd89eabf793a5c8bf!8m2!3d32.7553854!4d129.8924581

 フィリップ=フランツ=バルタザール=フォン=シーボルト(1796〜1866)は、神聖ローマ帝国のヴュルツブルク司教領の医学部教授の息子として生まれ、ヴュルツブルク大学で医学や植物学を学びました。また、ヴュルツブルクが1815年のウィーン会議でバイエルン王国領となったため、バイエルン王国貴族に叙されています。
 東洋学に興味を持ったシーボルトはオランダ王国へ移り、1823年3月に軍医少佐としてオランダ領東インドのバタヴィアへ赴任、更に日本渡航を希望して認められ、文政6(1823)年8月にオランダ商館医として出島に入りました。
 ドイツ人であるシーボルトのオランダ語の発音は不自然だったため日本側通詞に怪しまれましたが、「自分は高地オランダ人であり、低地オランダとは異なった方言を話すのだ」とデタラメを言って素性を隠す事に成功しました。
 シーボルトの下には多くの蘭学者が教えを請いに訪れたため、翌年、長崎奉行は特例として出島の外に鳴滝塾を開設する事を認められ、高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介等がその下に集いました。文政10(1827)年には日本人女性楠本滝との間に娘イネが生まれています。紫陽花(アジサイ)を新種記載した際にHydrangea otaksa と命名したのは滝の名に由来しています。但し、後にシノニムと判明して有効な学名では無くなってしまいました。
 また、「日本にはオオカミとヤマイヌの二種のヴォルフがいる」との記述も残しています。
 文政11(1828)年に帰国する事になりますが、先発した船が難破して、幕府天文方高橋景保が国禁を犯して密かに提供していた日本地図を持ち帰ろうとしていた事が発覚、シーボルトは国外退去処分とされてしまいました。投獄された景保は翌年獄死しますが、後に改めて遺体が斬首されています。
 1830年、日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点をオランダへ持ち帰ったシーボルトはオランダ政府の後援で日本研究を纏め、集大成として全7巻の“Nippon 1832-1882”を刊行しましたが、同書の中で樺太と大陸の間の海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に定着させました。
 また日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草しています。
 1858年の日蘭修好通商条約締結の際にシーボルトに対する追放令も解除されたため、1859年にオランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問も務めています。
 1862年に帰国し、翌年、名誉陸軍少将に叙されています。
 1866年にバイエルン王国の首都ミュンヘンで「日本博物館」を開催しましたが、同地で風邪を拗らせて敗血症となり、10月18日に死去しました。享年70。墓は石造りの仏塔の形で、旧ミュンヘン南墓地に設けられました。
 鳴滝塾の建物は、明治7(1874)年に強風で大破し、明治27(1894)年に解体されました。
 平成元(1989)年、隣接地にシーボルト記念館が開設され、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料31点〔重要文化財〕等が展示されています。

コメント(5)

 シーボルト記念館前には若き日のシーボルト像があります。

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