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史跡コミュの大内氏遺跡 附 凌雲寺跡

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 山口県山口市大殿大路・上宇野令・中尾

 1959年11月27日指定

 大内氏が山口に居を構えたのは南北朝時代の弘世(1325〜80)の時とされ、東北西の三方に山を連ね、南に口を開く山口盆地は、その間を椹野(フシノ)川が南へ貫流し、中世豪族拠地の典型的な地形を示している。街区や往時を偲ばしめる遺構もあるが、指定の対象は館と城との跡である。
 館は、確証を欠く憾はあるが現竜福寺境内とされ、その南辺を東西に通る道路の大殿小路(大路)の名は、この名残とされている。竜福寺は、もと白石にあり、従二位兵部卿大内義隆(1507〜21;竜福寺殿)が庇護した寺であって、大内氏滅亡後に毛利隆元が館跡に移建したものと称されている。館跡は方形状を成し、周辺に土塁や堀等の遺構が残り、その旧態を偲ぶ事が出来る。
 館跡の北側の八坂神社境内には築山の跡がある。築山は教弘(1426〜65;築山殿)の営むところといわれ、当時の記録にも屡々その名が現われるが、別墅の如き館であったと思われる。神社境内北西隅に土塁が遺存するのは、居館の位置・規模を示す遺構として極めて貴重で、江戸時代の末まで苑池の跡が残っていたが、元治元(1864)年に長州藩主毛利敬親が八坂神社を竪小路から移転した際に破却されてしまったと推定されている。
 大内氏は、その盛時、他に見るが如き城郭は設けなかったとされるが、陶晴賢(スエハルカタ)に擁立された大内氏最後の当主義長は、弘治元(1555)年10月に晴賢が厳島合戦で敗死すると、翌年春、毛利元就の来襲に備えて、山口市街の西に聳える標高338mの鴻峯に高嶺城を築き、弘治3(1557)年3月の毛利軍来攻の際、これに拠ったが、未完だった城の守り難きを察して長門へ遁れた。
 高嶺城は、高峯、鴻峯とも書かれ、岳山城とも称された。鴻峯は急峻な崖を巡らした独立状の丘陵であって、その頂上部に、稜線上に階段状に郭を連ね配し、その最奥部、最高所に本丸を設けている。本丸は石垣を巡らせ、郭の所々にも石垣がある。眼下に山口とその周辺を収め、中世的山城として典型的なものである。
 大内氏滅亡後、毛利氏もこの城を使用して城番を置いたが、元和元(1615)年の一国一城令で廃された。大内氏は完成しないうちに放棄したといわれ、現存の遺構の全てを大内氏に帰する事は出来ないが、地形等より見て大内氏時代の遺構が大半だと推定されている。
 凌雲寺跡は、山口市街の北西、吉敷川上流の山間部にある。寺は従三位左京大夫大内義興(1477〜1529;凌雲寺殿)の開基で、開山は三庵桂悟である。舌状をなして南に延びる台地上に営まれた寺院で、注意すべきはその惣門跡と称せられ遺構である。地域の南端部において台地を東西に横切るその長い石垣は豪壮雄大であって、寺院としては異例に属する。寺の位置、地形等から見て、盖し有事に備えての一種の城塞をも兼ねたかと察せられ、大内氏時代の特異な遺構となっている。

◎城下町山口
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=194642&id=89434373

コメント(25)

 3月20日水曜日に訪れました。

 「築山館跡」エリアに建つ山口市菜香亭です。
 この建物は長州藩の膳部職(台所支配人)だった齊藤幸兵衛が、明治10(1877)年に、やや南方の八坂神社境内に開いた料亭「祇園菜香亭」でした。「菜香亭」の名前は、幸兵衛を贔屓(ヒイキ)にしていた前大蔵大蔵大輔井上馨が、齊藤幸兵衛の「齊」と「幸」から「齊幸亭」の読みを取り、これに当て字で「菜香亭」と命名しました。馨は明治10年当時はヨーロッパにいましたから、翌年の帰国後に命名したと思われます。
 長州藩の台所支配人が開いた料亭ということもあって、井上馨の他にも長州藩閥の面々や政府要人が頻繁に訪れ、昭和時代に至るまで山口県に於ける迎賓館や社交場の役割を果たしていました。しかし、五代目店主だった齋藤清子(1918〜2011)が高齢になり、後継者もいなかったため、平成8(1996)年に閉店、120年の暖簾(ノレン)を下ろしました。
 その後、建物の解体が取り沙汰されるようになりますが、近代日本史を伝える建物として保存活用を求める市民運動が起こって、平成12(2000)年には請願書が山口市に提出され、市議会で保存方針が採択されました。この結果、平成15(2003)年に齋藤清子から現金240000000円と建物・広間に飾られていた扁額・調度品類一式が市へ寄付され、これを受けて市営観光文化交流施設として活用される事となったのです。
 そこで、大内氏遺跡の「築山館跡」のエリアに当たる天花(テンゲ)地区へ移築され、菜香亭が最も華やかだった昭和11(1936)年当時の姿に復元、平成16年(2004)年に開館したのです。指定管理者制度が導入されており、建物の運営管理は保存活動を求めた市民グループが中心となって結成したNPO法人「歴史の町山口を甦らせる会」が行っています。
 山口市菜香亭です。

左;玄関
中;本館
右;南館
 山口市菜香亭です。

左;南館
中・右;本館大広間
 山口市菜香亭本館大広間の揮毫です。

左;参議木戸孝允
中;太政大臣三条実美公爵
右;内閣総理大臣伊藤博文公爵
 山口市菜香亭本館大広間の揮毫です。

左;内閣総理大臣山縣有朋公爵元帥
中;外務大臣井上馨侯爵
右;内閣総理大臣寺内正毅伯爵元帥
 山口市菜香亭本館大広間の揮毫です。

左;内閣総理大臣田中義一男爵陸軍大将
中;内閣総理大臣岸信介
右;内閣総理大臣佐藤栄作
左;山口市菜香亭本館大広間 内閣総理大臣安倍晋三揮毫
中;山口市菜香亭庭園
右;山口市菜香亭南館 農商務大臣後藤象二郎伯爵揮毫
  大内氏歴代当主は本館を住居として、築山館を迎賓館的な役割の場として使用していたようです。幅 5.4mの堀を巡らし、内側に大きな池を掘って、掘り上げた土で築山を造り林泉の美を誇ったとされています。築山(土塁)跡が現存します。
 築山下部には石積みが見られますが、右端のは後世の物っぽいですね。
 築山館跡には八坂神社〔県社〕が建ちます。祭神は素盞嗚尊・稻田姫命・手名槌命・足名槌命です。

左;一の鳥居
中;拝殿
右;本殿〔重要文化財〕
 築山館跡です。

左;八坂神社摂社築山神社 祭神;大内義隆・徳川家康
中;盃状穴が刻まれた巨岩
右;河村写真館〔山口県指定文化財〕
 大内館跡 復元西門・堀跡・土塁・石組溝です。
 大内館跡には曹洞宗瑞雲山龍福寺が建ちます。
 龍福寺です。

左;庫裏
中;鐘楼
右;資料館
 龍福寺です。

左;大内義興騎馬像
中・右;大内義隆主従供養塔
 龍福寺です。

左・中;大内義隆辞世
右;庭園
左・中;龍福寺庭園豊後岩
右;龍福寺庭園
左;龍福寺庭園
中;乙女椿
右;一の坂川

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