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史跡コミュの鹿児島紡績所技師館(異人館)

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 鹿児島市吉野町9685−15

 1959年02月25日、史跡・重要文化財に指定。

 霧島屋久国立公園内。
 薩摩藩12代藩主(島津家第29代当主)島津忠義は、先代斉彬が行なった近代工場群建造事業たる集成館事業を引き継ぎ、大規模な洋式紡績工場の建設を計画、慶応元(1865)年に薩摩藩の留学生と共に新納久修(ニイロヒサモト)・五代友厚を英国に派遣して紡績機械の買い入れと技師招聘交渉に当たらせた。
 新納と五代は、マンチェスターやバーミンガムの工場地帯を見て回った後、オールダムのプラット兄弟会社から梳綿機10台・精紡機6台等を買入れ、技師の派遣と工場設計も依頼した。
 この結果、慶応2(1866)年11月にイーホーム等3人の英国人技師が鹿児島に到着して工場建設に取り掛かり、慶応3(1867)年1月には工務長ジョン=テットロウ等の3人がプラット会社製の紡績機械と共に到着した。
同年5月、石造平屋建ての工場が完成し、精紡機・開綿機・打綿機・梳綿機等150台近くの機械が備え付けられると共に、動力用として蒸気機関も設置された。こうして、日本初の近代的紡績工場たる鹿児島紡績所が誕生し、生産を開始した。
 薩摩藩では松岡政人を総裁にして工場を経営させ、英国人技師達はイーホームを中心に、それぞれ仕事を分担して生産指導と監督に当たった。紡績所では約200人の職工が働き、1日10時間仕事労働で綿糸を約180kg紡ぎ、これで白木綿や縞類を織った。原料は日本で栽培された綿花で、白木綿は大坂に移出され、縞類は城下で売られた。
藩では英国人技師7名の宿舎として、工場の西外れに彼等の設計で白ペンキ塗りの木造西洋館を建築したが、技師達は激動の日本政治情勢に不安を感じて7人共1年で英国へ帰国してしまった。
その後、異人館の別称で呼ばれる事となったこの技師館は大砲製造支配所として使用され、明治4(1871)年の廃藩置県で官有化、明治10(1877)年の西南戦争では西郷軍負傷兵の仮病院として利用された。
 技師館は明治15(1882)年、鶴丸城本丸跡に移築され、鹿児島学校、さらに中学造士館(七高造士館)の教官室として利用された。
 明治22(1889)年、鹿児島紡績所は再び島津忠義公爵の所有となったが、大阪産の安い製品が流通し始めた事によって業績は悪化し、明治30(1897)年の忠義の死と共に閉鎖、建物も解体されてしまった。
 異人館の方は昭和11(1936)に再び現在地に戻され、大東亜戦争後は進駐軍宿舎として利用されたが、昭和26(1951)年に鹿児島市に返還された。

◆城下町鹿児島
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=12504694&comm_id=194642
*旧集成館
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=67865871&comm_id=398257

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