ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

史跡コミュの府内城跡

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 大分県大分市大手町

 1963年02月15日、大分県が石垣・土塀・堀・櫓2・櫓跡1を史跡に指定。
 1995年02月17日、大分市が県指定地以外のエリアを史跡に指定。

 豊後府内は守護大友氏の城下町として知られたが、大友氏は本格的な城郭を築かず、上野台地北麓の御所風の館で統治を行い、大友義統改易後に入府した早川長敏も大友館に入った。
 だが、慶長2(1597)年に石田三成の妹婿の福原直高が120000石が入府すると、別府湾に注ぐ大分河口に平城の府内城の建設を開始した。直高は城の完成直後の慶長4(1599)年に大老徳川家康によって臼杵60000石に転封されてしまい、再度早川長敏が20000石で入府する事となった。
 早川長敏は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦で西軍に組したため改易され、翌年、外様の竹中重利が20000石で入府、熊本藩主加藤清正の援助を受けて城の大改築を行い、四層の天守閣と三重の堀を備えた城郭を完成させた。内堀で囲まれたエリアに本丸・西の丸・東の丸があり、本丸と西の丸・東の丸の間にも堀が設けられた。本丸北方には山里丸と北の丸があり、その北は海岸であったため、水城に近い構造の城郭であった。中堀の内側に武家屋敷が並び、町屋は外堀と中堀の間に整然とした町割で設けられた。
 竹中重利の子重義は長崎奉行を務めたが、寛永11(1634)年に汚職で改易され、外様の日根野吉明(ヒネノヨシアキラ)が20000石で入府、産業振興に尽力したが、明暦2(1556)年に無嗣断絶し、万治元(1658)年、大給(オギュウ)松平忠昭が22200石で入府、以後、幕末まで同家の統治が続いた。延宝4(1676)年には2代近陳(チカノブ)が一族二人に一部の所領を分与したため21200石となった。
 その後、寛保13(1743)年、4代近貞の時に火災で城の大半が消失し、以後天守閣は再建されなかった。
 明治4(1871)年7月の廃藩置県によって大分県が設けられると、県庁は府内城に置かれ、明治10(1577)年の西南戦争の際には、西郷軍に呼応した旧中津藩士の攻撃を受けたが撃退に成功し、城の防御機能の強さが証明された。
 本丸・西の丸・東の丸櫓はその後も維持されていたが、昭和20(1945)年7月の米軍の空襲で五つの櫓が焼失してしまった。現在は焼失した五櫓も再建され、城址公園として整備されているが、中心には大分文化会館がある。旧三の丸には大分県庁や市役所が建つ。
 空襲の際に焼け残った櫓は人質櫓と宗門櫓である。城から南方に伸びる遊歩公園には伊東マンショ・Luis de Almeida・滝廉太郎等の大分ゆかりの人物の銅像が建つ。

*城下町豊後府内
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39530020&comm_id=194642

コメント(5)

2月8日に行って来ました。

左;復元多聞櫓門
中;復元着到櫓
右;内堀
左;復元巽櫓
中;東の丸三重櫓跡
右;復元艮(ウシトラ)櫓
左;人質櫓〔大分県指定文化財〕
中;内堀復元廊下橋
右;本丸北二重櫓跡
左;宗門櫓〔大分県指定文化財〕
中;天守台
右;復元坤(ヒツジサル)櫓

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

史跡 更新情報

史跡のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング