ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

史跡コミュの貞元親王墓

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 千葉県君津市貞元375
https://www.google.com/maps/place/%E8%B2%9E%E5%85%83%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%A2%93/@35.3175454,139.9031999,17z/data=!3m1!4b1!4m6!3m5!1s0x60180d571f92086d:0x9e2e08a66cae12ec!8m2!3d35.317541!4d139.9053886!16s%2Fg%2F11f6g1hmrd
 1970年09月21日、君津市が史跡に指定。

 貞元親王(869?〜910)は人皇第56代清和天皇第三皇子で、母は参議藤原仲統(フジワラノナカムネ;818〜875)の娘です。四品上野太守を務めた人物で、上総国とは特に縁が無かったにも拘わらず、当地には貞元親王が上総へ下向して当地で没したとの伝承があり、少なくとも江戸時代には貞元(サダモト)村が存在していました。
 伝説によると、親王は当地出身で。かつて宮仕えをしていた「お万」という女性を追ってやって来たのだとされ、近江から持参した蓮華草の種を肥料として米を作る技術指導を行ったとされています。このため、当地ではレンゲ草の事を「親王草」「貞元草」等と呼ぶのだそうです。
 現在の墓碑は延宝6(1678)年に、親王とお万の子孫と称する地元の富農平野権左衛門が建てた物で、その碑文に権左衛門は「清和天皇第三皇子貞元親王墓施主平野権左衛門」と記したのですが、地元領主の旗本梶川三之丞に仕える関戸源三衛門がこれを見て「この平野氏は貞元親王に由緒があるか」と問い、土地の者は系図僭称を追及される事を恐れて「そうではない」と答えたとされます。そのため、源三衛門は「子孫でも無い者が皇族墓の施主となるのは不敬であり、平野氏は将来没落するだろう」と述べ、村人がそれを権左衛門に伝えたところ、権左衛門はいたく気にして「施主」以下の文字を削りましたが、その後平野家は本当に衰退してしまったそうです。
 現在でも当地の地名は「貞元」であり、貞元出身の歌人平野峯郎(1912〜2002)が昭和38(1963)年に作詞した君津市立貞元小学校校歌は「清和の昔 貞元の みこがおわせし この郷に」から始まる歌詞となっています。峯郎が権左衛門の子孫なのかどうかは不明です。

コメント(1)

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

史跡 更新情報

史跡のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング