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史跡コミュの近江屋甚兵衛墓

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 千葉県君津市人見1丁目11ー17
https://www.google.com/maps/place/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%B1%8B%E7%94%9A%E5%85%B5%E8%A1%9B%E5%A2%93/@35.3357846,139.8665386,19z/data=!4m6!3m5!1s0x60180dbf6b37ea6d:0x548f3247f888b7c1!8m2!3d35.3361582!4d139.8675322!16s%2Fg%2F11h07yfb85
 1954年12月21日、千葉県が史跡に指定。

 近江屋甚兵衛(1766〜1844)は江戸四谷に生まれ、浅草海苔を売る一方、海苔の養殖と製造法を研究し、河川の流入する遠浅の海に「ひび木」を立て込めば必ず成功するとの信念を持つに至りました。当時、江戸湾の海苔は品川と大森にしか出来ないとされていましたが、甚兵衛は55歳の時、新しい土地での海苔作りを思い立ち、海苔作りの勧誘・指導の旅に出ます。先ずは江戸川河口の下総国浦安へ赴きましたが、「ひび木」なんか立てると貝を取りにくくなると猛反発され、止む無く養老川や小櫃川の河口でも交渉をしますが、浦安の連中が「海苔養殖に協力なんかしたら一切の取引を停止する」と内房一帯に伝達していたため、交渉は悉く失敗してしまいます。そして、文政5(1822)年秋に最後の望みをかけた小糸川河口の人見村で、名主が反対意見を抑えて甚兵衛の海苔養殖の提案を受け入れてくれたため、苦労の末、海苔養殖が成功したのです。
 その後、甚兵衛の指導によって近在の村々に海苔養殖が普及し、「上総海苔」として全国にその名を博する事になります。また、海苔養殖の成功により、それまで零細な沿岸漁業で食い繋いでいた貧しい人見村が豊かな収入を持つ地へと変貌したのでした。
 ただ、晩年の甚兵衛は、商取引上のトラブルから海苔販売から撤退を余儀なくされ、失意のうちに弘化元(1844)年9月12日に亡くなりました。享年79。村人達は甚兵衛の死を悼み、前畑(現;君津市人見3丁目)の薬師堂墓地に手厚く葬りましたが、明治44(1911)年3月に至って、漁業組合の世話人により真言宗豊山(ブザン)派人見山青蓮寺境内に墓が移されたのです。

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