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史跡コミュの樺崎寺跡

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 栃木県足利市樺崎町1723
https://www.google.com/maps/place/%E6%A8%BA%E5%B4%8E%E5%AF%BA%E8%B7%A1/@36.361873,139.4925784,17z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0xd1d351d81786848f!8m2!3d36.361385!4d139.495616
 2001年01月29日指定。

 室町時代に成立して鑁阿寺(バンナジ)に伝わる『鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第』によると、樺崎寺は足利荘初代地頭の足利義兼が文治5(1189)年に奥州の藤原泰衡(フジワラノヤスヒラ)討伐の戦勝を祈願して土地を寄進し、伊豆走湯(ハシリユ)山の理真朗安(マイシンロウアン)を開山として創建したとされます。義兼は建久6(1195)年に出家し、最晩年は樺崎寺で隠棲した後、正治元(1199)年に即身成仏したとされ、息子の足利義氏は義兼入定(ニュウヂョウ)地に義兼の廟所を作って赤御堂(アカミドウ)と称し、八幡大菩薩、即ち誉田別命を主祭神としました。以後、樺崎寺は足利氏の菩提寺となって信仰を集める事となります。
 戦国時代になって足利氏が力を失うと樺崎寺も衰微しましたが、天和年間(1681〜1683)に鎌倉公方の末裔である下野国喜連川(キツレガワ)藩主喜連川昭氏によって樺崎寺は再興され、その際に樺崎八幡宮も再建されました。しかし、明治元(1868)年の神仏分離令によって樺崎寺は廃され、樺崎八幡宮〔郷社〕のみが残る事となったのです。
 昭和59(1984)年からの発掘調査によって、旧境内は西側の八幡山を背にし、東を正面として伽藍が営まれていた事が判明しました。山麓には赤御堂の外、多宝塔等の伽藍もがあり、これらの東側には大日如来を安置する下御堂または法界寺と号する堂宇があって、浄土式庭園が築かれていました。
 樺崎八幡宮本殿〔足利市指定文化財〕は、天和年間(1681〜1683)の再建で、土台を廻らした上に柱が立つ約160cmの高床式建築で、屋根は元来棧瓦葺(サンガワラブキ)でしたが、現在は銅板葺になっています。軒裏は二重繁垂木(ハンダルキ)、天井は化粧屋根裏や竿縁天井(サオブチテンジョウ)で構成されています。斗栱(トキョウ)・蛇腹支輪・蟇股(カエルマタ)等の技巧が優れており、扉の孔雀や鳳凰、内壁の虎や獅子の絵、横架材上の亀甲型の紋様等は精巧で豪華です。現在の本殿は東面していますが、鎌倉時代に創建された赤御堂は北面していた事が、階段跡から判ります。本殿が高床式になっているのは、本殿下が足利義兼入定地だからです。義兼はここに穴を掘って籠り、読経しながら死ぬ即身成仏を遂げたので、遺体はそのまま埋葬された状態となったのです。
 樺崎八幡宮太々神楽(ダイダイカグラ)〔足利市指定無形民俗文化財〕は 明治時代初期に宮司の長裕多(チョウユウタ)によって伊勢から大和流太々神楽が伝えられたとされていますが、古絵図や、胴が長いタイプの締太鼓である大拍子(ダイビョウシ)に書かれた文字からは、江戸時代中頃にはこの地域で神楽が舞われていた事が明らかになっています。
 本殿の南方に多宝塔跡があります。嘉禄2(1226)年に建立(コンリュウ)され、14世紀に瓦葺に改築された事が判明しています。
 多宝塔跡の南側には、足利義氏供養塔〔足利市指定文化財〕があったんですが、現在は撤去されて足利市教育委員会が保護管理しています。
 足利義氏供養塔跡の南側には足利氏御廟跡があり、かつて足利氏歴代10基の供養塔がならんでいましたが、樺崎寺が廃絶した後、臨済宗菅田(スゲタ)山光得寺へ移されました。
 現在、浄土庭園が復元されています。

・樺崎八幡宮のスギ
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=320240&id=99800910

コメント(10)

左;樺崎八幡宮拝殿
中;樺崎八幡宮太々神楽〔足利市指定無形民俗指定文化財〕
右;足利義兼御廟
左;足利義兼御廟
中・右;赤御堂跡の石段
 樺崎八幡宮本殿〔足利市指定文化財〕です。
 樺崎八幡宮の杉〔足利市指定天然記念物〕です。
左・中;多宝塔跡
右;供養塔覆屋跡
左;供養塔覆屋跡
中・右;足利氏御廟跡

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