ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

史跡コミュの法界寺境内

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 京都府京都市伏見区日野西大道町19
https://www.google.com/maps/place/%E6%B3%95%E7%95%8C%E5%AF%BA/@34.9339769,135.812662,17z/data=!3m2!4b1!5s0x600111e26d298adb:0x256b1f8f96585679!4m5!3m4!1s0x600111e2690f2d39:0x794e836050604042!8m2!3d34.9339725!4d135.8148507
 1999年04月01日、京都市が史跡に指定。

 真言宗醍醐派別格本山東光山法界寺は、藤原氏北家の右大臣藤原内麿(756〜812)の子孫である日野家の氏寺です。寺伝によると、内麿の曽孫に当たる参議藤原家宗(817〜877)が、弘仁12(822)年に比叡山延暦寺に戒壇を設ける事を許した人皇第52代嵯峨天皇の勅許状を伝教大師最澄へ届けた際、感謝した最澄は、唐より持ち帰った薬師如来立像(ヤクシニョライリュウゾウ)と自作の三寸の薬師如来像を家宗に進呈しました。そこで、家宗は自領の山城国宇治郡日野に法界寺を建立(コンリュウ)し、この薬師如来像を安置したため、当寺の開山は最澄だとされています。
 家宗から5世後の子孫で文章博士(モンジョウハカセ)や式部大輔(シキブタユウ)を歴任した従三位(ジュサンミ)藤原資業(フジワラノスケナリ;988〜1070)が11世紀中葉に法界寺へ薬師堂を建立し、唐伝来の薬師如来像をここに移しましたが、その際、薬師如来像の胎内に最澄自作の三寸の薬師如来像を納入しました。また、阿弥陀如来信仰の広がりに伴って阿弥陀堂も建立されています。これを機に資業は「日野三位」を名乗るようになり、これ以降日野が家名となったのです。日野家は儒学と文章を家業とする家門として、鎌倉時代には大納言を極官とする名家(メイカ)に列しました。
 なお、日野の地は『方丈記』の著者である鴨長明(カモノチョウメイ;1155〜1216)が閑居した場所としても知られています。長明は法界寺東方の日野山に方丈庵を設けており、日野家と交流していました。
 また、浄土真宗の開祖である親鸞(1173〜1263)は日野家の出身で、当地で生まれています。
 法界寺は承久3(1221)年の承久の乱の兵火で焼失してしまいましたが、すぐに再建されています。
 鎌倉末期、従三位権中納言日野資朝(スケトモ;1290〜1332)や従四位下右中弁日野俊基(?〜1332)は大覚寺統の後醍醐天皇の側近として活躍し、鎌倉幕府によって処刑されましたが、資朝の弟の醍醐寺大僧正賢俊(ケンシュン;1299〜1357)は持明院統の光厳上皇に接近、足利尊氏に院宣を伝える役割を果たしたため、日野家は足利将軍家の正室を出す家となり、8代将軍義政の妻日野富子の兄である勝光(1429〜76)は家柄からすると破格の左大臣にまで登っています。
 戦国時代に入って足利将軍家が衰微すると日野家も零落しますが、江戸時代に入ると権大納言日野輝資(1555〜1623)が出家後、大御所徳川家康に取り入る事に成功したため、名家としては破格の1034石の知行を与えられました。
 江戸後期の日野資愛(1780〜1846)は従一位准大臣となっています。明治時代には日野家は伯爵に叙されました。
 さて、江戸時代の法界寺は小規模な寺院となっていましたが、日野薬師と呼ばれて庶民の信仰を集め、本尊薬師如来立像は胎内に小像を納めている事から、胎児を宿す婦人を髣髴(ホウフツ)させるとして安産や授乳の御利益を持つ「乳薬師」と呼ばれる様になりました。
 法界寺の東北には境外墓地として日野家歴代墓地の日野御廟所(ヒノゴビョウショ)があります。
https://www.google.com/maps/place/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%BE%A1%E5%BB%9F/@34.9339769,135.812662,17z/data=!3m1!5s0x600111e26d298adb:0x256b1f8f96585679!4m12!1m6!3m5!1s0x600111e2690f2d39:0x794e836050604042!2z5rOV55WM5a-6!8m2!3d34.9339725!4d135.8148507!3m4!1s0x0:0x1a562b8c4f649bdf!8m2!3d34.9340799!4d135.8162542

コメント(7)

 日野御廟です。

左;左・左大臣日野勝光顕彰碑 右・日野資巴・日野資始墓
中;皇太后宮大進日野有範(1302〜63;親鸞の父)墓
右;右端が吉光女(親鸞の母)墓

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

史跡 更新情報

史跡のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング