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史跡コミュの臼井城跡

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 千葉県佐倉市臼井田900

 1994年02月16日、佐倉市が史跡に指定。

https://www.google.com/maps/place/%E8%87%BC%E4%BA%95%E5%9F%8E%E8%B7%A1/@35.7385293,140.1776247,18z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x6022862b7054a23d:0x8a13d3a5f3c631c9!2z6Ie85LqV5Z-O5Z2A5YWs5ZyS!8m2!3d35.7381048!4d140.1789041!3m4!1s0x0:0xe6e3ab778e5da158!8m2!3d35.7385732!4d140.1786345

 臼井城の原型は、下総権介千葉常重の弟で臼井荘の荘官を務めた臼井常康の居館だったと考えられています。常康は甥の下総権介千葉常胤を援けて治承4(1180)年の源頼朝の挙兵に参加し、御家人の地位を獲得、臼井荘地頭となりました。
 ところが、宝治元(1247)年に宝治合戦が勃発すると、臼井氏は三浦泰村に加担する者と北条方に与する者に分裂して衰退、臼井荘の西方は千葉一族の武石氏や千田氏の所領となってしまいますが、臼井氏も臼井荘東半は確保し、建武政権期にも臼井城を本拠とする臼井祐胤が所領維持に成功しています。暦応元(1338)年には祐胤の嫡男興胤が足利尊氏の下へ参じて本領を安堵されました。この時期に臼井城は連郭式平山城として整備されたと考えられます。
 臼井城は本丸・二の丸・三の丸の間に空堀が設けられ、本丸の東方眼下には香取海(カトリノウミ)の一角を成す印旛沼が迫る要害の地でした。また、周辺には多くの出城が設けられ、印旛沼対岸の師戸(モロト)城とも連携可能でした。
 臼井氏は本家である下総守護千葉氏の家臣として臼井城に拠っていましたが、康正元(1455)年に千葉氏の内紛が起きると、古河公方(コガクボウ)足利成氏(アシカガシゲウジ)の支持を受けた千葉孝胤(タカタネ)支持の立場を取り、幕府や関東管領上杉氏が支持する千葉自胤(ヨリタネ)に対抗する事となりました。
 やがて幕府と上杉氏は太田道灌(オオタドウカン)を千葉自胤支援のために派遣して孝胤追討戦を開始します。文明10(1478)年12月の境根原合戦で大敗した孝胤は、本拠地の長崎城も維持出来なくなって、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤の拠る臼井城に籠城、道灌の弟である太田図書資忠(オオタズショスケタダ)を討ち取る奮戦をしましたが、文明11(1479)年7月15日に臼井城は落城、下総・上総の大半は自胤に制圧される事となりました。
 ところが、臼井城を脱出した孝胤は印東庄の篠塚城へ逃れて徹底抗戦を継続、文明16(1484)年頃には新たな拠点として篠塚城東北に本佐倉(モトサクラ)城を築いています。下総・上総の将士には孝胤を支持する動きが根強かったため、武蔵国を本拠としていた千葉自胤は上総・下総に代官を置いたのみで長期的支配を確立する事が出来ず、文明18(1486)年に太田道灌が暗殺されると、後ろ盾を失った自胤は上総・下総から撤退を余儀無くされて孝胤の下総千葉領支配が確立しました。臼井城も孝胤配下の臼井氏が奪回する事になりました。
 その後、古河公方政氏の次男足利義明が小弓(オユミ)公方を自称して、兄の古河公方足利高基に対抗した際には、千葉勝胤は古河公方を支持しますが、臼井城主の臼井景胤は小弓公方を支持して主家に楯突きます。しかし、天文7(1538)年の第一次国府台(コウノダイ)合戦で足利義明が小田原の北条氏綱に敗れて戦死したため、臼井氏は千葉氏の下に帰参しました。
 臼井景胤は生実(オユミ)城主原胤貞の娘を妻として嫡男久胤を得ますが、弘治3(1557)年の景胤の死によって家督を継いだ14歳の久胤は外祖父原胤貞によって幽閉され、臼井城は事実上胤貞によって支配される事となりました。
 その様な状況下の永禄4(1561)年、上杉謙信の小田原攻めに呼応した安房の里見義堯(サトミヨシタカ)麾下の上総国大多喜(オオタキ)城主正木信茂が臼井城を攻めると、混乱に乗じた臼井久胤は母と共に結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井城は落城します。しかし、原胤貞がすぐに城を奪回して支配下に置き、臼井氏の支配は終焉しました。原胤貞は小田原の北条氏康と結んで勢力を強めます。
 永禄9(1566)年には上杉謙信と里見義弘が臼井城に猛攻を加えますが、原胤貞は自ら臼井城に入って徹底抗戦を貫き、城を死守しています。
 天正2(1574)年に胤貞の子原胤栄(ハラタネヒデ)は里見義弘に本拠地生実城を奪われたため、臼井城に本拠を移しました。
 天正18(1590)年3月、関白太政大臣豊臣秀吉が小田原征伐を開始しますが、臼井城主原胤栄は関白軍来襲直前に病死、胤栄嫡男の原胤義は人質として小田原城にいたため、一族の原邦房が臼井城の城代となりました。
 しかし、関白軍の一翼を担った浅野長政が下総国へ侵攻して5月10日に臼井城は陥落、7月5日には小田原城も落城したのでした。
 そして、武蔵国江戸へ入府した権大納言徳川家康は、徳川四天王の一人酒井忠次の嫡男家次を30000石で臼井城主としましたが、文禄2(1593)年に臼井城は城内からの出火で灰燼に帰してしまったため、酒井家次は仮陣屋を設けました。
 慶長9(1604)年に臼井藩主酒井家次は上野国高崎藩に加増移封されて臼井城は廃城となり、臼井藩領は天領化、後に老中土井利勝が藩主を務める佐倉藩領に組み込まれ、旧臼井城下町は成田街道の宿場町として栄える事となったのです。

コメント(9)

左;二の丸虎口
中;二の丸土塁
右;二の丸
左・中;本丸・二の丸間の土橋
右;本丸
左;本丸土塁
中;本丸より印旛沼を望む
右;臼井八景「城嶺夕照」

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