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史跡コミュの青菅の大塚・小塚

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 千葉県佐倉市宮ノ台1丁目17−1

 2010年10月01日、佐倉市が史跡に指定。

https://www.google.com/maps/place/%E4%BD%90%E5%80%89%E5%B8%82%E7%AB%8B%E9%9D%92%E8%8F%85%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1/@35.7456878,140.1463384,16z/data=!4m5!3m4!1s0x602287a28ce69afb:0x5c0f5e85300dab7e!8m2!3d35.7462414!4d140.1501159

 佐倉市立青菅(アオスゲ)小学校敷地内にありますが、見学可能です。
 大塚は一辺約30mの方形をした古墳の様に見えますが、江戸時代に青菅村等を領有し、青菅陣屋を設けていた旗本川口家四代の墓です。
 初代川口宗勝の祖父川口盛祐は一族の川口宗持の養子となり、大河内元綱の養女於富(オトミ)の方(華陽院)を娶り宗吉を儲けました。於富の方は数奇な生涯を送った女性で、最初、水野忠政に嫁いで於大(オダイ)の方(徳川家康の生母)を産みますが、松平清康(家康の祖父)に奪われます。清康の暗殺後、星野秋国に嫁ぎますが死別、次に菅沼定望に嫁ぎますが又もや死別、最後に川口盛祐の妻となった女性です。盛祐の死後は出家して、今川義元治下の駿府に赴き、孫の竹千代(家康)の養育に携わりました。
 川口宗勝は天文17(1548)年に宗吉の子として生まれますが、母は織田信長の叔母だとも云われています。当初は水野信元(忠政の子)に仕えますが、永禄6(1563)年に柴田勝家の家臣となり、翌永禄7(1564)年には織田信長の直臣となって弓大将に取り立てられました。永禄9(1566)年に木下藤吉郎が墨俣一夜城を築いた時に与力した人物でもあります。本能寺の変後は織田信雄、次いで豊臣秀吉に仕えて伊勢・尾張両国内で18000石を領しました。
 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦前夜、宗勝は大坂城におり、東軍に味方するつもりで中江直澄と共に出立しましたが、増田長盛(マシタナガモリ)・長束正家(ナツカマサイエ)に留められたため心ならずも西軍に属さざるを得なくなりました。伊勢安濃津城攻め等に参加しますが、西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領を没収されて身柄を伊達政宗に預けられました。慶長11(1606)年に至って2代将軍秀忠に許されて下総国青菅2500石を賜り、旗本に列しました。
 慶長17(1612)年、宗勝の死によって跡を襲った2代目宗信は2000石に減封され、3代目宗次(?〜1652)も2000石でしたが、4代宗恒(ムネツネ;1630〜1704)は目付・長崎奉行・江戸北町奉行等を歴任しました。特に長崎奉行として貞享2(1685)年に清・オランダとの年間貿易額を制限する御定高制度(オサダメダカセイド)を制定し、金銀銅の海外流出阻止に成功した功績が評価されて、下総国香取郡阿玉台村・須賀山村、印旛郡吉田村・松虫村・吉高村・青菅村の計2700石に加増されました。さらに、通常は3000石以上の旗本が対象の旗本寄合席にも列しています。
 宗恒の隠居後、5代目となった宗直は元禄14(1701)年に印旛郡内の領地を安房国内に移され、安房郡真倉村藤井陣屋へ本拠を移しています。
 さて、大塚は川口宗勝・宗信・宗次・宗恒の墓所で、小塚は夫人の墓所と伝えられているため、大塚を男塚、小塚を女塚と呼ぶ事もあります。伝承では大塚・小塚ともに初代宗勝の時に築造され、大塚には四代全ての髻(モトドリ)が埋葬されているとされるため、別名「もとどり塚」とも呼ばれています。
 青菅の大塚・小塚周辺では、地域住民により「ミチカリ」がおこなわれており、かつての「ミチカリ」は、塚周辺の清掃および、道に繁る枝を刈り、道を掃いたりする青菅地区の年中行事でした。現在でも当時とは若干姿を変えていますが、毎年行われています。

コメント(1)

 1月3日月曜日に訪れました。

左;大塚
中;青菅小学校正門
右;小塚

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