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史跡コミュの堀内氏屋敷跡

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 和歌山県新宮市千穂1丁目9-29

 19640608日、新宮市が史跡に指定。

 https://www.google.com/maps/@33.7266122,135.984848,19z
 現在は曹洞宗全龍寺になっています。
 堀内氏は新宮氏の一族だとも、田辺別当家の後裔だとも言われ、新宮南方の佐野から新宮に進出して拠点とし、熊野三山の統治権を獲得して、大和国南部を含む熊野地方一帯を支配する戦国大名に成長する事となります。堀内氏善(1549〜1615)は永禄年間(1558〜70)に一旦、伊勢国の北畠氏に敗れてその傘下に入りますが、北畠氏が織田信長に屈服すると独立を回復し、天正13(1585)年の内大臣羽柴秀吉による紀州攻めの際には真っ先に降伏して本領27000石を安堵されています。なお、氏善は独断で志摩国英虞(アゴ)郡の荷坂(ニサカ)峠以南を紀伊国牟婁郡に編入していましたが、秀吉もこの措置を追認しています。
 氏善は、秀吉の四国攻め・小田原攻め・朝鮮出兵に熊野水軍を率いて出陣しますが、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で西軍に与したため、新宮の居館は東軍方の和歌山城主桑山一晴に攻略されてしまいました。改易された堀内氏善は、後に肥後国熊本藩主加藤清正に仕えて2000石を知行、宇土城の城代も務めました。
 堀内氏屋敷跡の発掘調査は行われていないため、遺構等は明らかになっていませんが、寺の西側に流れる小川が、かつて存在した堀の一部だとされています。
 全龍寺は、初代紀州藩新宮城主水野重仲(1570〜1621)の菩提寺として堀内氏屋敷跡に建立され、本尊は釈迦如来です。寺号は重仲の戒名である全龍院殿日山常春大居士に由来しますが、重仲は和歌山城下で死去したため墓は和歌山市内に設けられており、当寺には位牌のみがあります。
 全龍寺は尾崎真龍(オザキシンリュウ;1820〜88)の菩提寺であり、境内に顕彰碑があります。真龍は、新宮城主水野家家臣尾崎宗助の六男で、本名は宇右衛門です。京都に出て明暗寺役僧となり、渡辺鶴山に師事して尺八の名手として知られる事になります。彼の流派は明暗真法(ミョウアンジンポウ)流と呼ばれます。一方、幕末動乱期には尊皇討幕を唱えて密使となって活躍したため、安政の大獄の際に幕府によって捕えられ、故郷の新宮に幽閉されています。維新後も新宮の奥山に隠棲した師鶴山の下で暮らし、表舞台に復帰する事はありませんでした。現在でも、尺八奏者が頻繁に全龍寺へ参詣に来るそうです。

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