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史跡コミュの書写妙法蓮華経印塔 / 新宮周防守屋敷跡

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 和歌山県新宮市新宮656

 1964年06月08日、新宮市が新宮周防守屋敷跡を史跡に指定。
 1969年04月23日、和歌山県が書写妙法蓮華経印塔を史跡に指定。

 https://www.google.com/maps/@33.7278681,135.9839817,19z
 現在は日蓮宗恵雲山本廣寺(エウンザンホンコウジ)になっています。
 新宮周防守行栄(シングウスオウノカミユキヒデ)は、南北朝時代から熊野別当に代わって勢力を持った熊野七上鋼(クマノシチジョウコウ)と呼ばれた土豪の一人で、七上鋼最大の有力者でしたが、天正19(1591)年に堀内氏善(ホリウチウジヨシ)に逆らって滅ぼされました。新宮氏の名跡は氏善の六男である行朝が継承しています。そして、館跡には慶長元(1596)年に日等上人開山の日蓮宗妙覚寺派法輪山法華寺が創建されました。
 屋敷跡は発掘調査が行われていないため、詳細は不明ですが、江戸時代前期制作の「新宮古図」に法華寺が四周に水を引いた堀を備えた姿で描かれており、典型的な中世城館であった事が判ります。その堀は、現在でも道路の下に石積が残り、水路として利用されています。
 延宝6(1678)年、第3代新宮城主水野重上(ミズノシゲタカ)が法華寺を両親の菩提寺と定め惠雲山本廣寺と改めました。父の第2代城主水野重良(シゲヨシ)の法号本廣院を寺号に、母の法号惠雲院を山号とした訳です。また、所属本山も京都妙覚寺から身延山久遠寺(ミノブサンクオンジ)へ変更されました。
 書写妙法蓮華経印塔(ショシャミョウホウレンゲキョウイントウ)は、新宮城主水野家家臣川上六太夫の次男で、江戸千家の流祖である川上不白(カワカミフハク;1719〜1807)が一石に付き一文字法華経を写経して納めた物です。不白は老中田沼意次(タヌマオキツグ)・薩摩藩主島津重豪(シマヅシゲヒデ)・長州藩主毛利重就(モウリシゲタカ)等を弟子として一世を風靡した茶人でしたが、生家が本廣寺を菩提寺としていたため、晩年帰郷した際に主君水野忠昭・師千宗左(センノソウサ)・親を偲んで供養塔を設けたのです。

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