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史跡コミュの明教院釈僧鎔慶叟の碑

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 富山県黒部市宇奈月町浦山497

 1961年12月26日、黒部市が史跡に指定。

 https://www.google.com/maps/@36.8643346,137.5223732,17z
 浄土真宗本願寺派白雪山(ハクセツザン)善巧寺(ゼンギョウジ)境内にあります。
 善巧寺は文明3(1470)年、禅宗から一向宗に転向した慶祐(ケイユウ;?〜1489)によって開山され、第11代住持僧鎔慶叟(ソウヨウケイソウ;1723〜83)の時に大いに名を挙げます。
 僧鎔は新川(ニイカワ)郡市江村(現;富山市水橋)の旧家の渡辺彦左衛門の三男として生まれ、11歳で上市町の明光寺の学僧霊潭(1689〜1769)に見出されて養子となり、霊観と名乗りました。
 21歳の時、善巧寺住持となりますが、勉学の思いを断つ事が出来ずに上洛、同郷の先輩僧樸の門に入り、僧鎔と改名しました。西本願寺の研究・教育機関であった学林(龍谷大学の前身)で行った四度の講義を通して評判が一段と高まり、京都仏教界に大きな影響を与えました。宝暦8(1758)年頃、自坊に空華廬(クウカロ)と称する学塾を創設し、多くの優れた人材を育てました。
 『新川郡学者略伝』には「今、世にある諸国の末弟およそ三千人」とあり、安永3(1774)年には飛弾国古川で起こった教学上の争いを解決、『本典一滞録』21巻以下百余部の書物も著しています。
 天明3(1783)年に亡くなって、善巧寺に葬られ、明教院の諡(オクリナ)を与えられました。
 天保12(1841)年に門人行忠が願主となって、明教院釈僧鎔慶叟の碑と呼ばれる一丈八尺余りの石碑が建てられ、あわせて百回忌予修法要が空華一門によって挙行されました。
 その後、17代順圓(ジュンエン;〜1895)が明治14(1881)年に本堂を新築し、翌年僧鎔百回忌法要を行いました。
 19代住持雪山俊夫(1880〜1946)は京都大学独文科教授となって日本ゲーテ協会を創立、著書「ニーベルンゲンの歌基礎の研究」などで昭和10(1935)年に日本人として初めてドイツ第三帝國政府からフンボルト賞を授与されました。
 第20代住持雪山俊之(ユキヤマトシユキ;1911〜96)は立命館大学哲学科教授や富山県教育委員長を歴任しています。やはり学者の家系なんですね。

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