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史跡コミュの三重津海軍所跡

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 佐賀県佐賀市川副町大字早津江字元海軍所

 2013年03月27日、文化庁が史跡に指定。
 2015年07月05日、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一角としてUNESCO世界文化遺産に登録。

 https://www.google.co.jp/maps/@33.2077325,130.3379269,17z?hl=ja
 嘉永7(1854)年に佐賀藩主鍋島直正は蒸気船の国産を目指す方針を決定し、武雄21600石領主の鍋島茂義(ナベシマシゲヨシ)を精煉方に於ける蒸気船建造の責任者に任命する一方、オランダに蒸気軍艦を発注します。
 安政2(1855)年8月に幕府が長崎海軍伝習所を開設すると、佐賀藩から佐野常民(サノツネタミ)・中牟田倉之助(ナカムタクラノスケ)以下48名が第一期生として参加します。常民は直正に海軍創設の必要性を説き、安政4(1857)年には佐賀藩がオランダから購入した帆船飛雲丸の船将となります。
 直正は、オランダに発注していた蒸気軍艦電流丸を受領した事もあって常民の献策を採用、安政5(1858)年に筑後川支流の早津江川河口にあった「御船屋」を拡張して海軍伝習機関「三重津海軍所」を開設し、常民を監督、中牟田倉之助を方助役に任命しました。また、同年、長崎海軍伝習所で佐賀藩のカッター型帆船晨風丸(シンプウマル)が竣工しています。
 三重津海軍所は当初は蒸気船等の修理・造船施設でしたが、安政6(1859)年に長崎海軍伝習所が閉鎖されてしまったため、長崎海軍伝習所で学んでいた多くの佐賀藩士の士官教育を継続するため、教育・訓練施設等を増設しています。
 海軍所へ異動した久留米出身の“からくり儀右衛門”田中久重は「電流丸」の交換用のボイラーや幕府蒸気船「千代田形」蒸気罐の修繕を通じて、蒸気機関についての経験を積む事となりました。
 そして、文久3(1863)年3月、直正は佐野常民や中牟田倉之助らを責任者として、ついに初の国産蒸気船を起工、三重津海軍所で建造は進められ、田中久重の尽力で慶応元(1865)年に竣工、凌風丸と命名されたのです。
 慶応3(1867)年12月、藩主鍋島鍋島直大(ナベシマナオヒロ)が直率して上方へ向かった佐賀藩兵は三重津から出航しています。慶応4(1868)年3月26日、鍋島直大は大坂天保山沖で新政府海軍旗艦として徴発されていた電流丸に乗り込み、日本初の「観艦式」に臨みました。
 明治2(1869)年4〜5月の箱館戦争では、中牟田倉之助が政府海軍の朝暘丸艦長を務めましたが、旧幕府海軍の蟠竜丸との砲撃戦に敗れて艦を轟沈させてしまう失態を演じています。しかし責任を追及される事は無く、海軍では佐賀藩閥が薩摩藩閥と並ぶ勢力を形成して行く事となりました。
 三重津海軍所の閉鎖された年代を示す史料は残っていませんが、明治4(1871)年1月に江戸で死去した鍋島直正の遺髪が「三重津」に到着、佐賀城に移送されたとの史料があるため、同年7月の廃藩置県まで存続していたと考えられます。
 なお、中牟田倉之助子爵中将は明治25(1892)年に海軍軍令部長へ就任しますが、清国北洋艦隊の実力を過大評価して日清開戦に猛反対していたため、明治27年7月17日に海軍大臣西郷従道(サイゴウツグミチ)伯爵大将によって解任されてしまいました。そして同年7月25日、日清両国は交戦状態に陥るのです。そして、それ以後、海軍佐賀藩閥は衰微して行く事となってしまいました。
 海軍所跡地には明治35(1902)年になって佐賀郡立海員養成学校が設立され、佐賀郡立甲種商船学校→佐賀県立佐賀商船学校を経て、明治43(1910)年に佐賀商船学校となりましたが、昭和8(1933)年に閉校して機材類は現在の国立唐津海上技術学校に移管されました。
 その後、海軍所跡は単なる河川敷と化していましたが、21世紀に入って発掘・文献調査が進められました。
 現在、遺跡は埋め戻され、三重津海軍所で活躍した佐野常民を記念した「佐野記念公園」となっており、三重津海軍所でも活躍した佐野常民伯爵(1823〜1902)の生涯と海軍所に関する資料展示を行っている佐野常民記念館があります。
 三重津海軍所は「何も無い世界遺産」と呼ばれており、復元施設等が全く存在しない珍しい世界遺産です。そこで、佐野常民記念館ではヘッドマウントディスプレイ(VRスコープ)を無料で貸出しており、これを装着して現場に建つと155年前の情景がリアルに体験出来ます。
 常民は佐賀藩士下村三郎左衛門の五男として肥前国佐賀郡早津江村に生まれました。天保2(1831)年に佐賀藩医佐野常徴の養子となり、藩校弘道館で学んだ後、天保8(1837)年からは養父のいる江戸へ遊学して古賀精里(コガセイリ)の三男、古賀穀堂(コガコクドウ)《https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1975694207&owner_id=250900》の弟である古賀侗庵(コガドウアン;1788〜1848)に学びました。
 天保10(1839)年に佐賀へ帰り、弘道館で考証学を、松尾塾で外科術を学び、続いて弘化3(1846)年には京都で広瀬元恭の時習堂に入門、嘉永元(1848)年には大坂の緒方洪庵の適塾で学び、更には紀伊国で華岡青洲が開いた春林軒塾に入門して貪欲に蘭方を習得しました。特に適塾では大村益次郎等の後に活躍する多くの人材と知遇を得て人脈を広げています。
 嘉永2(1849)年には江戸へ出て、佐賀藩医から幕府奥医師になった蘭方医伊東玄朴の象先堂塾に入門して塾頭となり、やはり蘭方の幕府奥医師である戸塚静海にも学びましたが、尊王運動に傾倒している事が発覚して佐賀へ召喚されてしまいました。
 嘉永4(1851)年には長崎へ移って家塾を開いていましたが、嘉永6(1853)年にペリーが浦賀に来航すると、佐賀藩主鍋島直正は藩の理化学研究所である精煉方の強化を思い立ち、蘭方に詳しい常民を頭人に抜擢したのです。佐賀藩は非常に閉鎖的な組織で、他藩出身者を用いる事を決してしない陋習(ロウシュウ)がありましたが、常民は藩の重役達を説得して筑後柳川出身のハイレヴェルな発明家・技術者の“からくり儀右衛門”田中久重を製錬方へ迎え入れ、早速、実際に蒸気機関で動く日本初の蒸気機関車と蒸気船の模型を製造する事に成功しています。
 そして上記の様に三重津海軍所の監督として活躍する訳ですが、佐賀藩は1867年のパリ万国博覧会に参加して有田焼を出品する事となり、常民は代表としてフランスへ派遣されます。その際、常民は万博会場で国際赤十字の組織と活動を見聞し、大いに関心を抱く事となりました。続いて常民はオランダへ赴いて蒸気軍艦“日進”の建造を発注した後、西欧諸国の軍事・産業・造船術等を幅広く視察して明治元(1868)年に帰国しました。
 明治3(1870)年3月には兵部少丞(ヒョウブショウジョウ)に就任して日本海軍の基礎創りに尽力しましたが、同じ佐賀藩出身の増田明道(1836〜81)等の他の海軍担当官との人間関係が拗(コジ)れ、同年10月に罷免されるハメに陥ってしまいます。
 しかし、明治4(1871)年に工部大丞兼燈台頭(トウダイノカミ)に就任して全国に洋式燈台の建設に当たりました。
 続いて明治5(1872)年には、パリ万博参加の経験を買われて、翌年のウィーン万博に向けての博覧会御用掛に就任しますが、先ずは日本の産業近代化モデルを示すべく、同年3月に日本初の博覧会を湯島聖堂で開催しています。
 明治6(1873)年にはウィーン万国博覧会事務副総裁に就任してオーストリアハンガリー帝国へ派遣され、通訳を務めたハインリヒ=フォン=シーボルト(長崎に滞在していたフィリップ=フランツ=フォン=シーボルトの息子)等のアドヴァイスに従って、西洋の模倣でしかない機械製品を並べるよりも、オリエントのエキゾチックさをアピールする事として、日本情緒・伝統文化を象徴する演出で展示を行いました。即ち、約1300坪の敷地に神社と日本庭園を造り、白木の鳥居・神社・神楽(カグラ)堂・反り橋を配置した外、産業館にも浮世絵や工芸品を展示したのです。更には、名古屋城の金鯱・鎌倉大仏・東京谷中(ヤナカ)天王寺五重塔の模型や、直径2mの大太鼓、直径4mの提灯等の人目を惹く物を設置しました。
 この結果、神社と日本庭園は大いに好評を博し、展示物も飛ぶように売れました。ウィーンでもジャポニスムが注目され、その後1890年代の分離派画家グスタフ=クリムトの日本文様を意識した絵画等に受け継がれて行く事となります。なお、この万博では越前和紙の製品が「進歩賞牌」を獲得しています。
 こうして万博展示を大成功させた常民は「博覧会男」の異名を得る事となり、また海外にいたお陰で佐賀の乱に巻き込まれずに済んだのです。
 常民は明治8(1875)年に元老院議官となりますが、明治10(1877)年2月に西南戦争が勃発すると、パリ万博で学んだ赤十字社の知識を元にして、敵味方の区別無く戦場で負傷した将兵を看護する事を目指した「博愛社設立請願書」を政府に提出します。提案は参議大蔵卿大久保利通によって却下されますが、常民は同年5月に熊本に於いて鹿児島県逆徒征討総督の有栖川宮熾仁(アリスガワノミヤタルヒト)親王と直談判し、親王は独断で博愛社設立の許可を出したのです。博愛社総長には東伏見宮嘉彰(ヒガシフシミノミヤヨシアキ)親王が就任しました。
 常民は明治11(1878)年には博愛社の総副長に就任、明治12(1879)年3月には日本美術の海外流出を防ぐために龍池会(リュウチカイ;後の日本美術協会)と呼ばれる美術団体を設立して会頭に就任し、同年10月には中央衛生会会長にも就任しています。
 明治13(1880)年、参議と卿の兼任が禁止されたため、同郷の参議大隈重信から大蔵卿の座を譲られましたが、翌年の政変で辞任に追い込まれています。
 明治15(1882)年に元老院議長に就任、明治16(1883)年には大日本私立衛生会を発足させて会頭に就任しました。明治19(1886)年には東京飯田町へ博愛社病院を開設しています。
 明治20(1887)年、博愛社は国際赤十字に加盟が認められて日本赤十字社と改称、常民は初代社長に就任しました。同年、子爵に叙され、日本美術協会会頭にも就任しています。
 明治21(1888)年には枢密顧問官に就任し、同年7月、会津磐梯(アイヅバンダイ)山が噴火すると救援活動に従事しました。
 明治25(1892)年7月14日、第一次松方正義内閣の農商務大臣に就任して初入閣を果しますが、同年8月8日に松方内閣が瓦解してしまったため、一ヶ月にも満たない大臣生活でした。
 日本赤十字社は明治27(1894)年に勃発した日清戦争でも戦時救護活動を行って存在感を高め、常民は明治28(1895)年に伯爵へ陞爵(ショウシャク)しています。日本赤十字社は明治33(1900)年の義和団の乱でも戦時救護活動を行って国際的評価を高めますが、その頃には常民は高齢のため一線から退いており、明治35(1902)年に東京の自宅で死去しました。享年80歳。墓所は東京の青山墓地です。

コメント(16)

 修羅場地区のドライドッグ跡です。
 修羅場地区の三連溝状遺構と小型二連炉遺構です。
 佐野常民記念館です。

左;凌風丸模型
中;三重津海軍所出土品
右;アームストロング砲
 佐野常民記念館の三重津海軍所模型です。
 佐野常民記念館です。

左;三重津海軍所模型
中;明治日本の産業革命遺産
右;博愛者設立の図

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