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史跡コミュの肥前国庁跡

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 佐賀県佐賀市大和町久池井2738ー2

 1989年09月22日指定。

 https://www.google.co.jp/maps/@33.3172253,130.2734064,17z
 肥前国府については『肥前国風土記』には記録が見られないものの、他の史料から現佐賀市大和町久池井(ヤマトチョウクチイ)付近にあったと推定されていましたが、昭和時代まで遺構が確認されていませんでした。ところが、長崎自動車道建設が決定した昭和50(1975)年から始まった発掘調査によって、昭和52(1977)年に国庁跡が確認されたのです。
 国庁築成時期は、出土した須恵器(スエキ)・土師器(ハジキ)・瓦等から奈良時代前期の8世紀初頭と推定されていますので、持統天皇10年(A.D.696)までに肥前国と肥後国が分離して間も無く建設されたと考えられます。築成当初の第一期国庁は南門と掘立柱(ホッタテバシラ)の板塀に囲まれた東西61m・南北69mのエリアに正殿と前殿、及び倉庫状の西脇殿2棟・東脇殿1棟がありました。建物は全て掘立柱でした。
 平安時代初期の9世紀前半に大規模な建て替えが行われて規模が拡大し、第二期国庁は南北104.5m・東西77.2mの築地塀(ツイジベイ)で囲われたエリアになりました。建物は約7度西に傾いた南北中軸線上に南から南門・前殿・正殿・後殿が並び、前殿の東西両側に各々二軒の脇殿が配置されています。南門は築地を内側にやや引いた八御門でした。建物は全て礎石を用いた物となり、9世紀後半に正殿の左右に廊が新設されて郭内を南北に二分、大宰府政庁と酷似した形状となっています。
 第二期国庁の建物規模は前殿・後殿が7間×2間、正殿も同じ大きさで各1間の四面廂が付き、9間×4間でした。脇殿は4棟とも7間×2間です。
10世紀後半に二回目の建て替えが行われましたが、この第三期には後殿・東脇殿・西脇殿北棟が姿を消した上、前殿や西脇殿南棟も掘立柱建物になっており、機能の縮小が明らかです。正殿と前殿の間には目隠し塀がありました。
 承平年間(931〜938)に成立した『和名類聚抄(ワミョウルイジュウショウ)』に「乎岐(オギ)国府」と記されているため、当地で二回目の建て替えが行われた10世紀後半には国府は小城(オギ)郡へ移転しており、当地の建物は佐嘉郡衙(サガグンガ)等に用いられた物だった可能性があります。なお、中世には佐嘉郡の蠣久荘(カキヒサショウ)が国府機能を果たしていました。
 また、文明2(1469)年に千葉氏の内乱の兵火によって国府・国分寺・印鑰社(インニャクシャ)が焼失したとの史料もありますので、当地の建物自体は室町時代まで残っていた可能性があります。
 肥前国庁跡は平成17(2005)年に南門が復元され、全盛期の第二期国庁の遺跡が確認出来る史跡公園公園としてオープン、各種史料を展示している肥前国庁跡資料館も設けられています。

・肥前国分寺跡
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=94696125

コメント(7)

左;南門
中;西殿跡
右;西脇殿南棟跡
左;西脇殿北棟跡
中;前殿跡
右;正殿跡
左;手前から正殿・前殿・南門
中;後殿跡
右;東脇殿
左;東脇殿北棟跡
中;菫
右;東脇殿南棟跡

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