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史跡コミュの初代肥前国忠吉の墓地

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 佐賀県佐賀市伊勢町6

 1973年02月11日、佐賀市が史跡に指定。

 https://www.google.co.jp/maps/@33.2522754,130.288416,18z
 浄土真宗本願寺派明宝山真覚寺にあります。
 初代肥前国忠吉(ヒゼンノクニタダヨシ)は元亀3(1572)年に現在の高木瀬町長瀬で生まれ、橋本新左衛門と称しました。慶長元(1596)年に鍋島直茂に取り立てられて上京、埋忠明寿(ウメタダミョウジュ)の門に入って刀工としての技を磨き、慶長3(1598)年に帰国して佐賀藩の抱刀工となりました。そして、一族と共に佐賀城下へ移住して鍛冶屋町を開く事になりますが、これが現在の長瀬町です。元和10(1624)年に再度上京して武蔵大掾(ムサシダイジョウ)に任官、後に銘を忠広と改めています。
 日本の刀剣史上、肥前新刀の占める比重は極めて大きく 二代から九代までそれぞれ伝統を継承しつつ、個性を生かした格調高い肥前刀の製作に従事しました。二代忠吉から九代忠吉までの墓は、八戸町の長安寺にあります。
 真覚寺は阿弥陀如来を本尊として永禄年間(1558〜1569)に現鍋島町蠣久(カキヒサ)に創建された寺院で、天正19(1591)年に村中城北方の中の小路へ移転、更に慶長7(1602)年に始まる佐賀城大改築に伴って寺院の密集する現在地の伊勢町へ移転しました。
 元禄12(1699)年の建立の鐘楼〔佐賀市指定文化財〕は、桁行2.81m・梁間2.55mで平面は正方形に近く、軒の高さは3.40mです。屋根は本瓦葺切妻造で、柱は方柱で江戸風な細い面が取られ、僅かに内転びに建てられています。柱下の礎石は30cm角・厚さ6cmの平石で基壇は高さ60cmの乱石積み、床は粘土叩き仕上げです。用材はすべて欅材です。平成15(2003)年から翌年にか けて、屋根を中心とした保存修理工事が行われました。
 ここの鐘の音は独特の響きを持っていた様で、以下の童唄(ワラベウタ)が伝わっています。
 「お城の太鼓はドーン、願正寺の鐘やガーン、真覚寺の鐘やシーン、三つ合わせて毒顔疹(ドッカンシン)」
 毒顔疹とは佐賀方言で痘痕(アバタ)の事です。
 本来の梵鐘は昭和18(1943)年に戦時供出されてしまい、現在の梵鐘は昭和49(1974)年に再鋳された物ですが、鐘の生命の徴(シルシ)として、信徒先祖代々の遺骨一片と法名銅板数千名分、子孫現存者の髪爪が鋳込まれたそうです。重量623kg・直径81cmで、音響到達距離は約6kmです。

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