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史跡コミュの築地反射炉跡

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 佐賀県佐賀市長瀬町9丁目

 1967年02月11日、佐賀市が史跡に指定。

 https://www.google.co.jp/maps/@33.2517236,130.2827512,17z
 佐賀市立日新小学校の校庭にあります。
  築地反射炉は佐賀藩10代藩主鍋島直正が造らせた日本初の実用反射炉です。反射炉とは、燃料の熱を壁や天井の面で反射させて炉内の温度を上げ、鉄や銅などの金属を溶かす溶解炉であり、鉄製大砲の鋳造に必要不可欠な施設です。
 アヘン戦争(1840〜42)等の情報から海防への懸念を募らせていた直正は、弘化4(1847)年に幕府老中阿部正弘に海防の必要性を献策しますが、翌年却下されてしまったため、独自に海防強化策を実施する決意を固めました。即ち、長崎に近い伊王島と神ノ島で台場(沿岸砲台)を増設すると共に、当時主流の青銅砲をより強力な鉄製大砲に置き換えるために大砲の鋳造を行う事でした。そのためには反射炉を築く必要があったのです。
 当時参考とされたのは、オランダのUlrich Huguenin(ウルリッヒ=ヒューニンゲン)による技術書“Het Gietwezen in's Rijks Ijzer - geschutgieterij te Luik”(ロイク王立製鉄大砲鋳造所における鋳造法)で、高島秋帆(タカシマシュウハン)の手により天保7(1836)年頃初めて日本に輸入されていましたが、翻訳は行われていませんでした。
 そこで直正は同書の翻訳を命じ、藩の蘭方医であった伊東玄朴とその弟子杉谷雍介・池田才八によって嘉永2(1850)年か翌年に訳本『銕砲(テッポウ)全書』が完成したのです。
 また同時期に手塚律蔵訳の『西洋鉄熕鋳造篇』、嘉永5(1853)年に金森建策訳の『鉄熕鋳鑑』がそれぞれ別に著されています。
 実は、“Het Gietwezen in's Rijks Ijzer - geschutgieterij te Luik”に記されている方法は、先ず鉄鉱石を溶鉱炉で溶かして銑鉄(センテツ)を作り、それを反射炉で再溶解して砲身を鋳造、それから鑚開台(サンカイダイ)で砲腔(ホウコウ)を開ける手口でした。しかし、日本でこれを読んだ者の多くは、原料は、砂鉄を原料とする日本在来の鑪(タタラ)製鉄で十分だろうという認識であったため、反射炉の築造が焦点となったのです。
 直正は嘉永3(1850)年6月に藩の砲術研究を担う組織「火術方」を分割し、大砲製造を行う「大銃製造方」を新たに設けて反射炉の築造に当たらせました。大銃製造方の長には火術方の責任者であった本島藤太夫を任命、また副長に杉谷雍介と田中虎太郎(技術)を任命した。この三名に加えて、馬場栄作(和算家)・田代孫三郎(会計)・谷口弥右衛門(鋳工頭梁)・橋本新左衛門(刀鍛冶)の七名が、後に反射炉の成功に貢献した「御鋳立方(オンイタテカタ)の七賢人」と呼ばれています。
 反射炉の築造は、佐賀城の北西にある築地にて嘉永3(1850)年7月に始まり、同年11月に一基が完成しました。12月4日に火入れ、12月22日に一回目の鋳造、嘉永4(1851)年1月14日に二回目の鋳造が行われましたが、何れも失敗してしまいました。原料には刀剣を用いたと記録されており、原料鉄の質の重要性は既に認識されていたと考えられます。炉の温度が低かった事が失敗の原因と考えられて、温度を上げる取り組みが行われました。
 そして、嘉永4(1851)年4月10日、五回目の鋳造で初めて鉄砲一門の鋳造に成功しましたが、数日後試射を行ったところ砲身が破裂してしまいました。残骸の断面を見ると気泡が見られ、鉄質が未だ不均一だったのが原因でした。この後も、鋳造に成功しても試射で破裂する例が後を絶たず、射手等が死亡する事故が続出してしまいます。良質の鉄の鋳造が出来る様になって軌道に乗ったのは、嘉永5(1852)年5月2日の14回目の鋳造でした。この間、砲身を刳り抜く機械である錐鑚台(スイサンダイ)や、その動力としての水車等が設けられ、嘉永4年10月に二号炉、嘉永5年4月に三・四号炉が増設されています。同年6月11日には全四基を稼働させて36ポンド砲を鋳造しました。
 この様に築地反射炉は試験炉として初期は部分操業を行いつつ、実用炉を目指して徐々に整備されて行きました。形式としては連装二基四炉で、四炉はL字型に配置され、水車動力を必要としたため、天祐寺川沿いに設けられました。
 反射炉の炉体は1500℃程度の高温に曝されるため、耐火煉瓦を如何に製造するかも重要な課題でした。佐賀藩の反射炉では、煉瓦の焼成に有田焼の職人が持つ伝統技術が活用されたと考えられています。煉瓦の原料には、杵島(キシマ)郡や藤津郡の土が用いられ、煉瓦造りの現場では、瓦職人や左官が雇われてその技術が用いられました。
 なお、反射炉で用いた原料鉄にどのような材料をどれくらいの比率で用いたかは、正確には明らかになっていません。原料鉄には一定の質が求められたので、西洋の鉄を輸入して用いたという説と、国産の和鉄を甑炉(コシキロ)で一度溶融して改質した後に反射炉で再溶融したという説があります。なお、和鉄については、佐賀藩では従来より石見産の鉄を用いており、反射炉でも石見から鉄を船で運んで使用した記録が残っています。また、炉の燃料には、主に日向や肥後の木炭を用いたという記録があります。
 さて、佐賀藩での成功が伝えられると、幕府も反応を示しました。嘉永6(1853)年6月にペリーが浦賀に来航すると、同年8月、幕府は佐賀藩に対して品川台場向けの鉄製大砲50門の製造を依頼したのです。
 これを受けた佐賀藩は、銃砲製造関係の既存施設があった多布施にも新たな反射炉を増設する事を決定、多布施反射炉は安政元(1854)年3月に操業を開始しました。多布施反射炉は、当初より実用炉として整備され、こちらも連装二基四炉ですが、配置はH字型でした。また、こちらも水車動力のため多布施川沿いに設けられています。
 築地反射炉は遅くとも安政4(1857)年7月には操業を停止していますが、多布施反射炉は安政6(1859)年11月まで操業した事が判っています。操業を終えるまでの約9年間に不良品も含めて計138門の鉄製大砲が鋳造されました。また、特に長崎の砲台に早期に必要な分などは鉄製大砲では間に合わないため青銅砲で補っており、両反射炉では青銅砲も鋳造されています。鉄の大砲と青銅砲を合わせると、300門近くを鋳造したとされているのです。
 なお、安政3(1858)年にはオランダから圧延機を輸入して使用した記録があり、これは日本最初の圧延機になります。この圧延機を始めとした設備類は、後に幕府に献納され、明治政府に移管後、明治4(1871)年に久留米藩江戸藩邸跡へ開設された赤羽(アカバネ)製鉄寮(後の赤羽工作分局)へ引き継がれました。
 多布施反射炉は、反射炉の操業を止めた後は銃砲関係の作業場として稼働しましたが、それがいつまでだったのかは不明です。築地反射炉については、操業を止めた後は田畑になりました。但し、「大銃製造方」自体は存続しており、文久元(1861)年に蒸気機械を導入した記録がある外、戊辰戦争前後には“アームストロング砲”を生産していた記録が残ります。
 一番製造数が多かった24ポンドカノン砲は48門が生産され、うち45門が幕府に納入されています。

コメント(2)

 小学校の校庭ですが、自由に見学出来る様になっていました。

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