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史跡コミュの大村益次郎墓

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 山口県山口市鋳銭司字杉原

 1935年12月24日指定。

 大村益次郎(1824〜69)は、元の名を村田蔵六と云い、鋳銭司村の村医者の息子でしたが、天保13(1842)年に防府でシーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学んで俊才を認められ、豊後国日田の広瀬淡窓の咸宜園(カンギエン)を経て、弘化3(1846)年に大坂の緒方洪庵の適塾で学び、適塾の塾頭にまで進みました。
 嘉永3(1850)年、父親に請われて帰郷、四辻で開業して村医となりましたが、嘉永6(1853)年の黒船来航で蘭学者の知識が求められる時代となり、蔵六は伊予国宇和島藩主伊達宗城(ダテムネナリ)に仕える事となりました。
 蔵六は宇和島藩で洋式軍艦の雛型等を作りましたが、安政3(1856)年には宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所(バンショシラベショ)教授方手伝となり、外交文書・洋書翻訳の外、兵学講義・オランダ語講義等も行い、翌年には幕府講武所教授へ抜擢されて最新の兵学書の翻訳と講義を行いました。
 万延元(1860)年、桂小五郎の推薦で江戸在住のまま長州藩士となり、文久3(1863)に萩へ赴いて手当防御事務用掛に就任、元治元(1864)年には兵学校教授役となって藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行うなど、過激攘夷路線を突っ走る長州藩の軍備増強に邁進しました。慶応元(1865)年には上海への密航も行っています。同年、藩の実権を掌握した桂小五郎・高杉晋作等は、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設等の軍制改革に着手、大村益次郎と改名した蔵六に指導を要請しました。
 益次郎は精力的に明倫館や宿舎の普門寺で西洋兵学を教授しましたが、特に益次郎の私塾であった普門寺は、普門寺塾や三兵塾と呼ばれ、ここで益次郎はオランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した『兵家須知戦闘術門』を刊行、更にそれを実戦に役立つ様に書き改めたテキストを作成し、優れた教育者として活躍しました。
 そして、慶応2(1866)年に幕府軍による第二次長州征伐が開始されると、益次郎は石州口方面の事実上の司令官となって浜田藩兵を中心とする幕府軍を一蹴、浜田城や天領石見銀山を攻略する大戦果を挙げました。慶応4(1868)年の戊辰戦争では、江戸無血開城後に江戸へ到着し、上野山に拠って跳梁跋扈していた彰義隊を一撃で殲滅する大功を建て、明治2(1869)年7月に初代兵部大輔に就任して近代的国民軍創設の責任者となりましたが、同年9月3日に京都に於いて狂信的攘夷論者の長州藩士神代直人(コウジロナオト)等に襲撃されて重傷を負い、敗血症となって11月5日に大阪の病院で死去しました。享年46。
 明治2(1869)年11月5日に大阪の病院で死亡した従四位兵部大輔(ヒョウブタイユウ)大村益次郎の遺骸は船で周防国三田尻へ運ばれました。
 11月13日、明治天皇は益次郎に従三位を贈位し、金300両を賜る宣旨が下されています。遺骸は妻の琴子によって三田尻港から郷里の鋳銭司村へ運ばれ、11月20日に葬儀が営まれました。
 墓所は自宅近くに設けられ、花崗岩の墓石には正面に「故兵部大輔贈従三位大村永敏墓」とあり、側面には「明治二年己巳十一月五日逝」と刻まれています。墓石の高さは136cmで、地表からの高さは188cmになります。
 並んで妻の大村琴子(1833〜1905)の墓があり、墓の後方に明治11(1878)年建立の神道碑があります。
 四辻駅の東方約2km。
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コメント(2)

 大村神社からのルートは少し判り難いです。

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