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史跡コミュの錦小路頼徳墓

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 山口県山口市赤妻町36番地

 1969年03月21日、山口市が史跡に指定。

 錦小路頼徳(ニシキコウジヨリノリ;1835〜64)は正三位唐橋在久(カラハシアリヒサ;1809〜50)の子で、錦小路頼易(ヨリヤス)の養子となって従四位上右馬頭(ウマノカミ)に任ぜられました。安政5(1858)年3月、日米修好通商条約撤回を求める廷臣八十八卿列参に加わり、朝権回復に尽力したため孝明天皇の信任を獲得、文久3(1863)年2月には国事寄人(コクジヨリウド)に補せられました。
 同年3月に孝明天皇が攘夷祈願のため石清水八幡宮へ行幸した際にも随従、権中納言三条実美(サンジョウサネトミ)等と共に攘夷親征・大和行幸を企図しましたが、同年8月18日の政変で失脚,三条実美・三条西季知(サンジョウニシスエトモ)・東久世通禧(ヒガシクゼミチトミ)・壬生基修(ミブモトオサ)・四条隆謌(シジョウタカウタ)・沢宜嘉(サワノブヨシ)と共に長州へ下りました。世にいう七卿落(シチキョウオチ)です。七人は当初、三田尻御茶屋内の招賢閣に滞在していましたが、沢宣嘉が播磨国生野(イクノ)での挙兵のため脱走してしまったため、残りの六卿は関所で厳重に出入りを取り締まっている山口の地へと移される事が決定、三条実美は湯田の草刈屋敷に、他の五卿は大内の氷上(ヒカミ)山真光院に住む事となりました。
 頼徳は元治元(1864)年3月の下関視察の際に倒れ、宿泊先の白石正一郎宅で4月25日に没してしまいました。享年30。
 辞世は「君がため すてむ命の いたづらに 露と消へゆく ことをしぞ思ふ」です。
 遺骸は元治元年5月8日、湯田にある龍泉寺に運ばれ、葬儀の後、赤妻山へ葬られました。王政復古時に官位を復され、明治3(1870)年に正四位を追贈されています。
 七卿の中で唯一京へ戻れなかった頼徳を憐れんだ太政大臣三条実美公爵等の尽力で、明治18(1885)年に頼徳一人を祀るために墓に隣接して官祭招魂社が創建され、昭和15(1940)年に朝妻護国神社に改称されましたが、昭和22(1947)年に至ってGHQの指令で赤妻神社と再改称されています。
 昭和時代末期の宅地造成に伴って赤妻山は平地となり、墓と社殿は現在地へ移設されました。

◎城下町山口
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=194642&id=89434373

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