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史跡コミュの雲谷庵跡

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 山口県山口市天花1丁目12番10号

 1982年11月27日、山口市が史跡に指定。

 雲谷庵は雪舟等楊(セッシュウトウヨウ;1420〜1506)の住居だった所です。雪舟は備中国赤浜(現;岡山県総社市)に生まれ、12歳の頃生家に近い宝福寺に入って臨済僧になったと伝えられています。その後、京都の相国寺(ショウコクジ)に入り、禅と共に画技を学びました。
 享徳3(1454)年頃に山口へ来住して大内教弘の庇護を受け、45歳になった寛正5(1464)年頃には雲谷庵に居住していました。当時は雲谷軒(ウンコクケン)と呼んでいたようです。
 応仁元(1467)年、大内政弘の遣明船で中国に渡り、四明天童山(シメイテンドウザン)で前堂首座(ゼンドウシュソ)に列せられ、また彩色や破墨(ハボク)の画法を学び帰国しました。
 文明元(1469)年に帰国し、周防国の外、石見・豊後等でも活動、美濃や丹後にも赴いていますが、周防滞在時には雲谷庵に住んでいました。永正3(1506)年、87歳で石見国益田に於いて没したとされますが、山口で亡くなったとの伝承もあります。
 雪舟の死後、その画系は途絶していましたが、それを嘆いた参議毛利輝元は、文禄2(1593)年に原直治(1547〜1618)に雪舟の画風再興を命じて雲谷庵を与えました。直治は梶原景季の子孫と称する肥前国出身の武士で、天正元(1573)年から輝元に仕えていましたが、連歌や茶の湯に堪能で、輝元の御伽衆の様な役割を果たしていたようです。そして直治は雲谷等顔と改名し、雪舟の画風を継承する雲谷派を開く事となりました。
 等顔は雪舟を模倣するだけでなく、桃山文化らしい装飾性豊かな作風を確立、京や江戸にも赴いて狩野派や長谷川派と互角に競い合いました。
 等顔の死後は次男の雲谷等益(1591〜44)が流派を引き継ぎ、工房組織を設けて一定水準の作品を制作出来る体制を整えました。この結果、画壇が狩野派に席巻される中、雲谷派は長州藩お抱え絵師として幕末まで存続する事が出来たのです。
 しかし、明治4(1871)年の廃藩置県の結果、雲谷庵は無くなって雲谷派も消滅してしまいました。そこで、郷土史家の近藤清石(コンドウキヨシ)が中心となって明治17(1884)年に古い社寺等の古材により庵が復興されたのです。その後、平成12(2000)年に改修されて現在に至っており、室町時代の部材を使った箇所があります。
 入館は無料です。
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◎城下町山口
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=194642&id=89434373

コメント(2)

 瑠璃光寺五重塔〔国宝〕が遠望出来ました。

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