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史跡コミュの日高鯨山の古墳

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 愛媛県今治市馬越(ウマゴエ)町2丁目

 1950年10月10日、愛媛県が史跡に指定。

 鯨山古墳は石垣で囲まれた標高15mの独立丘陵ですが、発掘調査が行われていないため、謎の多い古墳です。
 築造時期は古墳時代後期の6世紀と推定されますが、ここ越智郡日吉郷地域は古代には浅瀬の海であり、この古墳は浅瀬に浮かぶの島のような状況だった模様で、浅瀬を馬で往来した事から馬越の地名が生まれました。
 和銅5(712)年に大三島から勧請(カンジョウ)して大山津見命(オオヤマツミノミコト)・上津比売命(ウワツヒメノミコト)・下津比売命(シタツヒメノミコト)を祭る三島神社が創建され、神宮寺として鐘楼や二重輪塔を持つ串山安艱(アンカン)寺も設けられました。その際、墳丘上が大きく削平されたようです。その後、丘陵が鯨の様な姿に見えたため、神亀5(728)年に安艱寺の山号は鯨眠山へ改称されました。
 天正7(1579)年に大三島の大山祇(オオヤマツミ)神社大宮司である大祝安任(オオホウリヤストウ)が「小千御子御墓在馬越邑(オチノミコノハカハ,ウマゴエムラニアリ)」と書き記しているように、この古墳は人皇第15代応神天皇〔位;270〜312〕の御代に小市(オチ)国造(クニノミヤツコ)に任ぜられた乎致命(オチノミコト)の墓だと伝えられて来ました。乎致命は大祝氏や伊予守護河野氏の祖先に当たります。
 今治藩医・藩校克明館(コクメイカン)助教・石鎚(イシヅチ)神社神職等を歴任した半井梧菴(ナカライゴアン;1813〜89)が慶応3(1867)年に著した『愛媛面影(エヒメオモカゲ)には「入り江の中に在る鯨鯢(ケイゲイ)の跳(ハネル)がごとし、因(ヨリ)て鯨山と名けたるなるべし」と記されています。
 鯨の姿の古墳とは、即ち前方後円墳の事で、丘陵の全長は約152mとなり、今治市北部にある全長約81m相の谷(アイノタニ)1号墳を遥かに凌ぐ県下最大の古墳という事になります。
 しかし、最近では前方部に見える部分は単なる自然丘陵だとして、円墳説が有力になって来ています。石材が見られたり、円筒埴輪や須恵器の破片が採集された事があるのも後円部に限られています。
 仮に円墳だとしても、直径66m程にもなり、かなり大規模な古墳である事は確かです。
 現在、「前方部」には、三島神社と鯨眠山安艱寺の後身である真言宗御室(オムロ)派新宮山安養寺が建ちます。

コメント(3)

三島神社 祭神;大山津見命・上津比売命・下津比売命

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