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史跡コミュの井川城跡

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 長野県松本市井川城1-4552-ロ

 1967年02月01日、松本市が特別史跡に指定。

 建武元(1334)年に後醍醐天皇から信濃守兼守護に任命された小笠原貞宗が守護所として築いた平城です。貞宗の主な領地は伊那郡伊賀良(イガラ)荘でしたが、南方に偏り過ぎているため、筑摩郡小島郷に守護所を設けたのです。なお、鎌倉時代の守護所は善光寺平にありました。
 従来、小笠原氏は鎌倉時代から伊賀良荘を本拠としていたとされていましたが、近年の研究では、伊賀良荘等の信濃の所領を得たのは建武政権期になってからで、鎌倉時代後期は甲斐国巨摩郡を所領としつつ京都在住の状態だったと考えられるようになって来ました。
 「小笠原系図」では貞宗の子政長が元応元(1319)年に井川館で生まれたとされていますが、恐らくデッチアゲだと思われます。
  井川城の設けられた地は松本平の中心部で、薄川(ススキガワ)と田川の合流点に当たり、頭無川(ヅナシガワ)や穴田川が流れ、川の名からも想像されるように湧水地帯となっています。
 貞治5(1366)年に守護所は再び善光寺平に戻ってしまいましたが、その後、小笠原氏は三つに分裂して抗争、そのうち一つが井川城を本拠とする府中小笠原氏でした。なお、松本平には平安時代に信濃国府が設けられていたため、信濃府中と呼ばれていたのです。
 府中小笠原家の信濃守清宗は、鈴岡小笠原家や諏訪氏に再三府中へ攻め込まれていたため、長禄3(1459)年頃、平城の井川城の東方山中に詰城として林城を築いています。
 応仁元(1467)年頃から鈴岡家の攻撃が激化し、井川城を攻略された清宗は屈服してしまいましたが、明応2(1493)年に清宗の子長朝が府中・鈴岡両家を統合して井川城を守護所としています。
 長朝の子の貞朝は、永正元(1504)年に井川城西北に平城の深志(フカシ)城を築いて防衛体制を強化、永正12(1515)年に貞朝の後を継いだ次男の長棟(ナガムネ)は、天文3(1534)年に松尾小笠原家を打倒して小笠原氏統一に成功し、その後、林城に守護所を移しています。
 その後の井川城がどうなったかは不明ですが、天文19(1550)年に武田信玄軍の攻撃で林城・深志城が陥落した時に一緒に制圧され、廃城になったと思われます。
 現在、史跡指定されている地は頭無川が濠状に取り囲んで流れており、主郭の一部と推定されます。その一隅にある小高い塚は櫓跡という伝承もあります。
 更に付近には「古城」「中小屋」のように館に関係する地名や、「下ノ丁」「中ノ丁」のように役所の存在を示す地名もあります。またこれらのほかに「中道」の地名もあり、侍屋敷の町割跡や寺などの存在から広大な守護の居館跡が想像されます。

◎城下町松本
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=194642&id=80428940
*松本城
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=80320043
+小笠原氏城跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=80816601

コメント(2)

 堀の役割を果たした頭無川と穴田川です。

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