ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

史跡コミュの弘法山古墳

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 長野県松本市並柳2-1000

 1976年02月20日指定

 松本市南西部の中山の先端に当たる標高約650m・比高60mの弘法山山頂にある前方後方墳で、中山古墳群の中の北尾根グループに含まれます。3世紀中葉〜4世紀初頭頃の築造と考えられ、東日本最古級の古墳です。
 弘法山山頂に古墳がある事は古くから知られていましたが、ありふれた円墳と思われており、しかも大東亜戦争(1941〜45)末期に高射機関砲陣地が構築された事で破壊されてしまったと見做されていたため、発掘調査が行われる事も無いまま放置されていました。
 ところが、昭和49(1974)年に松商学園が弘法山を買収し、学校建設が行われる事となったため、用地造成に先立っての発掘調査を開始したところ、これが単なる円墳ではなく、それまで松本平には無いとされて来た前方後円墳ではなかろうかとの疑いが生じ、協議の結果、保存を前提として松本市教育委員会が調査を継続担当する事となりました。
 そして、再々度にわたる測量の結果、古墳は前方後円墳ではなく、当時にあっては県下唯一の前方後方墳であり、続いておこなわれた主体部の発掘で石室が現れ、石室上から出土した多量の土器と完存していた副葬品のセットから、当時確認されていた限りでは東日本最古の貴重な古墳である事が判明したのです。
 前方部を北に向けて築造されており、墳丘長66m・後方部幅33m・前方部幅22m・後方部高さ6m・前方部高さ2mで、葺き石が部分的に認められましたが、埴輪の設置や周濠等は認められませんでした。
 前方後方墳は東日本特有の物で、西日本から前方後円墳が波及する前に出現し、長野市の姫塚古墳も同時期の前方後方墳です。
 埋葬施設は墳丘の長軸に直交する竪穴式石室状の河原石を積み上げた礫槨で、8.8×5.5mの墓壙の中央に設けられており、長さ5.5m・幅1.3m・高さ0.9mです。天井石は無く、箱形の木棺に埋葬されていたと推定されています。
 内部からは「上方作鏡」銘の四獣文鏡1面・銅鏃1・鉄剣3・勾玉とガラス小玉738・鉄斧1・鉄鏃24S字状口縁台付甕等が発見されており、出土品〔長野県宝〕は松本市立考古博物館で展示されています。
 棺の外側には、底部穿孔の・高坏(タカツキ)・手炙(テアブリ)型土器等を並べて葬送儀礼が行われた形跡がありますが、その土器は濃尾平野の元屋敷式土器である可能性が強く、畿内の土器型式でいうと庄内式の新しい段階の物か、布留式の最も古い段階の物に相当すると思われます。
 前方後方墳は、弥生後期の濃尾平野に於いて見られる前方後方形の方形周溝墓が祖形であると考えられており、濃尾平野には『魏志倭人伝』に出て来る狗奴国(クナコク)が展開していたとする説がある事や、東海地方特有のS字甕が出土している事から、被葬者は濃尾地方の勢力と結んだ地域の首長墓とも考えられます。
 染井吉野・八重桜等約2000本が植えられており、桜の名所として知られます。また、松本市街地全体が見渡せる眺望良好な場所でもあります。

+針塚古墳
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=80331580
・中山古墳群
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=80816239

コメント(4)

 芭蕉句碑もあります。「そばはまだ 花でもてなす 山路かな」
 松本市街と北アルプス方面の眺望です。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

史跡 更新情報

史跡のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング