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史跡コミュの智識寺金堂跡および東塔跡

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 大阪府柏原市太平寺2丁目19-13

 1970年02月20日、大阪府が史跡に指定。

 知識と呼ばれた仏教信徒の財物及び労力の寄進によって建立された寺院を「知識寺」「智識寺」と称したが、その中でも河内の知識寺は後に「日本三大仏」に数えられた廬舎那仏を安置するなど、その規模の大きさで知られていた。
 7世紀後半に茨田宿禰(マムタノスクネ)を中心とした知識によって創建されたと伝えられ、河内国大県(オホアカタ)郡の一部に相当する柏原市の遺跡からは白鳳期の瓦や薬師寺式伽藍配置の痕跡などが発掘されており、知識寺の跡であるとする有力説の根拠とされている。
 また、知識寺の東塔の塔心礎(礎石)と見られる石が現在でも石(イワ)神社〔延喜式内社〕〔郷社〕に残されており、大阪府指定文化財となっていいる。
 天平12(740)年に聖武天皇が同寺に行幸して、廬舎那仏の姿と同寺を支える人々の姿に魅了され、後に東大寺盧舎那仏像を造像するきっかけになった。聖武天皇の娘の孝謙天皇も天平勝宝元(749)年に行幸しており、と756年(天平勝宝8年)に同寺に行幸している。さらに天平勝宝8(756)年2月24日、平城宮を発した孝謙天皇・聖武上皇・光明皇太后が難波宮へと向かう途中、智識(チシキ)寺・山下(ヤマシタ)寺・大里(オオサト)寺・三宅(ミヤケ)寺・家原(イエハラ)寺・鳥坂(トサカ)寺の河内六寺に順次立ち寄っている。
 こうしたことから、同寺は国家の手厚い保護を受け、天平神護元(765)年には封戸50戸が寄進され、貞観5(863)年には修理料として新銭(饒益神宝)20貫文・鉄50挺が施入され、三年後には当時の河内守であった菅原豊持が「修理知識仏像別当」に任命されている。
 長元3(1030)年には関白藤原頼通も同寺に参詣するなど、広く人々の信仰を集めていたが次第に衰退、『扶桑略記』には応徳3(1086)年に建物が倒壊して6丈の観音像が破壊された記事がある。
 以後、知識寺は荒廃し、鎌倉時代に源頼朝の命によって太平寺に統合されたと伝えられている。
 知識寺の塔頭(タッチュウ)だったと推定される曹洞宗天冠山知識寺中門観音寺が法灯を継いでいる。
 柏原市歴史資料館に復元模型がある。
 「知識寺址」の石碑はカタシモワインフード貯蔵庫〔登録文化財〕のあるワイン工場の前に建つ。

+清浄泉
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73136206&comm_id=398257
+石神社のくす
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=73130586&comm_id=320240

コメント(2)

曹洞宗天冠山知識寺中門観音寺とワインフード前の石碑です。

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