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史跡コミュの札幌村・大友亀太郎関係歴史資料及び史跡

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 北海道札幌市東区北13条東16丁目2ー6

 1987年02月20日、札幌市が史跡・有形文化財に指定。

 この場所は、慶応3(1867)年に「札幌開拓の祖」と称される幕臣大友亀太郎(1834〜97)役宅が建設された場所である。
 亀太郎は相模国小田原藩領の農民として生まれたが、幼い頃から貧しい環境の中勉学に勤しみ、隻眼の身でありながら学識を深めて、特に算術を得意とした。22歳の時、二宮尊徳の門下生となって、当時報徳仕法と呼ばれた農村復興政策を学んだ。
 安政5(1858)年、亀太郎は領土保全を目的とする幕府の開拓政策に則って蝦夷地に渡り、箱館奉行所より箱館在木古内村開墾場取扱という役職に任命された。ここで後の渡島国上磯郡及び亀田郡(現;木古内町・七飯町)の開墾に従事し、約100haに上る田畑の土地開発と48戸の農家の入植を8年間かけて成し遂げた。
 慶応2(1866)初頭、亀太郎は箱館奉行所へ石狩原野の開拓など蝦夷地開墾について纏めた計画書を提出、蝦夷地開拓掛に任命されて、同年4月に同行者と共に鬱蒼たる原生林が広がっていた後の石狩国札幌郡(現;札幌市東区)へ乗り込んだ。
 この地は、松前藩によって知行地の一つであるナイホウ場所が開かれアイヌ人との交易が行われていた場所で、蝦夷島の中央部に当たる上、広大な平野が広がっているため、近藤重蔵等の北方政策の立案者達の多くが蝦夷地の行政拠点とすべきだと中心を置くべきだと提唱、安政年間(1854〜60)には明珠院日現によって日蓮宗妙見山本龍寺が建立されて、徐々に和人の入植が進められていた。
 亀太郎は、フシコサッポロ川(現;伏古川)の上流周辺地域を、幕府による援助や保護の下に農民を入植させた農場を指す御手作場(オテサクバ)として定め、道路や橋等のインフラ建設工事に着手した。当時最新鋭の技術を駆使して整備が行われたこの工事の中には、約4kmに渡る用排水路の建設計画が含まれていた。これが、後に創成川の土台となる「大友堀」の前身である。亀太郎は現在の石狩陸橋の北東から当時の札幌村役場の裏側へ水路を造り、伏古川まで通じるよう指導した。
 亀太郎の役宅が御手作場に建設された慶応3(1867)年には、一帯は札幌元村と命名され、大友堀も竣工、用排水路のみならず、運河機能も担う事となった。大友堀工事は、当時の金額にして総工費およそ3000両、工事に従事した人数は450名に上った。周囲から「百万両の大工事」とも呼ばれたこの工事に投入された資本には、亀太郎が神奈川県で二宮尊徳に学んだ報徳仕法が取り入れられており、北海道における産業育成も目的の一つであった。また、未開拓の土地に用排水路・運河が設けられた事で、札幌に於ける街造りの起点を作る事となった。現在もこの大友堀は、創成川の一部分として残されている。
 亀太郎の役宅は、フシコサッポロ川にも近く、石狩方面から訪れる船便に対して便利な土地柄であり、当時この場所周辺には、穀物入倉・鍛冶小屋・板倉等が位置していた。札幌は戊辰戦争の戦火も免れたため、本土からの入植者も増加、土地の開発は拡大の一途を辿った。また亀太郎は、慶応4(1868)年に役宅近くにある本龍寺の境内に妙見堂を建立している。
 明治2(1869)年、函館に開拓使が開設されると、亀太郎は兵部省出張所石狩国開墾掛、その後開拓使使掌に任命されたが、翌明治3(1870)年に亀太郎は札幌を去り故郷である神奈川県小田原市へと戻ってしまった。これは幕臣であった亀太郎と薩長藩閥政府との間に意見の相違があったためと推定されている。亀太郎は故郷で明治14(1881)年から神奈川県議会議員を務めている。
 明治4(1871)年5月、開拓使が函館から札幌に本拠を遷し、札幌開拓使庁が設立されると、旧亀太郎役宅は現札幌市中央区北1条西1丁目当たりへ移築された。また、この際、札幌元村は札幌新村と合併して札幌村となり、大小多くの河川や肥沃な土地に恵まれた地域一帯では、札幌農学校や開拓使から配布された種子を元にして各種新形態農業も行なわれ、特に玉葱耕作では名品種「関札幌黄」が生み出された。なお、札幌開拓使庁は同年9月に開拓使札幌本庁と改称されている。
 明治15(1882)年2月に開拓使は廃止され、北海道が三県に分割されると、札幌には札幌県庁が置かれたが、明治19(1886)年1月に三県が統合されると北海道庁所在地となった。
 明治43(1910)年に札幌村は、道庁一帯の札幌区へ合併され、大正11(1922)年に札幌市となった。 
 昭和52(1977)年4月、亀太郎や当時栽培が盛んであった玉葱を中心に、郷土史を語り継いで行く目的で、亀太郎役宅跡に札幌村郷土記念館が開設され、昭和53(1978)年11月には敷地内に札幌玉葱記念碑が建立された。
 昭和61(1986)年5月に造られた大友亀太郎像が創成川付近に建てられたが、平成17(2005)年に行われた創成川通りの整備工事に伴い、記念館敷地内に移設された。
 館内には札幌元村開拓時代の地図や、玉葱耕作に関する農具などの資料、更には神奈川県民から札幌市へ寄贈された大友亀太郎の古文書等が収められており、開拓当時の人々の生活を復元した炉端、玉葱の栽培や耕作の際使用されていた鍬や、土地の開墾に必要な耕耘(コウウン)整地用具等の農機具、ドサンコ馬の剥製等が常設展示されている。
 中でも大友亀太郎の文書には、慶応3年から30年分の入植農民や田畑の開発、それらの出納や運用等を書き綴った「蝦夷地石狩領荒地開発田畑御収納方三十ヶ年組立書上帳」、御手作場で雇われていた農民とその家族の名前や出生地・年齢・入植した月日などを記載した文書である「戸数・人別書上帳」が含まれている。これらは各奉行所や北海道開拓使へ実際に提出されていた資料である。
 玉葱関連史料には、作条・耕作・収穫・販売と、それぞれの段階に分かれた系統的史料が含まれる。
 入館は無料、開館時間は1000時から1600時となっており、毎週月曜日と祝日の翌日、並びに12月29日から1月5日までの年末年始を休刊日としている。

 札幌市文化財指定資料は以下の通り。
*大友亀太郎に関連する資料 55点
 ・大友亀太郎の遺品 4点
 ・大友亀太郎ゆかりの品 13点
 ・古文書類 38点
*玉葱に関連する資料 44種・59点
 ・耕耘整地用具 4種・4点
 ・作条・播種用具 6種・7点
 ・施肥用具 7種・7点
 ・覆土・鎮圧用具 3種・5点
 ・間引き・除草用具 5種・6点
 ・収穫・梱包用具 10種・18点
 ・販売用具・その他 9種・12点

コメント(3)

7日火曜日1600時にに行きましたが丁度閉館時間でした…。
本龍寺には札幌村創建百年記念碑、大友公園には復元された大友堀があります。

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