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史跡コミュの福昌寺跡

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 鹿児島県鹿児島市池之上町48

 1953年09月07日、鹿児島県が史跡に指定。

 曹洞宗玉竜山福昌寺は、応永元(1394)年、薩摩・大隅守護島津氏第7代当主島津元久が一族出身の僧である石屋真梁を開山として招いて建立した寺院で、その後代々の島津氏当主の墓が建てられるようになり島津本宗家の菩提寺となった。天文15(1546)年には人皇第105代後奈良天皇勅願所となっている。
 天文18(1549)年、鹿児島に来航したイエズス会最高幹部フランシスコ=ザビエルは、守護島津貴久から当寺を宿所として宛がわれて、15世住持であった忍室と親しく交流、多くの宗教談義を行なった。ザビエルは書簡で忍室の事を激賞している。
 江戸時代に描かれた『三国名勝図会』によると大伽藍を備えた南九州屈指の大寺であり、最盛期には1500人の僧侶がいたという。
 明治元(1868)年の廃仏毀釈により薩摩藩領内にある寺は殆どが破却された後も藩主菩提寺という事で特別に残っていた。しかし、最後の藩主島津忠義の妻暐姫(テルヒメ;島津斉彬の長女)が明治2(1869)年に亡くなった際、葬儀を神式で行う事になり、福昌寺も破却されてしまった。さすがに歴代藩主墓碑が破却される事は無かったが、墓碑には神号が追刻された。
 なお、この時に歴代藩主が奉納した寺宝の多くが破壊されたり行方不明となったりしたままで、鹿児島県が文化財過疎県である一因になっている。
 明治3(1870)年に長崎で浦上四番崩れと呼ばれる切支丹弾圧が断行されると、捕縛された浦上の切支丹強制収容所がこの福昌寺跡に建てられた。明治4(1871)年の廃藩置県で鹿児島県令となった大山綱良は切支丹に対して人道的な扱いをしたため、明治10(1877)年の西南戦争に連座して綱良が処刑された際、この浦上の切支丹が葬儀を行なっている。
 明治6(1873)年にキリスト教信仰が公認されて強制収用所が撤去され、廃仏毀釈も収束していたため、有志が福昌寺を跡地に再建しようとしたが諸事情により許可されず、明治31(1898)年、現在の薩摩川内市に後裔寺院に当たる福昌寺が建立された。
 結局、跡地には鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校(現鹿児島市立鹿児島玉龍中・高等学校)が建てられ、現在は歴代島津氏当主の墓地群・一部の藩士の墓・歴代住持墓・強制収容中に死亡した切支丹墓のみが残っている。

◆城下町鹿児島
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=12504694&comm_id=194642
+鶴丸城跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=67133302&comm_id=398257

コメント(8)

左;第6代師久(薩摩守護)
中;第6代氏久(大隅守護)
右;奥;第10代立久 手前;第9代忠国
左;第11代忠昌
中;奥から第14代勝久・第13代忠隆・第12代忠治
右;奥から第16代義久・第15代貴久
左;奥から第17代参議義弘・第7代元久・第8代久豊
中;第21代吉貴
右;奥から第18代中納言家久・第19代光久・第20代綱豊
左;第22代継豊
中;奥;第24代重年 手前;第25代従三位重豪
右;第23代宗信
左;第27代斉興
中;第26代斉宣
右;第28代斉彬
左;左大臣島津久光公爵
中;横山安武(1843〜70) 初代文部大臣森有礼子爵の兄で、時弊10箇条を挙げた書を集議院門扉に公示し、津軽藩邸前で屠腹して果てた。
右;第15世住持忍室文勝和尚

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