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史跡コミュの三瀬砦跡

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 三重県多気郡大台町下三瀬字川之上

 1975年年03月27日、三重県が史跡に指定。

 伊勢国司北畠氏家臣三瀬氏の居城。下三瀬城と呼ばれる。
 旧三瀬村と旧下三瀬との境界を流れる大谷川が、宮川本流に合流する嘴状の突端に位置し、南・西・北の三方が断崖状となる軍事的にも要害の地である。中心部は小規模で館跡に近いが、周囲に土塁を巡らす室町期の地侍の城砦の面影をよく残している。城砦の範囲は約2500?。
 城砦は大きく東西二つの郭に分かれ、さらに西に堀切で画された小郭がある。
郭の周囲には高さ約3mの土塁があり、東側の方形の郭は土塁の内側でおよそ20m×14mあり、井戸跡も残る。東の郭の東西と北面の一部に石垣や空堀があった。
 当地は城砦の北側を通る旧熊野街道の宿場で、宮川の渡しや舟運もあり、さらに湯谷・相津などの峠を越え飯高・一志・吉野に通じる交通の要衝の地でもあり、軍事的にも経済的にも重要な場所であった。
 この城の城主と伝えられる三瀬氏は北畠氏の家臣としてこの地を治め、永禄12(1569)年の大河内城合戦でも三瀬左京進が活躍した。
 そこで、伊勢国司家第8代当主の権中納言北畠具教(トモノリ)は織田信長と講和した後、忠臣の三瀬左京進を頼って三瀬砦と宮川を挟んで向かい合う三瀬館に隠居したが、一説には信長の命で具教を殺害した長野左京進は三瀬左京進と同一人物だとも言われる。
 当城跡の北方の慶雲寺は三瀬氏の菩提寺と伝えられ、三瀬氏の位牌や三瀬氏最後の武将とされる三瀬左京祐の木像が安置されている。
 元和元(1515)年の一国一城令で廃城になったと言われ、石垣は明治初期に取り外され、空堀も徐々に埋まってはいるが、保存状態は良好である。
 奧の土塁上の平坦な高台には武士の守護神でもある八幡社がまつられ、毎年3月には地元で祭事が行われている。

*三瀬谷北畠氏遺跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=65250443&comm_id=159736
+北畠具教三瀬館跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=65244892&comment_count=0&comm_id=398257  

コメント(5)

左;堀の役割を果たした大谷川
中;空堀
右;東曲輪虎口
左;東曲輪 井戸
中;東曲輪 八幡神社 祭神;応神天皇他
右;西曲輪虎口
西曲輪からの眺望です。

左;宮川下流
中;宮川上流
右;八幡山

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