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史跡コミュの北畠顕家墓

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 大阪府大阪市阿倍野区王子町3丁目

 1940年05月22日、大阪府が史跡に指定。

 北畠顕家は村上源氏の一門で大覚寺統の最高幹部であった北畠親房の長男として文保2(1318)年に京都で生まれた。
 父親房は後醍醐天皇の皇子世良(ヨヨシ)親王の乳人を委ねられていたが、元徳2(1330)年に親王が急死したため出家、それに代わって顕家は翌年14歳で参議兼左近衛中将に補任され公卿に列する事となった。
 元弘3(1333)年、後醍醐天皇が新政を開始すると陸奥守も兼ね、翌建武元(1334)年、父親房と共に後醍醐帝皇子の義良(ノリヨシ)親王を奉じて陸奥国府の多賀城へ下向、成良(ナリヨシ)親王を奉じて鎌倉に拠る足利義詮(ヨシアキラ)・直義を北方から牽制する役割を担った。
 建武2(1335)年、鎌倉に入った足利尊氏が朝廷に反旗を翻し京都に迫ったため、鎮守府将軍を兼任する事となった18歳の顕家は義良親王を奉じて父と共にこれを追撃、足利義詮を一蹴して鎌倉を攻略した後、京都に突入して尊氏を西国へ駆逐する事に成功した。
 建武3(1336)年3月、その功で権中納言に叙され、足利方掃討のため義良親王を奉じて再び陸奥へ下向した。今回は父親房は同行しなかった。なお、同年8月には東上した足利尊氏が京都を制圧し光明天皇を擁立して新政権を樹立、後醍醐天皇は12月に吉野に逃れて南北朝時代が幕を開けている。
 延元2(1337)年、足利方の関東執事兼奥州総大将斯波家長によって国府多賀城を攻略され、義良親王を奉じて標高825mの霊山(リョウゼン)に拠ったが、同年8月、顕家は京都奪回のため再び義良親王を奉じて西上を開始、12月に一気に鎌倉を攻略して斯波家長を敗死させ、足利義詮を逐電させた。延元3(1338)年に入ると美濃国青野原の戦でも足利方に勝利したものの、兵力の減少や疲弊により京都奪回を諦めて伊勢に転戦、次いで伊賀に進出した。以後も奈良などを中心に足利政権執事高師直の大軍を相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが、遂に5月22日、追い詰められて戦死した。享年21。
 『太平記』では顕家戦死の地は摂津国阿部野とされているため、享保年間(1716〜35)に並川誠所の提唱によって阿部野に墓が立てられたものである。墓の西方には明治時代に親房・顕家親子を祭る阿部野神社も創建され、別格官幣社に列している。
 しかし、父親房の著書『神皇正統記』では顕家戦死の地は和泉国石津とされ、他の一次史料でもそれが確認されている。

コメント(4)

 地元の人の話によると、この一帯は米軍の空襲を免れたそうです。

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