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史跡コミュの和歌山城跡

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 和歌山県和歌山市一番丁

 1931年03月30日指定

 和歌山城は天正13(1585)年に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に紀伊・和泉64万石を与えた際に、秀吉自身が虎伏山を城地に選定し、縄張りを行って建設した平山城です。なお、秀長は同年の四国平定の功績で大和も加増され116万石の大大名になっています。
 和歌山城は築城の名手藤堂高虎が普請奉行となったため僅か1年で完成、秀長は桑山重晴に3万石を与えて城代に据えました。文禄4(1595)年に秀長の子秀保の死によって大和豊臣家が断絶すると、重晴は秀吉直臣となって城代を続けます。文禄5(1596)年に重晴が死去すると、孫の一晴が城代を継ぎました。
 慶長5(1600)年の関ヶ原の戦で東軍に属した桑山一晴は正式に紀伊和歌山4万石の藩主となりますが、翌年、大和布施1万6000石に転封となり、浅野幸長が37万6千石を与えられて紀州藩主となりました。幸長は慶長10(1605)年頃、下見板張りの黒天守を建築しています。
 元和5年(1619年)、浅野長晟(ナガアキラ)が広島42万6000石に転封され、徳川家康の十男・頼宣が55万5000石で入封、御三家の紀州徳川家が成立しました。
 頼宣は元和7(1621)年から城の大改修と城下町の拡張を開始したため、3代将軍家光から謀反の嫌疑をかけられ、外堀の構築は中途で止められてしまいました。
 和歌山城は再三火難に遭っており、明暦元(1655)年、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火して西の丸・二の丸に延焼、文化10(1813)年にも西の丸大奥より出火し西の丸御殿が全焼しています。
 さらに、弘化3(1846)年7月26日には天守曲輪に落雷があり、大小天守など御殿を除く本丸の主要建造物が全焼してしまいました。当時の武家諸法度では天守再建は禁止されていたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、嘉永2(1850)年、大小天守等が再建されました。その際、五層大天守の案も出されたが、幕府への遠慮と財政難のため、下見板張りの黒天守から漆喰の白亜天守へ変更するに留まっています。
 明治4(1871)年の廃藩置県により廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築されます。二の丸御殿は、明治18(1885)年に大阪城へ移築され、昭和6(1931)年から大阪市迎賓館として使用されていましたが、昭和22(1947)年に失火により焼失してしまいました。
 昭和10(1935)年には天守など11棟が国宝に指定されましたが、昭和20(1945)年7月9日のアメリカ軍による和歌山大空襲により天守などの指定建造物11棟が全て焼失してしまいました。
 昭和33(1958)年に天守は鉄筋コンクリートにより再建されています。
 なお、消失を免れていた岡口門は重要文化財、追廻門は和歌山市指定文化財、紅葉渓庭園は名勝に指定されており、大手門・御橋廊下等も再建されています。

*和歌山城西之丸庭園(紅葉溪庭園)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=2474610
+一の橋の樟樹
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29629646&comm_id=320240

コメント(17)

先日、行って来ました。

左;外堀(市堀川)
中;内堀と御橋廊下(西の丸と二の丸を結ぶ)
右;内堀と花見舟
左;大手門
中;岡口門〔重要文化財〕
右;追廻門〔和歌山市指定文化財〕
左;勘定門跡
中;岡中御門跡
右;本丸一之門跡
左;二之御門(楠門)
中;巽櫓
右;二之御門櫓
左;本丸埋門(ウズミモン) 落城時に備えた秘密の抜け穴
中;松の丸七福庭園
右;御橋廊下
5日月曜日に紅葉渓庭園に行って来ました。紅葉が見頃で綺麗でした。
紅葉渓庭園の鳶魚閣(エンギョカク)です。
二の丸庭園の黄葉や山茶花も綺麗でした。
御橋廊下内部は靴を脱いで通ります。窓からの景色も美しかったです。
城内にある和歌山県護国神社です。参道からは小天守閣が良く見えます。
左;追廻門[和歌山市指定文化財]
中;砂の丸高石垣
右;西堀
南堀跡の庭園です。黄葉が見事でした。
南堀跡庭園と岡口門[重要文化財]です。 

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