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史跡コミュの多賀城跡 附;寺跡

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 宮城県多賀城市市川・高崎・新西久保・西久保・金堀・五万崎・六月坂・浮島・大代・山王

 1922年10月12日、史跡に指定。
 1966年04月11日、特別史跡に指定

 陸奥国国府・鎮守府が置かれた城柵。現在、多賀城跡内の覆堂の中に立つ多賀城碑〔重要文化財〕によれば、神亀元(724)年、鎮守府将軍大野東人(オオノノアヅマビト)が築城したとされる。宝亀11(780)年の伊治呰麻呂(コレハリノアザマロ)の乱で一時焼失したが、再建された。延暦21(802)年に征夷大将軍坂上田村麻呂の蝦夷征討の際に鎮守府は胆沢城(イサワジョウ;現岩手県奥州市)へ遷ったが、国府は多賀城に留まり後方兵站基地としての役割を担った。
 前九年の役(1051〜62)や後三年の役(1083〜87)においても軍事的拠点として機能し、後三年の役〜文治5(1189)年の間は奥州藤原氏の支配下に置かれた。
 建武元(1334)年、後醍醐天皇の建武の新政において陸奥守に任じられた北畠顕家、父の北畠親房らが義良(ノリヨシ)親王(後の後村上天皇)を奉じて多賀城を拠点に東北経営を行ったが、顕家は延元2(1337)年に霊山(リョウゼン)へ国府を移転、以後は陸奥国の行政拠点としての機能を喪失した。
 その後、室町時代には『安永風土記書上』によると浮嶋太夫が「館屋敷」を建てて居住していたとされ、その際に古代の地形が改変されたものと思われる。
 昭和36(1961)年〜40(1965)年の発掘調査の結果、城跡の中央部の通称内城跡とよばれている地域と、多賀城に伴う考えられる寺跡で、類例まれな諸遺構が検出された。ことに内城跡は、正殿跡・後殿跡と4棟の脇殿跡等を備えており、朝堂院的配置をとっていることは興味深い。
 附(ツケタリ)として指定されている寺跡においては、僧坊・東倉・中門・南大門等の跡が検出されている。

コメント(4)

 大震災で一部の基壇のひびが拡大した模様です。
2月下旬に多賀城を訪れました。
この数日前には平城京跡を近鉄車窓に眺めたので、感慨深いものがありました。

その後、当地が大きな地震に襲われるとは思いもよらなかったです。
早期の復旧をお祈りしたいと思います。
多賀城・政庁あとから南方向を眺めると、そのはるかなる先に平城京があるんだなあ〜と感動的でした。
よい天気で気温もまずまず上昇した昼下がりです。
貞観地震の時もここまで津波が来たらしいですね。

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