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史跡コミュの浮世絵師北尾重光の墓

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 群馬県館林市栄町1-8

 1987年08月07日、館林市が史跡に指定。

 https://www.google.co.jp/maps/@36.2492824,139.5275006,19z?entry=ttu

 浄土真宗大谷派仏光山太子院覚応寺境内にあります。
 北尾重光(1814〜83)は江戸出身で、北尾派の浮世絵を学んで北尾姓を名乗り、溪齋(ケイサイ)と号して法橋(ホウキョウ)の位を授けられています。
 ところが、伝説によると、天保9(1838)年に上半身半裸で髪を洗う美人画を描いたところ、誤って筆を落とし、絵の乳房の下を汚してしまいました。そこで機転を利かせて、この汚れを黒子(ホクロ)として描き直しましたが、この美人画の女性が12代将軍徳川家慶に仕える奥女中に酷似し、しかも不思議な事に、その女性も絵と同じ場所に黒子があったため、その画を見た幕府の役人は、重光が将軍家を愚弄したと見做して江戸払いの刑に処してしまいました。
 そこで、重光は井上正春が藩主を務める館林へ移住し、館林城下の田町に居を構え、幟や絵馬を描く事を生業とする様になりました。彼の描いた絵馬は館林を中心に、館林藩領であった埼玉県、栃木県の一部にも及ぶ広い地域の寺社に奉納され、その数は300点にも及ぶとされています。
 重光は明治16(1883)年11月16日に死去し、明治6(1873)年に死去していた妻の久能と同じ墓に葬られました。息子の重輝も浮世絵師となっています。
 覚応寺の前身は、15世紀後半頃、鎌倉幕府御家人佐々木盛綱の末裔と称する越前国出身の林通(リンツウ)が上野国邑楽(オウラ)郡羽附村に開山した願成寺(ガンジョウジ)です。
 寛文・延宝年間(1661〜81)に館林藩主徳川綱吉の城代家老金田正勝が林通の孫の林易(リンエキ)に帰依したため、正勝の協力で現在地に移転整備され、その際に覚応寺に改称しました。そして正勝の要請によって綱吉は30石石の寺領を当寺に与えました。

◎城下町館林
 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=194642&id=100327788

コメント(1)

 5月4日木曜日に覚応寺を訪れました。

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