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映画人・西周成コミュの映画史の教訓(4)

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 映画が国際市場向けの商品として製作されるようになったのは、その誕生後すぐのことだった。リュミエール兄弟は、1895年12月28日のパリにおける最初の商業的上映が成功すると、翌年にはシネマトグラフを携えてヨーロッパ各国を巡り、ロシアやアメリカにまで遠征した。ロシアにはニージニーノヴゴロドという、古くから定期市の開かれていた地方都市があるが、そこでも1896年夏に公開された記録がある。
 これに続いて、1900年代前半まで、パテ社のニュース映画やジョルジュ・メリエスの夢幻劇映画が世界各国に輸出された。更に、1910年までにイギリスのへップワース社による「追っかけ映画」、フランスのエクレール社による探偵もの「ニック・カーター」シリーズが世界中で人気を得た。1910年代に入ると早くも映画スター時代が予感され、フランスのマックス・ランデー、デンマークのアスタ・ニールセンが主にヨーロッパ各国で大人気を博した。
 これらの映画の多くは日本でも公開された。アメリカ映画、イタリア映画の「歴史大作」も既に1910年以前に国際的商品として製作された。「ベン・ハー」(07)や「ポンペイ最後の日」(08)がその先駆けで、これらは以後観客が徹底的に飽きるまで何度も映画化されている。

 日本映画は、1910年代からようやくトリック撮影を使った剣戟映画を作り始め、後の大手映画会社の一つ日活も創立されたが、映画を外国に輸出しようというどころではなかった。弁士によって何もかも説明されていた日本映画は、据えっぱなしのカメラで延々と一場面を撮影する形が多かった。「スター主義」といっても歌舞伎役者のそれで、1920年代前半まではで時代ものにおける女優の採用すら一般的でなかった。これでは到底世界に通用する商品になりえなかった。
 日本映画は、幸か不幸か、ある時期まで国内市場だけで需給のバランスが取れていたようだ。佐藤忠男の『日本映画史』によると、1912年の首都圏における平均的な年間映画鑑賞回数は、一人当たり5.5回にも達した。同地域における当時44の劇場に対して、十分採算の取れる客の入りだと言わねばならない。

 1920年代末から1930年代初頭にかけての世界的な不況、そしてトーキーの浸透による一時的な設備投資の増大と独立プロの減少の時期にも、大都市圏での映画興行は日本映画にとってそれほど不利ではなかった。田中純一郎の『日本映画発達史』によると、関東大震災によって東京のスタジオが打撃を受けた1923年でさえ、公開された外国映画と日本映画の比率は6:5程度でしかなかった。
 結局、国内で自足していたサイレント期の日本映画は、村田実や衣笠貞之助といった芸術家肌の作家によるヨーロッパへの自作紹介の試みを除けば、注目すべき海外進出の例はない。坂東妻三郎プロダクションなど、ユニヴァーサル社の方から提携をもちかけられてアメリカのスタッフや機材を使い、フィルムを輸出できるという好機に恵まれながら、フィート当たり幾らで売れるという契約だからというので金目当てに冗長な作品ばかり作った結果、相手から提携を打ち切られている。
 日本映画はトーキーの普及とともに大資本集約型の産業に変貌していったが、この同じ時期に軍国主義が台頭し、日本は大陸侵略によって一挙に世界戦争への道を歩みはじめた。世界市場を相手に国際的商品としての映画を作るという実践を一度も経験しないまま、国策映画の時代になっただった。

 戦後、アメリカ軍による占領時代や安保論争、高度成長期への突入を経て、日本映画は外の世界を忘れてしまったかのようになった。日本映画の自閉性は1920年代以上になった。黒澤明が『羅生門』でヴェネチア映画祭グランプリを取ろうが、アラン・レネが日本ロケで『二十四時間の情事』を撮ろうが、世界戦略に関して基本的に何も変わらなかったというのは驚くべきことである。
 この間、ハリウッド映画は一貫して映画を世界中に輸出し続けた。ソ連を始めとする共産圏や、フランスを中心とする頑固な芸術映画へのこだわりを持つヨーロッパ諸国は、検閲や関税によってハリウッド映画の輸入制限を行った。日本は娼婦のように何でも受け入れた。
 その結果が、1980年代以降の日本映画の無残な敗退である。経験則だけに頼り、国内市場でのヒットが世界でも成功をもたらすと錯覚する非論理的な思考形態が、業界(とくにフジを始めとするテレビ業界)に蔓延した。まさに、映画史に何も学ばなかったことのつけが回って来たのである。
 

コメント(3)

Rublevさん、こんにちは。興味深く、このシリーズを拝読しております。

“〜1980年代以降の日本映画の無残な敗退〜”について、具体的な検証例をお訊きしてみたいものです。実のところ、ここ何十年かの商業ベースでの国内映画の殆どは、“世界市場”が念頭にすらなく作られてきたと感じるのですが、どうも北野武やジャパニメーションが賞を取り出してきてから、だんだん色気づいてきたのではないか?なんて思ったりします。

フジといえば、最近、『踊る大走査線』が韓国等でコケた話も聴きますが、実はこういう“国内ヒット作品を輸出しよう”という動きは、むしろ最近の傾向で、つい十数年前までは、“国内(商業)映画は、外国で認められるハズがない”と、作ってる方も承知で海外に消極的だったのではないか、、と、(個人的独断ですが)推測したりするものです。映画に限らず、文化全体の状況なのかもしれませんが、“輸出できるのはウォ−クマンと車だけだ”と言ったり、あるいは“文化も国際的になるためには英語を使わなければならない”とか、かなり自嘲気味に言われてた時期を経て、今度はその反動のような現象が起きているのが現在なのでは、と。
そこには、根本的な検証や分析もないまま、まさに“非論理的な思考形態”が日本全国を覆っているのだと思われます。強気になっても弱気になっても、根本は変わらない精神を“島国根性”と言うのかもしれませんが、、

押井守が、海外で賞賛されながらも“映画は基本的にドメスティックなものである”と何かでコメントしていたのも、あるいはこの辺りを差していたのかもしれませんね。

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