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映画人・西周成コミュの映画史の教訓(3)

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 サイレント時代から、劇映画に舞台経験のない人間が主演することは珍しくなかった。サイレント時代の映画スターの中には、チャップリンや彼が師と見なしたフランスのマックス・ランデーのように舞台でコメディアンとして働いた経験のある人もいたし、アスタ・ニールセンのように本格的な劇場で演じていた人もいる。日本の初期映画では歌舞伎俳優が子供達の人気者になったりもした。
 しかし、トマス・H・インスやD.W.グリフィスによってアメリカで発達したクロースアップと編集の技術は、持続的な演技を必要としない素人俳優に映画スターへの道を開いた。グリフィスの映画で有名なリリアン・ギッシュなどもその一例である。革命前、1910年代のロシアでは、それまで普通の主婦だったヴェラ・ハロードナヤがたちまち人気スターとなった。グリフィスの場合、自分で選んだ素人を演技力のある映画スターにまで養成していた。ギッシュの回想によると、彼の演技指導はロシアの舞台演出家・理論家のスタニスラフスキーを想起させるものだったという。
 
 サイレント時代の俳優の演技は、俳優自身だけでなく、カメラマンや映画作家の創意工夫によっても洗練されていった。台詞は普通、字幕による必要最低限のものだけだったので、スクリーンに現れる人物がその身振りと相貌によって多くのことを伝えねばならなかった。照明、編集、カメラワークは彼らの相貌や身振りを強調しつつ、彼らが背景と一体になって登場人物の感情を雄弁に表現する手助けをした。この傾向の頂点にある作品の一つが、ムルナウの『最後の人』である。
 ソ連の「モンタージュ」派、特にセルゲイ・エイゼンシュテインは、サイレント時代には「スター」のいない映画を作っていた。同時代のレフ・クレショフやフセヴォロド・プドフキンが自分の方法による映画俳優の養成を行ったりモスクワ芸術座の俳優を採用したのとは対照的に、サイレント期のエイゼンシュテインは徹底して「ティパージュ」によって出演者を決定していた。例えば、『戦艦ポチョムキン』で上級士官を演じたのは、後に監督となる彼の助手グレゴリ−・アレクサンドロフだった。エイゼンシュテインの映画は、サイレント時代の「映像至上主義」とでも呼べる傾向の最たるものである。
 
 いわゆる「スター・システム」は、アメリカ映画の世界制覇と前後して確立された。第一次大戦から戦後にかけてヨーロッパで「アメリカの恋人」と呼ばれて人気を博したメアリー・ピックフォードやその夫でもあったダグラス・フェアバンクスが当時の「スター」の代表的存在である。彼らのギャラは数年で天文学的な上昇率を示したが、役柄のイメージが固定化したために同じタイプの役を演じつづけることでしか興業的に成功しないという、俳優としての短所も背負い込むことになった。実際、彼らの俳優生命はサイレント期の終焉以前にほとんど終わっていた。
 
 トーキーに関して言及したように、日本では歌舞伎を初めとする語り物の伝統が、映画的表現の発達を妨げた部分があった。俳優術に関しても同様である。歌舞伎の女形が映画でも女性を演じていたたために職業的な女優の登場が欧米よりはるかに遅れ、歌舞伎役者から出た人気男優達も、型にはまった演技からなかなか抜け出すことができなかった。日本映画の草創期にこの状況を打破したのが、インスのもとで映画制作を学んだトーマス栗原や欧米の映画に詳しい帰山教正、小山内薫と共同でスタニスラフスキー流の演技と欧米映画の映像技法を取り入れた村田実といった人々だった。彼らの努力もあって、1920年代前半には映画で歌舞伎の女形を使う習慣が廃れた。
 日本における歌舞伎役者のスター・システムには、肯定的な側面があったことも否めない。1920年代末から30年代初め、まだ二十代だった山中貞雄、稲垣浩、伊丹万作が監督或いは脚本家としてデビューし、批評家にも高く評価された背景には、彼らを採用した歌舞伎役者達の独立プロダクションにおける、低予算ながら自由な創作環境があった。ボスである嵐寛寿郎や片岡千恵蔵らが、彼ら才能ある若者に脚色や演出上の自由を許したからである。一方で、『マダムと女房』などに見られるように、この頃の日本映画にはアメリカ文化から影響された作品も多く、特にドイツからの移民であるエルンスト・ルビッチの映画が小津安二郎らに多大な影響を与えた。細かいカット割と個々のショットにおける構図の端正さを追究する過程で、小津の演技指導はヒッチコックのそれに似て、人形を操るかのようなものになってゆく。

 トーキーの到来とほぼ時期を同じくして、世界の主要国で映画産業の中央集権化、大規模化が起きた。日本やドイツでは、国策としてそれが行われ、サイレント時代ほどの自由は次第に許されなくなった。俳優達も国策に沿った役柄を演じることを強いられてゆく。ドイツとの合作『新しき土』(アーノルド・ファンク、伊丹万作共同監督)において原節子が演じた人物などは、スターリン時代のソ連におけるプロパガンダ映画の主人公達と同様、不自然な「健康さ」「健気さ」を見せている。
 ユダヤ人迫害政策によって主要な映画人を亡命で失ったドイツと違って、この時代にもまだ日本映画における俳優の多様性は失われていなかった。清水宏は、素人であろうと職業俳優であろうと「演技をさせない」主義を通したし、溝口健二のワンシーン=ワンショット主義は『元禄忠臣蔵』において、時代劇における職業俳優の演技を最高のテンションに高めてみせた。リアリズム的な描写は、長塚節の同名小説に基づく内田吐夢の『土』において大きな成果を上げていたようだ。
 
 戦後になって、「スター・システム」はいよいよハリウッド映画による文化侵略の一環として機能し始める。ジェームス・ディ−ン、マリリン・モンロー、オードリー・ヘップバーンら、日本のオールド・ファン(団塊の世代)の永遠のアイドル達が登場した。アメリカ人の中でも良識ある人々は、正当にも、サイレント時代や1930年代までの映画の方が精神的にまともだったと考えた。戦後のハリウッド映画界を批判的に描いたビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』(1950)には、サイレント時代の名優・名監督達が出演している。
 素人を起用して社会的現実を活写したイタリアのネオ・レアリスモの映画も、ハリウッド映画がもたらした俗物的な傾向の浸透を食い止めることはできなかった。日本映画では50年代までの黒澤明、木下恵介、今井正らの作品に多少その影響が見られるに過ぎない。新藤兼人が独立プロで制作した『裸の島』には、ネオ・レアリスモの影響があるように思われるが、モスクワ映画祭におけるグランプリ受賞がなければ商業的に失敗していたであろう。

 ヨーロッパ諸国は、戦前から、そして戦後は特に、ハリウッド映画を目の敵にし続けていた。戦前に実現していたヴェネツィア映画祭に続き、カンヌ、ベルリンでも国際映画祭が発足し、以後現在に至るまで映画芸術の最強の牙城として活動している。モスクワ映画祭も、フェリーニの『81/2』にグランプリを与えることで冷戦時のイデオロギー的な偏見を吹き飛ばしてみせた。これらヨーロッパの映画祭では「スター・システム」はまったく作品の評価基準にならない。有名な俳優が出ていようが素人しか出演していなかろうが、映画自体の表現とテーマが新しければ正当に評価される。ロベール・ブレッソンの一連の作品、エルマンノ・オルミの『木靴の樹』、ソクーロフやダルデンヌ兄弟の一連の作品は、これらの映画祭での上映や受賞のお陰で世界配給された。
 このようにして、映画芸術の発祥地にして最も頑固な支持者たるヨーロッパ人達のお陰で、ハリウッド映画や世界のテレビドラマにおける「スター主義」の浸透は映画芸術を根底から覆すに至ることなく、現在に至っている。
  

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