ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

Bernard Tschumiコミュの建築における「侵犯」について

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
Tschumiは建築と断絶の中でバタイユの言葉を引用する

「侵犯は、通常観察される限界の向こう側への扉を開くが、一方でその限界は維持する。侵犯はこの卑俗な世界を補うものであり、その限界を超えるが、限界を破壊することがないのだ。」
ジョルジョ・バタイユ「エロティシズム」より
建築と断絶 p.67

 侵犯とは、日常生活を構成する禁止/秩序を「犯す」ことであり、「女性」というのは「性のコントロール」による統治という点からも「禁止」と「侵犯」の結節点であり、その禁止が崩れさる感覚がエロティシズムであると、大雑把に言えばバタイユは言っていると思われる。

 建築においては、その禁止/秩序とは「機能」やそれを派生させたりもする「意味」が該当するだろうし、「女性」とは建築そのものであったり、インテリアや家具や空気や、建築を構成する全てのものが該当するのではないだろうか?

 バタイユのエロティシズムが重要なのは、エロティシズムがなにかを明らかにしたと言う点よりも、それが人間の社会生活に密接に結びついており、単なる快楽ではない、という事を明らかにした事だと思われる。その中で「侵犯」というものは、社会を突き動かす力を持った運動のことである。「侵犯」があることで、ある種の均衡を保った社会と言うのを成立させられるのである。

エロティシズムを内包した社会は侵犯のみでもは成立しない。そこには、侵犯する対象である「禁止/秩序」が必ず存在する。禁止は侵犯をある意味では促進する。それは、女性のあえぎ声やしぐさが男性の行為を誘うような時に際立って明らかになるだろう。そこにある禁止は明文化された絶対的な秩序とは違い、環境の中で読み替え可能な、もしくは読み替えなくてはならない禁止/秩序である。(読み替えを失敗して男女の仲が悪くなることはよくある話しだろう。)

Tschumiがやろうとしていたことは、そのような秩序を建築によって作り上げ、そこを人間が「運動」することで、秩序を侵犯し、常に新たな秩序と主体を作り上げ続ける、そのような建築のことであり、そのようなものを建築と呼ぼうとしていたのではないだろうか?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=38468810&comm_id=1799755

空間の被験者が、体験の深みとその官能性に到達するのは、建築的なルールを認識した時だけだからだ。エロティシズムと同様、建築もまた体系と過剰を必要とするのだ。
建築と断絶 p.51

「すべては建築である」という宣言は、すべてを含む折衷主義よりはコンセプチュアル・アートとの共通点のほうが多かった。しかし、もしすべてが建築であるなら、建築はいかにしてその他すべての人間活動や、あらゆる自然現象と己を分別できるのだろうか。
p.70

エロティシズムは意識に夜構造と官能の両方に関わるのと同様に、建築のパラドックスの解決には、建築的コンセプトと同時に空間の直接体験も必要とする。建築はエロティシズムと同じ地位、機能、意味を持っているのだ。コンセプトと体験の可能/不可能の交差点において、建築は個人的世界と普遍的世界の双方のイメージとして現れる。エロティシズムもまたしかり。コンセプトが快楽に結びつく者にとって、エロティシズムは本質的に個人的だ。そしてまたそれは、本質的に普遍的でもある。というわけで、一方には感覚的な快楽があり、他者と私がある。そしてもう一方には、歴史的な探査と究極の合理性がある。
p.73

若い生命と真っ当な死、これが建築の秩序だった。
p.74

しかし死に対する苦悩は、腐敗段階だけに関わるものなのだった。なぜなら白骨は、腐る肉の持つ堪え難い側面を持っていないからだ。建築はこうした深い気持ちを反映した。〜、1965年、当時は遺棄されていたヴィラ・サヴォイを訪れた者であれば、一階の小さなサービス室の汚らしい壁,小便の匂い,なすりつけられた糞や卑猥な落書きを覚えているに違いない。予想通り、それに続く期間には、ヴィラ・サヴォイの純粋性の危機を救おうと言う長期的なキャンペーンが輪をかけて強力になり、おかげでそれはついに成功したのだった。
p.74-75
著者の私見では、―もちろん主観的な意見だがーヴィラ・サヴォイはコンクリート・ブロックから石膏が剥がれ落ちたときに、もっとも感動的だった。モダニズム運動やその支持者たちのピューリタン主義はしばしば指摘されて来たが、それが時間の経過を認めようとしない点はほとんど見過ごされて来た(ガラスや、タイルがこの運動のお好きな材料だったのもうなずけようーこれらは時間の経過を示さないからだ)。
p.77

私が主張したいのは、建築の瞬間とは、建築が同時に生でもあり死でもある瞬間、空間の体験が空間のコンセプトとなる瞬間なのだ、ということだ。建築のパラドックスにおいて建築的コンセプトと感覚的体験との矛盾は、ある一つの接点において解消される。それは腐敗の地点である。タブーや文化が常に排除し続けて来た地点だ。この隠喩としての腐敗/壊死こそが建築の存在する地点である。腐敗/壊死は感覚的歓びと理性を橋渡しする。
p.77

重要なのは、これらの矛盾した断片同士の衝突ではなく、それらの間に生じる運動である。
p.96

コメント(2)

>イタリアのタマちゃん

はじめまして、こんにちわ。
なるべく、いろんな方の意見が聞きたい、と言っている割に
やや文章が回りくどい言い回しになっているのが、あれなのですが
そのように言って頂けるとありがたいです。

>「仮想敵」

現代までは、仮想敵というものを建築と言う内側に強く求めていた。そこに近代もまた個展の延長線上にあるという事を明かしてくれているように思えます。同時に近代は仮想敵というのが、建築の外側にも強くある可能性に目覚めた時代なのだと言えるのではないでしょうか?

例えば「環境問題」だとか、例えば「住宅不足」だとか、例えば「軍事産業」だとか、例えば「防犯」や「監視」だとか、例えば「経済性」だとか

現代とは、内側が強かった「仮想敵」というものが、逆転して外側が大きな力を持つようになった、そのように捉えられると思えます。

デコンは、そのような文脈から考えると、内側のみんな(一般人)には見えない敵と戦う勇者(建築家)という印象を持たなくはないかなと、思います。(あくまで、見方がそうであるなら、という話ですが)

たぶん、建築の話だけではないと思いますが、自分の産業だけを相手にしていればよかった時代から、同時に様々なものを相手にしなくてはならない時代に突入したと言えるはずです。今まで、連続的な様式という一人を相手にしていたらから気がつかなかった、モノゴトは軌跡を描いてい連続的に進んでいるわけではない、という事に

「建築と断絶」 というタイトルの断絶とは、 まさに、現代において明確になったモノゴトの本質的な状況を表しているように思えます。例えば「環境問題」と「住宅不足」と「経済性」と「建築様式」は問題としては断絶しているが、例えば「住宅」という結節点で相互に絡み合う関係にある。住宅とは、その絡み合い方を決定する一つの手段となっているはずである。(住宅不足は日本においてはほとんど解消されてストック社会へ向かってますから、この話でしたら別の国で考えるべきだと思いますけれどもね、あくまで例と言う事で)

現在表れる秩序とは、それぞれの問題が秘めている「秩序」であり、同時にそれらが結節する点における、それらが絡み合ったときに構成される「秩序」のことだと言えないだろうか?

侵犯と秩序がセットになってない、秩序のみの世界とは閉じた監獄に象徴される、所謂「均質空間」と呼ばれる空間の事を指しているのでしょうね。ただ、均質空間とユニバーサルスペースは単純にイコールの関係とは言えないように思えるが。
侵犯する事を許さない絶対的な秩序、Tschumiが侵犯を扱うのは、それからの逃避という側面が現代において必要だ、と訴える面もあったのかな?と思います。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

Bernard Tschumi 更新情報

Bernard Tschumiのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング