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「負の遺産」を考えたい☆コミュの亡き父を偲ぶ

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昨年8月に真嘉比にて
「真木」と書かれたせっけん箱とともに遺骨が発見され
調べた結果、二人の真木さんが浮上

そこで、二人の真木さん(富山出身の方と佐賀県出身の方)の遺族の方が、
同壕に訪れ、祭壇の前でこうべを垂れ、故人を偲び祈りをささげた。

遺骨は県を通じ、今後、厚労省がDNA鑑定をする予定。

今回来県したのは、富山の方と神戸の方
「父の死を見つめなおす機会を与えてもらい感謝したい」(清次郎さん遺族)

「戦時中、二歳だったので父の記憶が全くないが、ここに来て一つの区切り
 がついた。戦争の事や沖縄戦の事を考えさせられた」(春海さん遺族)

たとえ、父でなくても手を合わせたいという思いに
心打たれました。
まだ、真嘉比が残っていてくれてよかったです

まだ、この壕では栃木県の「西田宇吉さん」の持ち物とみられる水筒と
「久我久雄さん」と思われる飯ごうの蓋と遺骨が見つかっています。
ガマフヤーの具志堅さんが情報提供を呼び掛けています。

一人でも多くご家族の元に帰れるよう祈ってます。

コメント(19)

 真嘉比(ハーフムーン)を守っていたのは独立混成15連隊第3大隊です。独立混成部隊というのが、こういう場合非常に厄介で、広範囲な地域に点在する部隊から少人数づつ抽出して集めた部隊なので出身地は全国に散らばっているかもしれません。加えてハーフムーンはシュガーローフ、ホースシューと一連の拠点の中では最後まで抵抗していた高地ですから、安謝から天久の方を守っていた独立第二大隊 小禄から加勢した海軍丸山大隊、伊藤大隊、独立混成15連隊第1〜2大隊の残存兵も合流していたと思われますので、例え遺品が残っていたとしても故人を特定するのは大変な作業だと思います。
私個人的な話しですが、34年程前に母が亡くなり、お墓は栃木県にあります。

遠過ぎることと、北九州在住の親族との縁は薄い為、お墓参りなんて10年近くしておりませんでした〓

しかし、今日はなぜかお墓参りをしたいと思い、北九州市八幡東区にある市立谷口霊園に行き、『戦災殉難者之碑』に手を合わせに行ってきました。
身元がわからずじまいの1800人程の霊が碑の下で眠っておられるようです。
☆すぎやんまさん
 故人の名前がわかっていても、その遺族に伝わらないのは
 悲しいですね・・・63年の歳月を改めて考えてしまいます
 
 絵や模型がないと頭に入ってきません泣き顔
 すごい知識ですよねわーい(嬉しい顔)
 初心者的質問ですいませんが、1部隊何人位ですか?
 その部隊は、大体同じ県出身でくくられていたのですか?
☆よりこさん
 戦災殉難者之碑は、全国各地にあるんですね
 調べたら、東京にもありました

 遠く離れたお墓にいけなくても、想いを『うーとーとー』(手を合わせる)
 するだけで充分だと
 スピリチュアルな世界の話ですが、聞いたことがありますよぴかぴか(新しい)
 その想いが大切なんですね
 お墓参り行かれるなんて素晴らしいですぴかぴか(新しい)
 
 絵や模型というのはもっともです。私はマックのお盆に敷いてある紙を裏返して何回も沖縄の地図と兵力配置図を描いておぼえました。

 知識は勉強を始めて1年弱なのでまだまだ付け焼刃状態なので自信がありませんよ。もっと勉強に励もうと思っています。

 さて、部隊の構成人数についてです。

 「部隊」というのは、一般に「連隊」を言うのですが、沖縄戦では師団をそういう名称で呼んでいました。理由はよく判りません。

  連隊は一般的に3000人から4000人は居たみたいです。内訳は、3〜4個大隊(一個大隊約900人)大隊は4〜5個中隊(中隊は190人位)中隊は4個小隊(小隊は40人)小隊は3個分隊(分隊は12人前後)です。

  ちなみに連隊を二つで旅団。旅団が二つで師団になります。

  さて、沖縄戦ではどうだったか?と言うと、キチンと法則に則っていなかったり、あるいは欠落している大隊があって、沖縄で召集してそれにあてたなんて話もざらにあります。

  上記の編成は、24師団(山部隊)ではほぼ当てはまるのですが、62師団(石部隊)だと、4個大隊で一個旅団を形成します。4個大隊なら一個連隊じゃないの?と聞かれそうですが、62師団に属する大隊は編成時(中国で)に1400人も居て通常の倍に近い人数です。これが独立混成44旅団となると、沖縄に輸送中に兵員輸送船が潜水艦に撃沈され、その殆どが海の藻屑となってしまいました。生き残って無傷のものと、負傷して退院したもので編成したので一個大隊が300人ぐらいという酷いものもあったそうです。

  さて、シュガーローフを守っていた独立混成15連隊なのですが、海没した独立混成44旅団の補充の為に千葉県で編成され空輸されたのですが、なんと沖縄到着時は1438人。これに海上輸送した380人を足すと1818人です。これに1944年10月と1945年3月の現地召集をするのですが、名簿が残っていないので誰が何人入隊したかわからないそうです。

  24師団に属する3つの連隊ではそれぞれ、10月に300人、3月に300人で600人の補充を受けます。これを当てはめて推測すると2400人位という事になります。シュガーローフの戦いでは海軍から2個大隊の応援を受けていますが、海軍ではどのような編成だったかわからないので人数はわかりませんが、約1万人(だったかな?)で小禄半島の戦闘で戦死したのが約6000人で、残りがシュガーローフと運玉森に派遣された4個大隊と生存者と考えればシュガーローフの戦いに動員された日本軍は3000〜4000人という事で、遺骨はその中の一人という計算になりそうです。

  部隊が大体同じ県出身でまとめられていたかどうかについては、そうである場合とそうでない場合があります。

  24師団の22連隊(愛媛)(32連隊(山形)89連隊(北海道)62師団は京都や敦賀という感じですが、独立混成44旅団とか独立混成15連隊の場合は、出向社員を集めて結成したような部隊なので出身地はバラバラです。
すごい人数なんですね・・・
正直、私の戦争のイメージは、アメリカ映画でよく見かける
少人数だと思ってました冷や汗
私は、愛知出身なのでちょっと気になりますね
慰霊碑でも、愛知で足が止まります涙

3000〜4000人の内の一人だなんて・・・奇跡なんですね
怖いのは、シュガーローフの戦いが繰り広げられた5月12日から19日までのおよそ一週間の期間にその殆どが戦死している事です。3000人から4000人と言うのは計算上弾きだした数字で実際の数字はわかりません。これだけの人数の日本の若者がたった一週間の間に死ぬ状況ってリアルにその場面を想像したら気が変になりそうです。
追伸 おもろまち駅の周辺ってそういう場所だし、ハーフムーンは当時の状況を今もなお残しているのでやはり、造成してしまうのは非常に残念な事ですね。ハーフムーンには恐らく数百人(一個大隊)の日本軍が居た訳ですから、地下壕は相当な数埋もれていると考えられます。
近々、ハーフムーンでの市民参加型の遺骨収集が再開されそうです

たった一週間で何千人と亡くなった場所なんですね。
前回での訪問時は、激戦地と知っていても数字の事は何にもわかっていません
でした・・・改めてすごい過酷な場所だったんだなと実感しました
この西田宇吉さんという方、私の祖父かも知れません。詳細情報はどこに問い合わせればよいでしょうか?教えていただければ幸いです。
おじいさまだと良いですね。ご家族が判明するのは本当に極々く稀です。
かーこさん西田さんと具志堅さんへの連絡よろしくお願いします。
連絡取れました。西田宇吉という方はうちの祖父しかいないようです。水筒はあるようですが、お骨がわかりません。。。厚生労働省に問い合わせしております。あったとしてもDNA鑑定をするようです。ですが、この年月が流れ、見つかること自体ありがたいことです。また動きがありましたらご報告させてください。
kerokerokeroro様
対応が出来ずに申し訳ありませんでした。
戦没者の身元が判明して本当に良かったと思います。
今はもう無くなってしまった真嘉比の丘の光景が瞼に蘇ります。
今後ともよろしくお願いします。
祖父が激戦区で散ったことをしり、誇りに思いました。近く水筒はいただける可能性があります。それだけでも供養したいと思っております。きっと故郷にかえりたくて、知らせたんでしょうね。
余談ですが、今年宇吉さんの子供が(私の父、叔母)が、沖縄の共同墓地?に行きお参りしてきました。もしもお骨が故郷に帰らないとしても、どちらにしろ再会したようです。
皆様こんばんは 本日水筒受け取りました。後日写真つきでご報告させていただきます。
祖父の件の続報です。
昨日、発掘していただいた具志堅さんと父が直接お会いして、水筒だけですが、お返しいただきました。
どうやら、ご遺体はどこにあるかいまだにわからない状態ですが、その当時祖父が持っていただろう物だけでも帰ってきたことに感激しております。
皆様ありがとうございました。
 71年を経て水筒が帰って来たのですね。感慨深いものがあります。

 アルミ製の水筒が地中で朽ちてしまったり、火炎放射の熱で溶けてしまったものを何度か見ています。 当時の塗装がそのまま残っている事は稀な事だと思います。朽ちてたまるかと言う意思が宿っている様にも感じられます。
 
 当時の兵隊は右腰に水筒を付けていた様です。雨に打たれ泥にまみれ硝煙の中をくぐり、地獄の様な光景の中を走り抜けていたのだと思います。当時きれいな水は貴重品だったと思います。この水筒を通していろんな物語があったのかもしれませんね。

 
2009年2月に撮影した真嘉比の壕の写真です。水筒が出土した壕かどうかわかりませんがこのような壕の中に残されていたのかもしれませんね。
水筒をみて奇跡的だと思いました。祖父の強い意志を感じました。

ただ、遺体の件、沖縄県、国にたらいまわしにされて、どこもわからずうやむやです。
15連団がDNA鑑定の対象になっているようですが、遺族年金を今でももらってるのに未着。。。
具志堅さんはじめ、一生懸命発掘してきた方々の意思とは程遠いと感じざるを得ない状況です。
たとえ焼いてどこかに収めたとしても、それを聞くことも出来ませんでした。
本当に残念です。

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