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苫米地英人さんコミュの博士への疑問。

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苫米地英人博士の愛読者です。


《 とてつもない未来を引き寄せる 予見力 》


この本で、初めて苫米地英人博士のスコトーマと思われる事項を発見しました。

それは後半に出て来る人間転送機の話での事です(p.151〜156)。

量子レベルで人間をスキャンして、転送先で転送先にある物質で全く同じコピーを作り、元の場所の転送機にあるオリジナルの人間を消去する、というものですが、

転送先にコピーが作られる・作られないに関わらず、
オリジナルの人間自身にとってコピーは《他人》であり、《消去》は《死》そのものですよね?この場合、転送機によるオリジナルの人間の《消去》は明らかに殺人です。

皆さんはどう思いますか?

コメント(102)

博士の話が混乱を招くのは、物理空間での転送の話と、情報空間でのコピペの話を同時にされているところだと思います。

スタートレックのたとえ話は物理空間の話であり、

博士が予見されている未来は情報空間での話です。

情報空間では情報の並列化によってオリジナルとコピーの区別をなくすことができますが、物理空間では脳の同期を行わない限り、別個の生命体となり、消去=死となってしまいます。

不老不死となる情報空間の話は、物理空間のアナロジーにはならないので、そこで混乱が起きているような気がします。
受動意識仮説は今回初めて知りましたが、

学生の頃ハマッていたマルクス主義言語学者の三浦つとむ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E3%81%A4%E3%81%A8%E3%82%80
の認識論と通じるみたいですね。
認識は脳が映し出す《像》だと言っていたと記憶しています。

この場合の認識が恐らく自己と同じでしょう。

問題は人間の主体がどこにあるかですが、
やはり像であり、苫米地博士が実在しないとおっしゃる自我だと思うのです。

これを読んでいる主体は全員、人体の脳の中に結ばれた像であるそれぞれの自我ですよね?

消去はそれにとっての死と捉えています。







Q.
>事故による消去が殺人ということであれば、
万が一このような事故が起こった場合、
元データとコピーの両方の生存を認めるような制度があれば、
転送機の使用を認めるということでよいでしょうか?

A.
事故が起こる起こらないにかかわらず、
消去は殺人だと思っています。

従って、どんな場合でもオリジナル、コピー両方とも消去しないのであれば、
転送機の使用を認めて良いと思いますが、

その場合、
転送の瞬間までの記憶が全く同じ、ある種の双生児
が突然できるという問題が生じますね。

もとより、
転送直後からの行動・記憶とも異なるので、
オリジナルとコピーが双生児のように別人である、
という事は既に述べた通りです。
その状況だったら、

転送されたコピーが使命を果たした後に消去され、
オリジナルが残るべきだと思います。

この場合、転送機・分身製造機ですね。
>でこ(ry_エロ声研究中 さん

受動意識仮説はとても興味深い仮説です。

この問題の解として、博士はA次元という考え方を提唱されているように思います。

A次元を持ち出さないとクオリアの問題を解決できず、脳と心を分けた科学の限界を超えることができません。

そういう意味で、とても興味深い疑問が出てくるのですが、博士が提唱するA次元があるとして、コピーされた人間は、オリジナルが“受動的に意識していた”A次元と同じであるかどうか、です。

同じとすれば、完全に同じ存在であり、オリジナルもコピーも、同一のA次元の写像のため、どちらかを消しても、その存在の死にはならないことになります。

分かりやすく言うと、空中に浮いたボールを、上からライトで照らしたとすると、下にはボールの影ができます。

博士の理論では、下に映し出された影(A次元の写像)が、存在(人間)です。

では、ライトをもう一つ増やして、二つのライトで照らしたとすると、下には2つの影ができます。

この状態が、同じA次元に由来する存在が2つ発生した状態です。

このケースの場合、一つのライトを消すことで、一つの影(存在)は消えますが、まったく質が同じ影(存在)が残ることになります。

ライトを当てているボールが存在する限り、影を失っても、存在は残ります。

 ※「夢が勝手にかなう脳」のA次元の図を参照ください。

   4次元の人間を2次元に巻き上げるという説明が、情報空間への
   移動を意味しているように私には見えます。

同一のA次元を由来する存在が複数存在したとしても、その一つを消しても存在は残り、死ではない、という考え方になります。


今後、A次元についての解説がメインとなった書籍が出てくると思いますが、A次元と4次元物理世界と情報空間の関係性が明確にならない限り、どうも落ち着かないような気がします。

おそらく博士は、意識やクオリアもA次元から来ている、と言われるような気がします。
> 竹内ヒサオさん
目の前にお前を消去するなんて奴が現れたら、転送装置を使ってでも逃げます。厳密には自分ではないといわれても、自分を存続させる手段として使えるなら私は使いたいです。

《厳密には自分ではない》のではなくて、コピーは自分にとってあらゆる面でそっくりな他人なんですよね。別の意識体なんですから。
墜落寸前の飛行機から転送するのは、家族のためには良いかもしれません。本人が死んだ代わりに瓜二つのコピーが来たらかなり癒されるかも。いや、微妙かな‥。
> 竹内ヒサオさん
私もその状況なら妻のために転送装置を使いますよ。
妻にはそのことを隠して飛行機には乗らなかった、別人が入れ替わって私の振りをして飛行機に乗り事故にあったのだ、と言い張ることを決心してから転送機を使えば、コピーはそうしてくれるでしょう。
> みつむしさん

本の中では、オリジナルもコピーも正真正銘の人間だと書かれています。
どちらにも人格を認めるべきだと思います。
皆様

苫米地博士から、このトピの議論につきまして、メールでコメントをいただきましたので、こちらに転載させていただきます。

--------------------------------------------

肯定も否定もしていません。将来そうなると予想しているだけです。
歴史家が第二次世界大戦について記述することが、戦争の肯定でも
否定でもないのと同様です。

そういうディスカッションが起きるというのは、将来そういう時代
が来ますからいいことです。

苫米地英人

--------------------------------------------

なお、個別の質問につきましては、ワークスなどで苫米地博士に直接ご質問ください。
また、今回は例外対応として私から博士に問い合わせさせていただきましたが、他の質問につきましては受けかねますので、あしからずご了承ください。

※追伸
博士はこの度、チベット仏教カギュー派法王カルマパ17世猊下より、『智慧の完成 傳法大阿闍梨』の号を授与されたとのことです。
博士のご回答をご覧頂きましたらお分かりかと思いますが、博士は「未来を体験した」し、未来の“歴史”を書いている、ということのようです。

良くも悪くも、そういう事態に対応しなければならない未来です、ということのようです。
すずりょう@鈴木領一さん。

ありがとうございました!

ご多忙な苫米地博士から返信を頂いただけでも感謝するべきかも知れませんね。

ただ、

トピックを立てるに当たって私が出した疑問、

 《 転送先にコピーが作られる・作られないに関わらず、

1)オリジナルの人間自身にとってコピーは《他人》であり、

2)《消去》は《死》そのものですよね?

この場合、転送機によるオリジナルの人間の《消去》は明らかに殺人です。 》

への博士のお考えを伺えなかったのは残念です。


私は、オリジナルの消去は殺人なので、
このシステムの転送機は実用化されないと思います。 


博士ご自身も
61でも引用したように、

p.154で、
装置のミスでオリジナルを消去しなかった場合、

《「装置のミスだ。どちらか消えてくれ」と言われても、どちらもきっと「嫌だ」
と思うはずです。
当然です。どちらも正真正銘の人間なのですから。》

と書いておられますから。


≫ダーツ⇒◎ さん

殺人かどうかについては博士は言及されませんでした。

かなりご多忙のようですから、私も細かな質問は遠慮しているところです。

私の個人的な意見では、「消す」ことは「この世からいなくなる」と同義だと思います。

本人が残りたいと思っているのに、それを無視して消すようですと殺人ですが、残りたいけど納得してもらう仕組み(脳内情報を誰かと並列化するなど)が整い、本人の了承を得ることができるなら、それは殺人にはならないと思います。

少なくとも、苫米地博士は、殺人を勧めているわけではなく、そういう社会が来ますよ、と言われているということは、間違いありません。
> すずりょう@鈴木領一さん

恐らくは私が感じた疑問は、

《自分という意識・自我・自己・認識》と、
《消去・消滅・死》

の捉え方の問題だと思います。

博士は、《自我とは情報状態に過ぎない》という立場だと理解していますが、
これは私がかつて学んでいた三浦つとむのマルクス主義言語学の認識論で言う、
《認識(自我)とは脳内に結ばれた『像』である(に過ぎない)。》
と同義だと思います。

ここからが問題なのですが、

《自我とは情報状態『に過ぎない』》
と主張している主体が、そもそもその情報状態に過ぎない苫米地博士の《自我》である、という事実です。
転送機に於ける消去とはその自我自身にとっての死であり、客観的に見れば殺人であることは、道義的な是非以前の事実だ、というのが私の見解です。
>残りたいけど納得してもらう仕組み(脳内情報を誰かと並列化するなど)が整い、本人の了承を得ることができるなら、それは殺人にはならないと思います。
♪その事実を認識した上で消去を了承する人は、死んでも良いから転送機を使って成し遂げたいことがあるような、ごくごく特別な人でしょう。本の中で《「装置のミスだ。どちらか消えてくれ」と言われても、どちらもきっと「嫌だ」と思うはずです。当然です。どちらも正真正銘の人間なのですから。》とあるように。

>脳内情報を誰かと並列化するなど
♪『自我とは情報状態に過ぎない』と言う場合、
《過ぎない》と評価するスタンスは自分の自我が架空の他の自我を客観的に観察している場合だと思います。
分かりやすく言えば、他人の《自我》やその《死》は、観察し科学的に解明して《定義》することはできても、《決してそのものを『体験』することはできない》のです。他人の死はエゴにとってどうでもいい、と言えば分かりやすいでしょうか。

我々は《死》について科学的に解明することはできますが、《死》そのものを体験し、実際に死ぬことは《その時》が来るまで絶対に不可能なのです。
だからこそ私は、オリジナルもコピーも人格を認めるべきであり、消去は殺人だと判断すべきだと思うのです。
> 竹内ヒサオさん
♪苫米地博士ご自身が《「装置のミスだ。どちらか消えてくれ」と言われても、どちらもきっと「嫌だ」と思うはずです。当然です。どちらも正真正銘の人間なのですから。》と書いておられますが、やはり普通というよりは圧倒的大多数の人間は私が思うのと同様に、(消去されて死ぬのを)『嫌だ』と思う筈です。

>遡って転送装置を否定すると、交通事故で自分が死ぬ可能性があるから車を全て無くせということになるのでしょうか、死は死ですから事故にあう確立なんて関係なく否定されるべきですよね。
♪転送機の場合は、使用すれば必ず消去されて本人が死亡し、本人と同じ記憶を持った別の意識体が本人の人生を引き継ぐ訳ですが、
車や飛行機に乗っても必ず死ぬ訳ではないですよね。
>「人の生死」と「何か」を天秤にかけ、「何か」の価値を推し量ろうとしていらっしゃるように思いますが、それは理論の展開として世間では正しいものとされているのでしょうか。

♪すみません、これはおっしゃる意味が分かりません。

前コメントで申し上げたのは、
《科学的に解明し、定義し得る他人の死》と、《自分自身のリアルな死》とは異なる、後者が実際に自分自身が死を迎える瞬間まで体験できない以上、転送機による消去は殺人と認識して禁止すべきだというのが趣旨なのですが‥。
竹内ヒサオさん>

おっしゃる通り私はただ出して下さった疑問に正直にお答えしていただけですが、
私もこのトピは収束しても良い段階に達したかもしれないと感じています。

> ≫ダーツ⇒◎さんが主張されている問題には考察を続ける価値があるよう思いましたので、

とおっしゃる事項に関連して、

この議論から続けて、苫米地博士の名著《スピリチュアリズム》や他の著書で展開されている自我観や科学観、宗教観、生命観を考察するのも有意義ではないかと思っています。






> ウェーブさん

重要な問題だとは思いますが議論の主題が異なるので、別トピックを立てられたら如何でしょうか?


>信仰には資格制度的なものを用いて(例えば恐怖観念でやっていないか精査したり)きちっと周りに精神的にも害の無いよう責任を持って行うといったような事が必要と思いますが皆さんはどう思われますか?

♪大抵の場合、暴力性は恐怖から発生すると思いますが、やるとしたら政府がやると思想統制に繋がる危険性があるので、ボランティアの民間研究機関みたいな(苫米地さんとか)ところで宗教団体ミシュランみたいに星を付けたらどうでしょう(笑)。


因みにこのトピックの議論で私が思い至ったのは、

そもそも《自己》や《死》とは何か、という問題と、論ずる前提となる世界観です。

苫米地博士は現代の科学者なので唯物論的世界観を前提として、『世界の戦争と差別を無くす』というゴールを持ちながら論じていらっしゃると思うのですが、

私の場合は生命に関わる事なので繰り返し述べましたが、『私・自己』や『私自身の死』は《本人自身の体験》として扱うべであって科学的な知見とは一線を引き生命を扱うのはそちらの立場からすべきだというものです。

そしてそれは名著《スピリチュアリズム》などでの苫米地博士の優れた仏教観に含まれるスコトーマではないか、との観点から今博士の著書を読み直しています。

現時点での私の立場は、

《仏道とは自己を学ぶなり》《すべからく廻光返照の退歩を学すべし(光を自分に向けて自己をまなびなさい)》(普勧座禅義)と述べた道元禅師の影響下にあるものですが、

座禅中の考察は、インドのジュニャーナ・ヨーガ(智慧のヨーガ)と同様、一切の仮説を排除して行うものです。

>その「一線」というのが何を指されているのか。
その「一線」だれが決めるのか。



現時点で私が思う《一線》とは、

苫米地博士のいわゆる、

《情報状態に過ぎない自我》にとって、

既知と、未知・仮説との間の境界線、

《一線》を決めるのは、
自我自身です。

因みにすべての自我自身にとって、
《自我自身の死そのもの》は、
死を迎えるその瞬間まで未知です。
> ウェーブさん

《一切の仮説を排除して行う観測されない主観は存在しえないという論理》

♪この場合仮説とは、その自我自身が体験していない間接的な情報だと思います。例えば釈迦の場合、ヴィパサナ(苦行を捨て最後に行った瞑想)のテーマが《苦》であったとされていますから、《苦しんでいる自我自身の苦しみとその原因である関係性》が未知・仮説でないリアリティです。私は老師からヴィパサナは道元禅と同一な瞑想と教わったのですが、そうした瞑想で行う自覚(道元のいわゆる廻光返照)と、科学的な観測とは立脚点が異なると思います。

《主観とはあくまで客観的主観という枠からは出れない》

♪その立場から見ると逆で、『客観とは主観的客観という枠からは出られない』となると思います。

《排除した状態は、先生の言う、部分関数で言うところの出力された認識(自我)を排除するということでしょうか?》

♪禅やヨーガでの瞑想の《私とは何か・仏道とは自己を学ぶなり》というテーマは、ある座禅老師によれば《私という欲望とは何か》という問題意識に辿り着くのですが、

《「自我」とは宇宙から自分にとって重要な「関係」を選び出すものである》(苫米地英人『本当は凄い私』より)

の、選び出す・出力する主体が恐らく《欲望》だと思います。

従って、出力された認識(自我)を排除するとは、もしかしたら自我自身が自我自身の出力のメカニズム(欲望としてのエゴ)を自覚する事で、
《出力された認識(自我)を排除する》すなわち《空》が体現されて悟る事かも知れません(笑)。

ウェーブさんとは立脚点が異なるようなので応答が噛み合ってないかも知れませんが‥あせあせ(飛び散る汗)
> ウェーブさん

重要な疑問ですね。
やはり唯物論的世界観を前提としてお話されていると思うのですが、

私の場合は、
自我自身にとっての既知は既知、未知は未知、仮説は仮説として位置付けるので世界観は全て仮説です。

禅仏教では座禅を行う動機となる問題意識を《疑団》と呼びますが、《苦悩しているこの自我自身とは何か》という疑団にとって、いかなる世界観も排除すべき仮説です。

>ここで言う「空」とは、主観(欲望)が無く正に宇宙と自我の境界線にいる状態で、両方を傍観出来る状態、つまり宇宙と自我の両方を選び出している状態とも言えないでしょうか?(体現する主体<肉体>があるのならば)それと逆に、全て(宇宙と自我)を選び出していない状態が「死」ということになりますね。主体が無いので死の体験は厳密には体験出来ないような・・・

♪この考え方は苫米地博士の『脳と心は同じもの』という唯物論的世界観という仮説に基づく見解ですよね。

>これを踏まえると、主観的「死」とは厳密には無く、観測的「死」があるだけとなり、すなわち一般的に言われる主観的「死」とは、主体(肉体)が無くなる(自我の消滅)のぎりぎり手前と言うことになってしまう気がします(^_^;)

♪苫米地博士は《スピリチュアリズム》p.216で、

『釈迦の主張が正しいとすれば、理性の限界まで考え抜いたときには、それを超越する空を体感することだってありうるのです。』
と述べていますがこれは、

『座禅して存在そのものを思考することは絶対にできないという事をとことん思考し尽くさざるを得ません。思考できない事を思考し尽くすことなどできるでしょうか?思考は落ちます。これが、座禅の最重要点です。(座定して個の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。非思量、これすなわち座禅の要術なり。)』(道元《普勧座禅義)

と符合するのですが、

これを禅宗では古くから、

『大死一番、大活現成』と呼んでいます。

またよく禅者に老師から出される公案(テーマ)に、 《お前の父母未生以前の本来の面目は何か、持って来い》

というものがあります。

これは肉体(脳)以前の自己が存在するから自分で気が付け、という意味で、

苫米地博士が哲学者として評価されている釈迦の経典の中の仏教とは別の禅仏教(《不立文字・教化別伝》といって、経典とは別に釈迦、マハーカーシャパ以来、師から弟子に脈々と受け継がれてきたとされています。)では、
悟った結果として唯物論的世界観は否定されることになりますね。

これも私自身にとっては間接的な情報なので仮説ですが。
> 竹内ヒサオさんコンピュータについて無知なもので人間をコンピュータに喩えるのはよく分からず、好きでも嫌いでもないのですが、
 仮説として人間の精神をコンピュータに喩えるのは多分一定の範囲で有効なのだろうと思います。

私の禅の師匠は、人間は悟らない限り欲望を原動力としたエゴイズムにつき動かされる機械に過ぎないと言ってましたし、多分そうなのだろうな、と思っています。
金で買った「客員研究員」を苫米地がまるで「教授」のように言ってるのも大問題。
ツイッターでずっと苫米地に絡んでる人が指摘してた。

@UT4T 本人も不明瞭ながら言い訳してるのは、デムチョク氏のサイトでは
「CMU教授」という虚偽表記がされているってこと。
実際は卒業生でなくとも誰でもなれる「客員研究員」。
RT @Akira0nil @DrTomabechi 正式タイトルはCyLab Adjunct Fellow だけど。
http://worldkarunafoundation.org/dr-hideto-tomabechi-profile

このデムチョクのサイトで、現在も相変わらず「教授」と虚偽説明のまま
変更してない。何が「正式にはCyLab Adjunct Fellow だけど」だよ。
カーネギーメロンの教授と客員研究員じゃ、まったく違うっつーの。
「だけど」じゃなく、修正しろよ。
> syousukeさん

そりゃなんのこっちゃ 意味不明 悲しいね 残念だよね クスリかな エスエムかな どうしたのかな 全く ダメな 嘘っぱちです
サイゾー執筆陣は、
オーナーがSM催眠指導が好きなインチキで、
売り上げがセックス教団・ザインのような団体の資金源になると
知っててやってるのか、知らずにやってるのか。だな。

フリーライターは金のためになんでもするのか?文化人は?
発表の場がほしい、わずかな金がほしい、だとしても、
サイゾーで書くのは、一生の恥であるだけでなく、
高額セミナー、DVD、数日で数百万の旅行、おかしなアクセサリーなど、
明かな詐欺商法に加担することである。それでも良しとする人物なのかどうか。
その雑誌で、いったい何をどう語るんだ?

一部執筆陣のツイッター 問い合わせ先
@cyzo サイゾー編集部
@furusaki_y 古崎康成
@mito_orihara 折原みと
@keiichisennsei はぁとふる売国奴
@sasashihan 笹公人
@wakusei2nd 宇野常寛
@SdaMhiko 島田雅彦
@yamanan519 山名宏和
@TomoMachi 町山智浩
@hanakumafactory 花くまゆうさくhanakuma
@miyadai 宮台真司
@tjimbo 神保哲生
@torakare 荻上チキ
@sasakitoshinao 佐々木俊尚
@dankogai 子飼弾
@godblessnameko 辛酸なめ子
@MENTAIMAN2009 梶野竜太郎
@akarusan 小明 (AKARI)

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