1947年1月8日、イギリスのロンドン南部ブリクストンに生まれる。 本名はデヴィッド・ロバート・ジョーンズ(David Robert Jones)。子供の頃、喧嘩が元で左眼の視力をほぼ失っている(左眼の瞳孔が開いた状態になり、以来、両目の色がそれぞれ異なって見えるようになる)。 1964年6月5日に「デイヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ Davie Jones and the King Bees」名義でシングル『リザ・ジェーン』を発表し、音楽活動を開始。しばらくはヒットに恵まれず、「ザ・マニッシュ・ボーイズ The Manish Boys」「デイヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード Davy Jones and the Lower Third」などと名を変え、1966年4月のシングル『Do Anything You Say』から使い始めた「デヴィッド・ボウイ David Bowie」でやっと芸名が定着することになる。
1967年6月、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ David Bowie』を発表。 1968年1月から3月までリンゼイ・ケンプの劇団の元で過ごし、パントマイムの腕を磨く。
1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ Space Oddity』を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル『スペイス・オディティ』をリリース。全英チャート5位、全米チャート15位まで上がり、人気ミュージシャンの仲間入りを果たした。
【グラム・ロック時代】 1970年、ミック・ロンソンをサウンド面での盟友に迎え『世界を売った男 The Man Who Sold The World』をリリース。歌詞に哲学・美学の要素が多分に含まれるようになり、1971年のアルバム『ハンキー・ドリー Hunky Dory』でその路線は更に深まり、サウンドにも哲学・美学の要素が浸透し、ボウイはカウンターカルチャーの旗手としての地位を確立することになった。この年、アンジェラ・バーネットと結婚し、息子(映画監督のダンカン・ジョーンズ)を儲ける。後に離婚している。
1972年、コンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト 』をリリース。 コンセプトに基づいて架空のロックスター「ジギー・スターダスト Ziggy Stardust」を名乗り、そのバックバンドである「スパイダーズ・フロム・マーズ Spiders From Mars」を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組んだ。初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装(山本寛斎の衣装も多く取り上げている)、奇抜なメイクへと変貌していった。アメリカツアーの最中に録音された『アラジン・セイン Aladdin Sane』は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を演じるボウイというよりは、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」そのもののアルバムになった。しかし、1973年7月3日のイギリスでの最終公演を最後に、ボウイはこの架空のロックスター「ジギー・スターダスト」を永遠に葬った。一連の「ジギー・スターダスト」としての活動で、ボウイはグラム・ロックの代表的ミュージシャンとしての地位を確立することになった。
1975年、カルロス・アロマーを盟友に迎え、『ヤング・アメリカンズ Young Americans』を発表。全米1位を獲得したジョン・レノンとの共作シングル「フェイム Fame」を含むこのアルバムは、フィラデルフィア・ソウルからさらに一歩踏み込み「白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか」というコンセプトで作られた。このアルバムの直後、初の主演映画『地球に落ちてきた男 The Man Who Fell to Earth』の撮影が始まっている。
1976年、自らの主演映画の内容に影響を受け、また長年の薬物使用/中毒で精神面での疲労が頂点に達していたボウイは、自らのアイデンティティを見直す作業を余儀なくされた。結果それは前作と裏返しの「白人である私、ヨーロッパ人である私はいかに黒人音楽を取り入れるべきか」という方向に変わり、そのコンセプトで作られたアルバム『ステイション・トゥ・ステイション Station to Station』として結実した。
【ベルリン時代】
ボウイは再び架空のキャラクター「シン・ホワイト・デューク Thin White Duke」(痩せた青白き公爵)を名乗り、それを演じた。ドイツでのライブはナチズムを強く意識したステージ構成になった。インタビューではヒトラー擁護とも取られかねない際どい発言を行ない、ファンの前ではジークハイルをやったやらないなどの騒動が起き、メディアからは激しいバッシングを受け、「ジギー・スターダスト」以上の危険人物とみなされることになった。 ツアーの終了後に、薬物からの更正という目的も兼ね、ベルリンに移住し、ひそやかに音楽作りを始めた。