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坐禅(座禅)用心記の会コミュのこころに響く禅語

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こんにちは!

座禅ですが瞑想としては原始仏教の瞑想やヨガとかに押され?気味も感じます。
しかし、なんといっても日本の伝統文化とも密接なつながりもあり、原始仏教とも共通項は大いにあると思います。そういったわけで 禅語 ということで トピを立てさせていただきました。

観点としては上に書きましたが、瞑想としての普遍性みたいな観点で 禅語 について気が付いたことを書けたらと思います。べつにこだわりませんが。(私も知識はごくわずかです。)

その? 回光返照

外に向かう心を翻して、内なる自己を反省し、本来の面目を明らかにするこ と。道を外に求めることなく、自己の本性を照見すること。
とありました。これなどビパッサナー瞑想の基本的立場と同じかなと思うのです。

その? 莫妄想 妄想すること莫(なか)れ!

これも瞑想に普遍的な真実と思います。




コメント(20)

>ウタカタさん

「回光返照」とは又絶妙な表現ですね。実際に坐禅の精神を鋭く反映していると感じます。何故なら日常、外に向けられている注意を、坐禅等の瞑想の行により内面に向けることによって、初めて自己の脆さや不確実性がはっきりと輪郭を帯びてくる気がするからです。そうした部分を直視し、真摯に反省していくことが坐禅の出発点ではないかと思います。勉強になりました。
アタリスさん コメントありがとうございます。

道元禅師の普 勧 坐 禅 儀にもあります。

−回光返照の退歩を学すべし− と注目すべきは 退歩 と使っています。


所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語(ご)を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし。須らく回光返照(えこうへんしょう)の退歩(たいほ)を学すべし。

それゆえに、書物などの言葉を研究し理解しようとするような自己の外へ向かっての行はやめるべきであり、自らの内に向かって光を当て悟りを照らし出す行をするべきである。
>ウタカタさん

全くごもっともかつ耳の痛い指南です。小職など今でも空の論理や般若経典を読んでは、物事の道理をわかったような気になったりして喜んでいますが、本来は慎むべき事であり、修行が無いところに言葉はないことを噛締めたいと改めて反省します。
アタリスさん コメントありがとうございます。

私も色々読みましたよ。無駄にはなっていないと思うのですが、いや思いたいのですが。知識が増えるだけでは本当の安楽には至らないということなのでしょうか。
禅という響きには独特のもの、日本人に風土として染み付いたものがあるかも知れません。そういった意味で最近この場をお借りして省みています。瞑想の理論や方法論が一般人にも親しめるといった点では原始仏教系でしょうか。

さて 応無所住而生其心 もとは金剛経のようです。六祖慧能禅師で有名です。

「応(まさ)に住(じゅう)する所無くして、而(しか)も其の心を生ずべし」
「心というものはどこかにじっとして在るものではない。それは一瞬々々に生じては滅し、滅しては生じるものである」
この読み方はこころの現実のありかたを記述しています。こう読むと原始仏教そのままといっていいかと思います。

転じて 執着なく生きることが心の有り様である といった読み方をする人もいるようです。



> ウタカタさん
〉あたりすさん

こんにちはほっとした顔
私もあたりすさんと全く同じ気持ちです。書いて下さってありがとうございます!

確かに知識だけでは安楽には至りませんよね。中途半端(偏り、不正確、独善的)な知識は逆に安楽を遠ざけるかもしれません…。


と言ったところで禅語を。

一大事と申すは、今日只今の心なり。それを疎かにして翌日あることなし。
(正受老人)


大切なのは【今】ですね。
月子さん こんにちは コメントありがとうございます!

普 勧 坐 禅 儀の場面は修行の道場でしょうが、私達の生活の場にも当てはまると思います。

いろいろあれこれと 新しいこと、経験のないこと、羨ましいと思える他人 とかにとかく関心が行き 自分の日常 自分 今 を認め大切にしていない事が多いです。(困ったものです。トホホ)
自分を思う時は 後悔や不安といった気分が付きまといます。これも基本が外に向いているからかも知れませんね。

確かに 今 が一大事 だと思います。普通の禅語を逆手に取ったような奇をてらわない言葉ですね!

生をあきらめ 死をあきらむるは 仏家 一大事 の因縁なり と道元禅師にもありますが、生をあきらめ 死をあきらむる ためにも 今 が一大事 なのかもしれません。



 
> ウタカタさん

仏教は、もともと【今】【一瞬一瞬】を大切にする伝統がありますよね。

過ぎ去った過去を悔やんでもどうすることもできないし、まだ来ない未来を思い煩っても仕方のないことだし。

昔、知り合いの修道女が、
『他人と過去はかえられない』
と言いましたが、いや、全くもってその通り!と思いました(笑)
>月子さん

>仏教は、もともと【今】【一瞬一瞬】を大切にする伝統がありますよね。

そうだと思います。仏教の根本と関係しているかも知れませんね。
どうしてだとお考えですか?
よろしかったらお聞かせ下さい。
肝に銘じたい禅語

 小欲知足  

私はいつも何か満たされ無い想い(物質的なことそうでないこと)に取り付かれています。いえ人類全体が不満足性に突き動かされているとも思うのです。
ところが小1時間も瞑想した後ですが不思議な満たされた想いを感じることがしばしばあります。

これはなんなのでしょう?普段の意識状態は極端にいうと無意識状態といってもいいかも知れません。いつもなにかを追いかけ、せかされて自由の無い状態が続いているのかも知れませんね。
> ウタカタさん

こんばんはほっとした顔

私はなぜ、『仏教は今・一瞬一瞬を大切にする伝統がある』と思ったのか?…ということに対して、ものすごく考えこんでしまいましたあせあせ(飛び散る汗)
なぜ考えこんだのか考えたんですが(笑)、おそらくあまりに自然にそう思っているから…という結論に至りました。

それで、なぜ自然にそう思っているのか…ということを考えたんですが、やはり仏教の根本的な思想、原始仏教の思想に深い係わりがあるんじゃないかと。

今の私と明日の私は同じ私であっても違う私ですよね。
今の私にとっては今しかなく、明日は今の私にとっては関係ありません。
仏教ってそういう感覚がありますよね。

あと、坐禅なんてまさしく今・一瞬一瞬を味わい尽くすものですよね。
只管打坐、悟りを求めず何も求めず、ただ坐る。
>月子さん

考え込ませて申し訳ありません。ふらふら

>『仏教は今・一瞬一瞬を大切にする伝統がある』

私も整理したことは無かったのですがそう感じていました。

>やはり仏教の根本的な思想、原始仏教の思想に深い係わりがあるんじゃないかと。

そうですね 私も原始仏教から来ているのかなと思います。
あと仏教は個人主義的と言われますよね。キリスト教との対比において。
特に原始仏教でこの傾向が強いと指摘されているようです。

>今の私と明日の私は同じ私であっても違う私ですよね。

無常も原始仏教の根本ですよね。
現在の仏教で原始仏教に一番近い(修行法、教義)のは禅宗系と思います。
道元禅師の教えですが、一部の現代僧侶からはあれは原始仏教 といわれているそうです。

原始仏教⇒禅宗 と伝統になっているのでしょうかね。
>ウタカタさん

いえいえ、考える機会をいただきありがとうございますわーい(嬉しい顔)

私も、原始仏教に一番近い日本仏教は禅宗系だと思っています。
二十歳そこそこで原始仏教に興味を持ち勉強してきたんですが、今平行して禅宗の教えを学ぼうとしているのも、結局は道理に適っているような気がします。
自然な流れというか。

組織としての上座部ではなくて、本来の原始仏教というものに還っていくような感じですね。
>月子さん


>二十歳そこそこで原始仏教に興味を持ち勉強してきたんですが、今平行して禅宗の教えを学ぼうとしているのも、結局は道理に適っているような気がします。 組織としての上座部ではなくて、本来の原始仏教というものに還っていくような感じですね。

そうですか 原始仏教が最初だったのですね。
禅籍はどういったものをお読みですか?正法眼蔵はいかがですか?

難解ですが、坐禅の勧め といった面がありますね。禅世界の風情満喫です。
>ウタカタさん

いえ、仏教で一番最初に興味を持ったのは真言宗やチベット密教、浄土系です。
まだ十代の時でした。
大学(通信制)が浄土宗で、仏教学と法然の教えの2つの単位は必修でして、最初は浄土系の教えに興味があったものですから「法然の教え」をわくわくして受講していたんですが、仏教学で原始仏教を知り完全に興味が移行しました(笑)

ところで、禅宗の勉強を始めたばかりで、今は正法眼蔵の勉強会に行き出して、これから正法眼蔵を読もうと思っているのですが、どの訳で読もうか迷っています。
>月子さん

日記 南さんのこと読ませていただきました。
宗教って切実なる思いが根底にありますね。
生きることに苦しみを感じる人種も東西古今に普遍的に存在するということでしょうか?
そういった思いが宗教や芸術、哲学の原点かもしれません。

お釈迦様 ご本人がいい例ですよね !

>これから正法眼蔵を読もうと思っているのですが、どの訳で読もうか迷っています。

そうですよね !

正法眼蔵ですが私は 西嶋老師で読みました。あと時々図書館で借りてきて比較しましたね。名前忘れました。僧侶で伝統的解釈でした。
西嶋老師でいいのは 1冊が薄いのです。ですから私の様に電車で読む(家にいる時は本 読めないタイプです。集中力がないのかも 笑い)には便利です。
>ウタカタさん

ほんとに、宗教も哲学も科学も芸術も、すべてはやっぱり生きることとそれによって生じる苦しみとに対する切実な想いが原点にあるような気がします。
方法論や着地点は各自違ってくるとは思うんですが。

正法眼蔵ってただでさえ難解と言われているものなので、なるべく読みやすい日本語がいいなぁと思ったり(^^;)
それで、河出文庫のがよさそうかな?と思いました。
正法眼蔵の翻訳本は色々検索しましたが、西嶋老師様のは気づきませんでした。

それにしても、仏教って経典と呼ばれるものがたくさんあって大変ですよね(汗)
「いい経典に巡り合ったな〜」と思っても次から次へとあらわれる(笑
>月子さん

生命にはどうも自己保存性と自己拡張性が組み込まれているようです。 
また人間は頭脳知性が発達して複雑多様な文化社会を構成しています。
個人は個を集団に投影してその関わりの中で生きていく。
個人の自己保存性と自己拡張性は集団にも投影される。

個、集団はいつも不満足性をかかえ、外へ そとへ と関心が向かう。

おおざっぱで乱暴な表現ですが、こういった図式は古今東西 普遍なのかも知れません。

そして個人の一生かけて築いた財産 知識 地位 は虚しく過ぎ去っていく。 無常の現実にだれも従うしかない!!

だからこそ、瞑想に意味があると思うのです。古今東西に瞑想が存在すると思うのです。
★ 回光返照の退歩を学すべし

河出文庫は石井 恭二さんのですか?
原文が前文載っているのをお奨めします。原文の語感がすばらしいのです。日本人だからこそ味わうことのできる名文が随所に溢れています。
ぜひご一緒に読み進めたいですね!



>ウタカタさん

河出の石井さんのです。
なんとなくパラっと見たんですが読みやすいかなと思って。
仰るように、原文が読めるのがいいかもしれませんね。
ただ、私は漢文とか古文苦手なんです…(笑)
仏教を勉強する時、国語力があった方がいいと痛感します。。。
大学の友達に仏教学科の人がいましたが、みんな漢字に苦労するようです。


人間の一生は儚いものですね。
とくに私はあんまり長生きできないような気がしているので、この年ですがいつも死を意識して生きています。
なのでどこかがむしゃらなのかも。
>月子さん

>人間の一生は儚いものです
>いつも死を意識して生きています。
>なのでどこかがむしゃらなのかも。

大切なことと思いますね。

個は死を忌避するようプログラムされていると思います。

解決の方向として宗教があり、例えば神のもとへの復活とか輪廻とか・・・。

ただこれらをまっとうに信じられないのが一般的ですね。

正法眼蔵にも 輪廻的表現が随所に見られます。特に晩年 例えば 道心 など。
感動的です!
>ウタカタさん

そうですね。
死を回避するようにプログラムされているけど、死を自ら選択できる人間ですから、その狭間でより苦しむことになりますね。

お釈迦様は対機説法を大切にされましたから、高齢の人たちに対して、僧侶が

「来世はあるよ!極楽はあるんだよ。頑張って残りの日々を生きようね」

って力強く宣言されることはすごく意味があることだ…と思いました。
先日仏教講習会に行ってきたんですよ。
参加者が私以外皆すごく高齢で…(笑)

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