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全国樺太連盟mixi支部コミュの機関誌 樺連情報

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このトピックでは樺連情報の記載を、書い詰まんでお伝え致します。

コメント(17)

樺連情報 第703号の1面左下隅より

北海道支部連合会事務所移転のご案内

豊平の樺太会館にあった北海道支部連合会事務所は左記に移転し、1
1月4日(火)から業務を始めます。北海道庁舎のすぐ裏、北大植物園
正門前です。11月一杯は整理等にご不便をおかけしますが、ご理解下
さい。

新住所 札幌市中央区北3条西7丁目1-1 緑苑ビル2階
新電話 011-207-7495 FAX 011-207-0701
樺連情報 第704号の4面左下隅より

事務局だより▼支部
(北海道支部連合会)

◆間見谷嘉昭さん(前
旭川アイヌ協議会長)が十
月二六日急性肺炎のため死
去、七八歳。旭川市出身。
一九九0年から二00三年
まで会長を務めアイヌ民族
の文化継承に尽力した。と
北海道新聞が十月二九日号
で報じています。同紙並び
に間宮林蔵顕彰会だより平
成一四年一0月号によると、
間宮海峡にその名の残る江
戸時代の探検家、間宮林蔵の、
五代目の直系子孫に当たる
ことが道内の郷土史研究家
の調査で分かったことも報
じています
ご存知の方も多いかと思いますが、
実は昭和46年頃には南樺太返還期成同盟が既に存在していました。
樺太1945年夏 氷雪の門が、公開される以前の事です。

ソ連邦は日本政府に対して、
氷雪の門の映画公開と南樺太返還期成同盟にも圧力を掛けて仕舞いました。

結果:氷雪の門は現在も地上波未公開で、
南樺太返還期成同盟は事実上解散に追い込まれました。
樺連情報 事務局だより
支部(北海道支部連合会)から引用

◆道連事務所収蔵室に併設の、仮展示室の陳列がほぼ整い、
今月から見学頂けるようになりました。
1月19日(月)から開室致しますが、土曜・日曜・祝祭日・年末年始は休室です。
更に1月は、29日30日も会議等の為に休室と致します。
また外出などで留守のことがあります。前もって電話予約をお願いいたします。
(電話011・207・7495)。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。 (中松記)
樺連情報 事務局だより ▼支部(北海道支部連合会)

◆今年は連盟創立60周年に当たります。60年前の本紙第3号(1949年2月15日)に、『本紙北海道総局開設』
「札幌市南7条7丁目樺太庁札幌出張所内、社団法人全国樺太連盟。今後一段と紙面の刷新、内容の充実をはかる」とあり、
引揚、居住、就労等島民は大問題を抱えていて、道内取材に力を入れ、生活に密着した広報活動に心血を注いでいたことが窺えます。
本紙が「中央情報」と称していた時代のことで、歴史のうねりがわかります。
◆道庁赤れんが旧庁舎にある「樺太関係資料館」の展示品の一部展示替えについて、道の担当者と相談に入ります。
何を替え如何に飾るか、皆さんの要望、ご意見を或はご指摘などを参考にしながら検討いたします。具体的なご意見、ご希望などをお寄せ下さい。
◆樺太資料収蔵室の整理が終わりました。狭い室内ですが、樺太古写真帖など、限定ですが閲覧できるようテーブルを用意しました。

(中松)
樺連情報 第707号 1面から引用

懐旧・深厚 そして談笑
-新春の集い-

第ニ部
佐々木最高顧問 挨拶


ある出版社からでる、大平炭鉱の看護師さんの話です。青酸カリをのむがなぜか生き残った二十名の彼女たちの運命です。
実に悲惨な話で、ようやく聞き書きがなされた由。こういう銃後の介護専門の方々に対して、ロシアは何をし、われわれはどう守ったのか。
『総員おこし』と言う題の本になる由だが、ぜひ読んでほしいと思う。
樺連情報 第708号(4)

集い・つどい

集会案内

北海道恵須取会 第58回 総会

日時 4月24日(金)正午より

場所 札幌 すみれホテル
札幌市中央区北1西2
電話261-5151
会費 5,000円
連絡先 事務局 廣川昭夫
電話011-386-8699
締切り 4月15日まで
樺連情報 第708号(4)

新刊紹介

佐藤 亘著
『回想録国境の島 樺太わが故郷』

真岡・蘭泊の美しい自然と活気ある生活描写、初恋から始まり、
125連隊機関銃射手としてソ連軍機狙撃、戦場での別れ、ソ連兵に混ざって前線脱出、
ソ連軍事裁判で死刑判決、博打で樺太脱出資金捻出など痛快な物語。敗戦前後の樺太を知る価値ある一冊。

A5判250頁、1200円(送料160円)
購入申込先 〒242-0005
大和市西鶴間2-26-2-242
辻 力まで
(Tel・Fax 046-276-4123)
樺連情報 第708号(2)

樺太引揚者 乗船名簿見つかる

樺太に関する研究に熱心に携わる竹野学君の調査によって、
昭和21年12月5日函館上陸の公式引揚第1船から、
第5次に至る、全引揚げ者の名簿の所在が判明した。
原簿は、旧樺太庁の所在地で旧豊原市にある薩哈連近現代資料センターに保管されている。
各船ごとに、乗船者の氏名、職業、生年、居住地、父親の職業等が、
すべてロシア語で一覧化されていて、全部で208冊あるという。
その原簿に基づく氏名、生年、居住地、のみ記した簡略版が、外務省の外交資料館で
公開されていることも、今回、竹野君が発見してくれた。マイクロフィルムで1万3千コマという。
一般公開されているが、検索は素人では難かしい。貴重な資料である。
樺連情報 第709号(2)

平成21年度事業計画(案)
-理事会修正後-

※一部抜粋

七、「樺連情報」の発行及びPR活動

連盟の活動状況、支部紹介、望郷の記憶、樺太の現状等の取材ほか、
会員からの投稿により紙面の刷新、内容の充実に努めます。
又、情報の内容については会員を対象としたものに限らず、
不特定多数の人も対象とした幅広い記事とします。樺連パンフレットの配布、
またホームページ、インターネットを活用してより充実したものとし、
樺太関係資料館を基盤とするPR活動を盛り上げて公益に資することと致します。
樺連情報 第710号(4)

新刊紹介

美濃又 重道著
『次々々回想の記』

白浦の尋常高等小学校を出て豊原商業の一回生、樺太師範五期生。
終戦時は白浦国民学校に勤め、引揚げ時は森町を始め十校ほどで勤務される。
最後の学校は、道立星置養護学校の初代校長を勤めた方の回想記である。
この本をご希望の方は、次にご連絡下さい。

美濃又 重道
北海道北広島市緑陽町3-5-4
電話011-372-2238
樺連情報 第711号 (4)

事務局だより
本部▼
▼樺太の七夕はどのようなものだったのか、短冊は何に括り付けたのか等知りたくなります。
今年も機会があれば短冊に「樺太返還」と書きます。
▼7月7日、この日は樺太人にとって記憶に止めて置きたい日です。日露戦争において
明治38年のこの日、第十三師団が女麗に上陸し24日 北樺太へ、
31日 露軍降伏、南樺太の割譲(返還)への、郷土樺太建設への第一歩となった日です。

(渡邊)
樺連情報 第711号 (2)

バラックシップ
江別市 廣川 昭夫 (恵須取町)

703号の「集会報告」樺太引揚者上陸記念碑記念祭報告文章に記載の「バラックシップ」についてお問い合わせ頂きました。
敗戦後の樺太、アジア大陸等からの引揚げはすべて占領軍(進駐軍と言わされました)と中国、ソビエト連邦、
その他各国との交渉の結果実現しました。厚生省(当時)は占領軍の指示により引揚げ業務を担当致しました。
樺太引揚げについては昭和20年12月14日に函館引揚救護局が設置されました。
樺太引揚は昭和21年12月の第1次引揚船から始まりました。
第1日 真岡出航 第2日 船内上陸手続き
第3日 函館入港(船内検査、疫病下船) 第4日 復員局調査
第5日 2回目予防注射 第6日 上陸開始、税関検査、入寮
第7日 進駐軍調査(非法人抽出) 第8日 進駐軍調査、帰郷準備
第9日 帰郷
引揚船は函館入港から5日間の滞留状態で、非効率的と総指令部の指示でバラックシップ(繁留収容船)の手配を行いました。
昭和22年4月5日に山澄丸(6、859総噸)4月8日に日 金玉 丸(6、903総噸)と信濃丸(6、254総噸)が入港し、
早速引揚者の収容を開始しました。収容人数は各船3、500人。真岡出航から3日目には
人々をバラックシップに移乗させ折り返し真岡に回航することが出来ました。


※続く
※16番目の続き

樺連情報 第711号 (2)

バラックシップ
江別市 廣川 昭夫 (恵須取町)


引揚船からバラックシップへの移動は本誌703号で直接、接舷と記述致しましたが、デリックによる吊り下げで艀に移乗し数百米を
曳き舟でバラックシップに収容でした。西浜岸壁では一般人の立ち入りが出来ませんでしたので、望見でしたのでご了赦下さい。
所定の手続き完了後はバラックシップから再び艀経由で上陸し、税関検査後に各寮に収容しました。
引揚寮は本州行の方は鶴岡寮、道内行きは千代が岱寮と区分されたとの事。
後に陸上側で移動式タラップが完全され、バラックシップが直接接岸して上陸可能になりましたが、
バラックシップ方式に問題があったようで、7ヶ月後の10月15日に撤収されました。
引揚者の方々が第1歩を印した西浜岸壁は昭和62年に埋め立て湾内側に五十三米拡張され、
現在は大型クルーズ船が接岸可能になりました。引揚記録写真で埠頭に「日章旗」が
躍っておりますが占領軍総指令部に国境掲揚が許可されたのは昭和23年11月24日でした。
〈参考資料 函館引揚救護史 (1)(2)、函館史第7編〉
因みに私は敗戦時の8月22日に大泊から稚内に機帆船で脱出し函館に居住致しましたが、
引揚船の体験はありません。記述に不自然な事項がありましたらご了赦の程。

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