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竹中 正久(荒らぶる獅子)コミュの解説-我が兄 竹中正久          竹中武

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竹中正久は私の実兄である。兄は昭和59年6月、山口組の四代目組長の座に就いたが、別になりたくてなった組長ではなかった。
56年7月、田岡一雄三代目組長が急性心不全で亡くなった後、次の四代目組長には山本健一(当時の若頭、山健組組長)が就くと決まっていた。ところが山本健一は収監中で、出所を目前にした57年2月、肝硬変で急死してしまう。
兄は対立する山本広(後に一和会会長、平成5年病死)とのかねあいで、いよいよ自分が四代目に就かなければならなくなったとき、「山健は死んでしまったけど、たとえ一年間だけでも山健を四代目組長にできたらいいのだが……」と洩らしていた。
亡くなった者を組長に立てる例があるのか、ないのか。兄は「ちょっと考えてみたい」と言っていたから、その後、田岡フミ子未亡人や旧例に詳しい者などに相談したと思う。
しかし、そのような例はヤクザの歴史にないと教えられたのだろう。昭和59年6月5日、山口組の総会で四代目に就くと挨拶して、その月末に舎弟、若衆の盃直しをした。
兄は昭和60年1月に殺されたが、なりたくてなった組長ではないという思いも幾分か影響したかもしれない。しかし圧倒的に一和会に対して油断があったことが死を招いた。山本広をはじめ一和会のメンバーを頭からなめてかかっていた。たとえ上が頼りなくても、下にしっかりした者がいることがある。兄はこのことに気づかなかった。考えが足りず、甘かった。
だが当時、一和会にガタが来ていたことも事実である。一和会の副会長兼理事長だった加茂田重政が「一和会を出て加茂田組一本で行く。ついては阪神懇親会入りを認めて欲しい」と人伝に言ってきていた。「この件で誰か四代目山口組の幹部と話し合いたい」と。このことはもちろん若頭の中山勝正も兄も知っていた。そのため「明日か明後日には加茂田が一和会を出る。一和会が潰れるのは時間の問題だ。山口組としては勝手に放っておけばいい」と、よけい油断が生まれた。
襲撃に遭った当日はこの本に書かれている通り、物事がいい方向に、いい方向に動いている感じがあった。新本家の上棟式も済んだし、田岡フミ子姐さんの体も回復に向かっていた。夜は中山勝正が誘って、堂島で酒が入った。中山の若い衆がごく近くで詰めていたようだが、外で酒を飲むこと自体、やはり油断があったというべきだろう。

また間が悪いときに、兄には女ができていた。 だが、親分になったからといって、女で恥じる必要はない。二号さんがいようが、三号さんがいようが、たとえ十号さんがいたところで構わない。それこそ男の甲斐性というもので、誰にも遠慮することはない。単に山口組組長の立場を自覚して、ガードだけつけてもらえればよかったのだ。 だが、兄はこのあたり一種の照れから抜けられなかった。
兄の油断と照れのためにボディーガードの南力など、実に気の毒なことになった。
兄がこうして油断したために、一和会に返し(報復)をして、いま現在も長期刑を務めている山口組の若い者が数多くいる。竹中組にも女装して一和会幹部のタマをとった清山礼吉などの共犯者には、無期の若い者がいる。無期を懲役二十年と計算すれば、竹中組だけでも合わせて三百年の懲役になる。こうした若い者のためにも山口組の内部がゴタゴタしてはならない。
今の渡辺芳則五代目組長も兄の若い者だった。私は平成元年四月に山口組を離れたのだが、それでも兄の残した山口組は強くあって欲しいと思う。他団体に侮られてはならない。近年、山口組では若頭の宅見勝が殺され、若頭補佐の中野太郎が絶縁された(平成九年)。 その前から山口組はゴタゴタが続いている。仮にしかるべき人間に頼まれれば、私は外部の人間として、中野問題の解決に動くこともいとわない。それぐらいの気持ちは持っていると言っておきたい。
 六十三年五月、山本広の家を襲撃して警察官三人を負傷させた安東美樹はいま竹中組を離れているが、兄を襲った山広組行動隊長・長野修一と七年前、熊本刑務所で一緒になった。長野は所内で三年間無事故を通したとかで、講堂で表彰を受けたが、このとき安藤は長野に飛びかかる騒ぎを起こしている。
なぜこういうことが起きたかといえば、山口組―一和会抗争のけじめがはっきりついていないからだ。 山本広はあれだけの事件を起こしながら、後々、組員が出所した後、こらえて欲しいとか、黙って見過ごして欲しいとか、一言でも私に弁明なり依頼なりがあったか。皆無だった。山本広は自分さえよければいいと、刑務所に行った若い者のことまで考えなかった。無期の者でも二十年も経てば社会に戻ってくる。長い懲役で罪の償いはつけたわけだ。 だが、問題にはっきりけじめがついていなかったなら、出所したとき、自分は報復され、殺されるのではないかと不安に思うだろう。この意味で抗争のけじめは誰にでもわかりやすい形でつけるべきなのだ。
当時、山本広はきっちりけじめをつけるべきだと感じていたのは、私ばかりではない。
今初めて明かすことだが、たとえば、三代目山口組の舎弟だった中川猪三郎(大阪十三)もそう考えていた。中川は昭和四十年、第一次頂上作戦のころは殺人未遂で服役し、早い時期に一線を退いて堅気になっていたが、田岡一雄組長の舎弟であり、我々の大先輩に当たる人である。
そういう中川が私にある提案をしてきたのは昭和六十三年六月ごろである。その年五月、一和会の加茂田重政が加茂田組の解散と自身の引退を決め、直後に前記の安東美樹らが山本広邸を襲撃、大きく一和会と山本広に揺さぶりをかけた。その直後、中川猪三郎が私に、「自分が山本に会い、一和会を解散させて、あんた(つまり私、竹中武)にことわりさせる(けじめをつけさせる)。自分も山本同様、腕でも落とし、あんたにことわりするから、山本広のことは辛抱してやってくれないか」 というのだ。
私は中川の気持ちは有り難いと思いながらも、お断りした。
「おっさんはもう堅気になってるんだし、三代目当時、いくら山広と親しかったといっても、腕を落とすようなことをしてもらっては困る。それに山広は加茂田をはじめ松本勝美(一和会幹事長代行)など、相次いで幹部連中が一和会を離脱し始めてたので、今は疑心暗鬼になり、誰も信用できない気持ちだろう。山広と会ったところで多くは望めない。わざわざこの件で山広と会うのはやめて欲しい」
また同じころ、田岡組長の若い衆で、早い時期にヤクザから足を洗って信心の道に入っていたY.Jが山本広にこう言ったとも聞いている。
「指を詰め、頭を坊主にしろ。白い着物を着て、竹中武の所にことわり(けじめをつける)に行け。俺も同じように指を詰め、白い着物を着て、同行してやる」 と。

コメント(3)

星 桃二郎> 二度と出てこないと思います。。。

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